スタートします。
今回もあの素っ頓狂集団率いるお祭り大好き国家が大騒ぎする。どうなるかはお楽しみ。というか作者もどこへ向かうかはわかっていない。
彼らとは20年近いつきあいだが、もう自由すぎてお手上げなのだ。
世界史を語る上でどこの国の教科書にも登場する国名がある。
大日本帝国
有史以前。記録があるだけでも2万年。神話の上では更に6千年の歴史があるとされる、世界最古の国家にして最後の絶対君主制帝国である。
その版図は太平洋にある大国ムー帝国を囲むように太平洋の全島々は日本領である。
この国を欧米諸国が初めて意識したのは15世紀から200年ほどの大航海時代。
マルコポーロが元の都で訊いた東方の黄金郷ジパングの話が元だった。
その話に魅了された欧州各国はこぞって東へと船を走らせた。
しかし、戻ってきた船は無かった。
初めて欧州人が、日本に接触できたのは1500年代後半とされている。
だが、皇紀25967年に日本が、日英同盟900周年と、ありもしない記念日をぶち上げたら、英国もこれに乗っかった。確かに英国は西暦1066年にウィリアム1世がブリテン島と、アイルランド島を征服し統一して生まれた国であるが、その時代から日本と交流があるとはさすが二枚舌の英国という印象を持った欧州各国だが、英国は、欧州内で最も先進的な考えの持ち主だった。
大英博物館と日本の帝国総合学芸博物館に収蔵されている物はその2つを合わせることでメソポタミアや、エルサレム、中国文明、ナスカの地上絵や、マヤ文明など古代文明の謎とされる物が一気に解決できるとされている。そのため歴史学者や考古学者は両者に資料の検証を依頼しているが、両者は、これを、貴重な歴史的遺産を保護することを理由に断り続けている。唯一ムー帝国の帝立博物研究院が、両国からの資料データを蓄積し続けている。これは、まあ文明レベルの差が英日夢と他の国では1000年レベルで異なるからとも言われている。
日本がこれほどまでに発展した理由として挙げられているのが、日本本土の南方。地方区分としては関東地方に属する小笠原県最大の島、沖ノ鳥島東島全体に残る、現在も現役の遺跡だ。
世界最古の記録である日本書紀においても、神話をまとめたとされる古事記においても、「遙か彼方の高天原より天津神が日本に降り立つ際につかった天津舟であるとされている。」としか記されていない。
ただ、英日夢と国交があり、日夢以前の歴史も知るとされるとあるところ曰く、「あああれ。あれはねえうちの戦艦のボディ。古くなった艦体をメインフレームのストレージだけ入れ替えて日本にプレゼント。動力炉は最新に入れ替えておいたから。」だそうだ。
この遺跡の最奥にあるとされる、動力炉は現在も日本各地に莫大な量の動力(電力)を供給している。その量は、日本の鉄道が全て電化されている上に物流の大半をになっている長大な貨物列車を超大出力の電気機関車が平均5両連結で牽引していること。日本を走る自動車のおよそ85%がEVやPHVであり、その充電のために使う充電スポットが、国内数百万カ所に及ぶこと。そして、国内の全ての施設が、給湯光熱を含め、全ての動力を電化しているから想像は付くと思うが、それでも、全体容量のわずか数%しか使っていないというのだから、どれだけ、莫大な量のエネルギーが生み出せるかという物だ。
それだけでは無く、この沖ノ鳥島東島は本土の富士山や台湾の南岳山(新高山)を遥かに超え、世界最高峰の標高に位置する人口500万人の都市を有する。
それが、沖ノ鳥島東島小笠原県艦橋市。海抜6000mの艦橋山山麓から中腹海抜一万mまでに広がる大都市だ。
小笠原県の県庁もここに置かれている。
日本建国の時代からあるとされ、艦橋山を囲むように存在するこの都市は、まるで、艦橋山にある何かを守るかのように艦橋山への立ち入りを拒んでいる。というか、彼の国の軍人で無ければ艦橋山の頂へ至る方法を知らない。
そんな日本が現在までにたどった道は他国と比べるとかなり平坦だった。
皇紀24784年
時の大日本帝国天皇に即位したばかりの青年は慣例に従い、高天原からの天津舟へと向かった。
『都を東へ移し、兵を、鍛えよ。財をそろえよ。いずれ外つ国との戦となる。まとまりにほころびの見える帝国を一つにまとめるべし。東移遷都はこれ帝国をまとめるすべなり』
その託宣を受け、勅令でもって、遷都が決まり、列島本州の向きが東西から南北に変わる地域、地震を受けても津波に襲われない場所という選定が行われ、新たな都の場所が決定された。
150年後
東に移った都の皇宮に近い貴族階級が住むあたりを一人の礼服を纏った貴人が歩く。街灯の下に見える礼服の種類は陸式第3種礼装。
「従兵もつけずに夜歩きか?大将殿。」
「おまえには言われたくないな。情報相殿。」
「高級将校が人の家の前でうろついたら寝覚めも悪いわ。それに、朝臣宮の当主が、こんなとこにいても騒ぎになるだけだ。どうせ頼み事があるんだろう。入れ。」
門構えから相当な貴族であるとおぼしき屋敷の門に男が寄りかかり貴人に声をかけた。
道を歩いていたのは皇室を形成する宮家の当主にして、陸軍大将。声をかけたのは、彼の長きにわたる良き友にして理解者たