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二回目

時は飛んで、1919年フランス ヴェルサイユ

英国成立より前に始まったカペー・ブルボン朝の国王宮殿として機能しているこの地の名を冠する宮殿で此度の欧州大戦に対する講和会議が始まった。

戦勝国となった連合国各国から敗戦国たる同盟国への要求は大まかに言うと以下の通り。

1.オーストリアに対する同盟国負担での侵攻地域における復旧作業を5年以内に行うこと。

2.ドイツはオーストリア、フランスに対して使用した毒ガスによる被害者、遺族に対する一人あたり300万フランの慰謝料を支払うこと。

3.セルビアに対するオーストリアへの1040億マルクの国家間慰謝料一括支払い。

4.同盟加盟諸国の軍備を国力比1%まで制限の上で新規兵器開発を今後20年間禁止。

5.戦争中に国体が変わった国は、旧態へ戻すこと。

この中で同盟諸国から抗議と疑問が上がったのが5番目だが、せっかく苦労して体制を刷新したのに旧態の政治を今後も続けるとなればかなりの屈辱でありストレスとなるから連合国はこうしたと言われる。

最終的に5つの要求+連合国各国が指名した人物とその家族を引き抜く事を大まかな内容として決着。


1920年 日本 東京 東京芸術大学

一人の青年が感動にうちひしがれていた。

彼は即座にここを故郷とすることとした。

青年の名はアドルフ・ヒトラー。数年後に日本国籍を取得し日本名を名乗るようになる。

ほかにも史実ではあの政党や、当時の国家中枢にいたものたちが日本に帰化することになる。特に檜山武と名乗ることになるアドルフ青年は、後に政界に進出して官房長官、国土交通省大臣、文化省大臣を勤め上げた。

ドイツは後に国をまとめ上げていたであろうものが上の講和条件を履行したことで日本に多数移住してしまったためで、国のごたごたが収まらなかったとされている。

ちなみに、ブラウンさんちとアインシュタインさんちは英国。

ロンメルさんちほか数家族は、ムーに移住させられた。


1922年 大西洋

史実では10年前に起きた事故だが、素っ頓狂集団から日本経由で史実のことを聞かされた英国政府が、ホワイトスターライン社とオハナシアイをして、補助金を出し、水密構造の強化や、完全溶接化を行った上で船舶規模は大きくなったオリンピック級二番船タイタニック号が処女航海に繰り出した。

日英同盟に基づいて提供された技術である船舶用電探をフル活用していたが、それでも、海面に出ている部分が少ない氷山は見つけようがないことがある。

氷山に衝突して1時間後、救難信号を受け到着した船たちがいた。

日本海軍の新兵恒例世界一周練習航海中の、海軍兵学校に属する練習艦隊だ。この艦隊には不測の事態(新兵、新任将校では対応できない損傷など)に対応するため教導艦隊と、工作艦が同行していた。

教導艦隊に同行していたのが航行状態でも大破した戦艦を全力発揮可能状態まで修理できる、重装高速工作艦だったのが功を奏したのだろうか。タイタニック号が負ったそのままでは3時間で沈没に至るレベルの傷(船体の半分以上にわたり真一文字に走る海面下の鋼材破断)は、この重装高速工作艦が横付けし、支えながら水中溶接を行い修理を続けながら、目的地であるニューヨークに入ると、この事故と日本艦隊の救難を知ったニューヨーカーが埠頭に押し寄せタイタニック号の乗員乗客が一人もかけることなく、降り立ったことに大歓声をあげた。

タイタニック号の応急修理は、翌日完了したが、念のため、沖合に待機する艦隊に合流する形でタイタニック号に寄り添う形で工作艦が支えながら曳航を行い。沖合の艦隊に合流後は、艦隊内の人員を回してもらい、修理を続けた。

日本艦隊が英国サウサンプトン港にタイタニック号を送り届け、同船は即座に、ドック入りとなった。

英国国王ジョージ五世は、この大惨事から乗客を守らんとするべく迅速に総員退船を決めた上で自身は最後まで残り指揮を続けた船長と、乗客を落ち着かせんと精一杯の演奏を続けた楽団。そして、その後を引き継ぎ沈没という大惨事を土壇場で防いだ勇気ある判断を下した日本練習艦隊に勲章を授与。特に重装高速工作艦2隻には艦長と修理に尽力した工兵一人一人に、国王自らが勲章を名前を呼び授けるという異例の対応を行った。

この対応に東洋の紳士淑女騎士道と博愛に充ち満ちる行いと、辛口で知られる英国メディアが、こぞって褒め称えた。


1924年

アメリカで排日移民法と通称される法律が施行されたが、史実と異なり、アメリカにいる東アジアの中に日本人は観光客としての1週間以内滞在者ぐらいしかおらず、移民目的の渡航者はいなかった。

そもそもこれ自体、アメリカのおいらがヒーロー中二病どもが強引に議会に提出させて、当時の民主党多数派の状態で決めたもの。なので、史実と異なり共和党が多数派となった2年後に廃止され、以後復活はしていない。


1929年

アメリカはニューヨークのウォール街で起きた株価の大暴落だが、大損こいたのは民主党支持者の投資家がほとんどだったことから、民主党は共和党へのネガティブキャンペーンにこれを大々的に利用した。

が、共和党はその成立時から日無との結びつきが強く共和党の支持者が多いロッキー山脈西側諸州にあるその日本との取引を担う上場企業はあのブラックサーズディでさえ、素知らぬ顔で維持か増進をしていたという。

そしてその日夢と、英露はこのアメリカに端を発する未曾有の恐慌を鼻をほじりながら見物するという余裕っぷり。

アメリカでは白人至上主義集団KKKが活動を広げていたが、連邦政府はやっと、一つの国として発展していくことに納得してくれた、西側(旧ネイティブアメリカン諸部族連合)がKKKの活動に刺激され再度独立を叫ばないように対処することに心を砕いていた。

というのも、当時のアメリカ海軍が持っていた戦力のうちおよそ70%が西海岸にいた。

建国時からの友邦にして教師たる日夢は、その気になれば、アメリカをひねり潰せるだけの力を持っていた。可能な限りそれに対応するための戦力を連邦政府は西側諸州に預けていた。またネイティブアメリカンは非常に勇敢な戦士たちであり、西側諸州の州軍や西側諸州に置かれている陸軍基地にいる将兵は常日頃から非常に士気も練度も高いことで知られ、彼らが東側に牙をむかないようにすることに常に一定の意識を傾けねばならず経済政策もおぼつかない状態だった。


1932年

アメリカはこのとき強いリーダーを欲していた。

経済政策に失敗した時のフーヴァー大統領は32年の選挙には出馬せず、ニューヨーク州知事を務めていた、知日家として知られるF・デラノ・R氏を支持。同氏も選挙出馬に前向きだった。

民主党はネガティブキャンペーンのやり過ぎで、国民からそっぽを向かれ、共和党から『全てのアメリカ人に仕事とトランクに100ドル札の詰まった車が入ったガレージのある家を』をマニフェストにして立候補したローズヴェルト氏は8割の得票を得て問答無用に当選した。

この公約はいい意味で破られることになる。


「話せばわかる。」

これをいった犬養氏が殺害されかけたのは5.15事件だが、このときと、次に述べるある事件は、悪化しつつあった時の陸軍と海軍の仲が一時的にであるが決定的と言われるまでに悪化した時期といえる


1936年

2月26日未明、帝都に戒厳令が敷かれ決起将兵が雪の帝都を駆け回り総理官邸、蔵相邸などを襲撃した。

史実ではだるまの愛称で親しまれた蔵相高橋是清が亡くなっているが、この世界では違った。

「食らえ、戒厳令返し。」

元々この当時の陸軍を絶対的といえるほどに信頼していなかった、我らが素っ頓狂集団から、クーデターの情報を得ていた海軍と宮内省は、襲撃されるであろう場所に海軍海兵師団を配置、陸軍にも極秘で宮城内部にも海軍海兵師団を配置し、カウンタークーデターをかました。

どっちかといえば、個人火器は海軍海兵師団で新規予定火器のテストが行われ陸軍へと回るのだが32年の5.15事件以来防衛省と海軍の陸軍に対する視線は冷たかった。

結局襲撃したところで文字通り袋のネズミとなり、そのまま豚箱行きと相成りました。

海軍は特に、海軍将兵の信頼と人望を一気に集め陛下からの信頼も厚い、侍従長鈴木貫太郎海軍元帥が重要襲撃対象になっていたことに激怒。防衛省に対して、陸軍の個人火器試験への協力打ち切りを一方的に通告し、東京湾には海軍の第一艦隊が陸軍の駐屯地を標的としていた。

この事件後、陸軍に対する国民からの風当たりは強くなり、辞表提出が続出した。

これに対し、帝都映像放送(後の東京帝都テレビジョン)が茶道や華道と並び、女子のたしなみとして戦車を使った女子だけの武道が浸透している世界での女子高生たちの成長と試合の様子を描いた「戦車道物語」(再制作時は皆さんご存じのタイトルに)が、放送し、作成協力に帝国陸軍の文字を見た大きなお友達に端を発して、陸軍への風当たりは徐々に柔らかくなっていった。

徐々にきな臭くなる欧州情勢をにらんだ海軍が謝罪と先の通告撤回を宣言したのも効いた。


ドイツ ベルリンオリンピック開催

史実と違い鍵十字ではなくまだ落ち着いたドイツ国旗のままだった。

何せまだドイツ帝国なのだから。


1939年

ドイツ帝国はポーランドに攻め込んだが、ロシア帝国陸軍に返り討ちに遭ったバルバロッサ作戦失敗事件があった。

日本は欧州列強に対して、とにかく1940年中は事を起こさないでほしいと通告。41年になったら思いっきり力を貸すからとも通達した。


1940年

日本が、とにかく穏やかにこの年を終えたかった理由。

それは同時に日本。それも東京で開催されることとなっていた万国博覧会とオリンピックだった。また、冬季大会も日本で開催され、こちらは長野で。

この長野で開催された冬季オリンピックがくせ者だった。

我らが素っ頓狂集団と、その経済を率いる4企業体は通常と逆の意味でお金に困っていた。そして、長野でのオリンピック開催。

主師しゅさの預金全部つぎ込め。

インフラ?任せろ。建設?どんとこい。

口はださんからかねを出させろ。何予算が決まっている?無視してつぎ込め。IOC委員の胃に穴を開ける勢いだ。

主師が愛する長野を。かつて東京あずまみやこと呼ばれたこの地がいかに日本のほかと異なるか他国に。特に白人至上主義者に見せつけるのだ。」

素っ頓狂集団のうち、周りから銀色民族衣装とあだ名される女性の言葉である。

まあ、彼女の話し方は独特のため、直している。

原文では、

「主師ん預金ば全てつぎ込ん。

あ?インフラ?任せん。たたすん?ほっとけ。

口ばださんけ金ば払わせ。あ?予算決まっと?んなもん知らん。出せ。IOC委員ば、海でおぼれさせ。

主師ばすいとう長野のな、かつては東京ば呼ばれとう土地を日本の他とちゃうか見せるんよ。特にあの自分たちが一番偉いんじゃって顔しとう白いのんに。」

といっていた。

万博においては素っ頓狂集団本気を出してパビリオンを作り、それを基準に土地を決めたら、関東平野がまるまる会場となりかけたというなんともスケールの大きなお話が。

そして本命のオリンピックが無事閉幕したとき、日本側の担当者は全員欧米各国の首脳の前で大泣きしながら感謝の辞を述べたという。

素っ頓狂集団から、史実では幻となった1940年の五輪、万博同時開催。一時期は史実と同じになりかけたところ欧米列強(先の大戦における同盟国)の協力で成功し、感動もひとしおだったのだろう。

そして心労もひどかったのだろう。近衛首相が万博が終了した11月頭に職を辞し静かに息を引き取った。通夜の際の故人の表情はとっても満足げなどや顔だったそうです。近衛氏の後任には総務省で辣腕を振るっていた総務次官、東条英機がえらばれ、近衛氏国葬の後に行われた解散総選挙の際に素っ頓狂集団はめられて立候補させられ、根回し十分の帝国議会で総理大臣に推挙され、組閣の大命が下った。ここからの10年を日本、百済、ムーの太平洋日本語圏と、中国をはじめとする漢字圏では東薔薇時代。英語圏ではEastern Rosen Age略してERAとよぶ。

太平洋を取り巻く2大大国の首脳。日本の東条とアメリカのローズヴェルトとの間に存在した非常に強い友情と、それに起因する今日まで続く日米同盟の礎となる同盟だった。

互いを「ヒデ」、「フランク」と愛称で呼びあい、互いに互いを招待し合う現代から見でもこんな仲になっていたのは二人が初めてという仲だった。


1941年

ドイツが、オーストリアなど東欧、中欧諸国に奇襲を行い、オーストリアの西半分とポーランドの南半分を占領、併合。大ドイツ帝国を宣言。

また、セルビア、中華民国とともに、40年12月塞中独3国枢軸同盟を締結。41年春の開戦までにパキスタン、大韓帝国などが加盟した。

対してドイツがオーストリア攻撃時に駐留していた日本軍まで無駄に攻撃したことで、かつての同盟国+オーストリアがフランス王国ベルサイユ宮殿で対枢軸連合の結成会議が開かれ、自らを自由連合国家群と称し、通称を連合国United Nationsとした。

そんな連合国の象徴ともいえる船が、日本で就役した。排水量6万8千トン、全長290m強。3基の3連装主砲を備えた、日本帝国海軍の新たな象徴 大和である。

その造形はとても未来的だった。が、日本からしたら当たり前の造形であった。

26000年の歴史を持つ日本は遙か昔に船の造形における最適解といえるものを見つけていた。それが、この未来的な曲線を多用した造形だった。造波抵抗の極限化。運行高効率化、そして、戦闘時の最大安定化を彼らにもたらしたこの造形は、素っ頓狂集団のお船からインスパイアされて生まれたデザインだった。

同時期に設計され、生まれることとなった、日本の大和型8隻にアメリカのアイオワ級6隻、ムー帝国のヒラニプラ級4隻と英国のV級(Vanguard Class)2隻をまとめて、Nadeshiko Club(撫子倶楽部)と称し、日本、ムー以外では最後となる戦艦の栄光華やかりし時代を物語っていた。

同時に翔鶴型8隻、隼鷹型16隻、エンタープライズ級10隻、ワスプ級6隻、アランガー級2隻、アークロイヤル級4隻のスカイチームは新時代の幕開けを祝っているかのように堂々たる空母の威容を誇っていた。このうち日本間24隻とムーの2隻はジェット対応の現代の我々から見慣れた、あのアングル度デッキを備えていた。

対する枢軸もドイツのビスマルク級や、中華民国の長江級など戦艦をそろえていたが連合側の主砲経がが最大51cmに対して、枢軸側は最大38cmと大きく見劣りしていた。

そして、戦端を開くのはまたお馬鹿である。

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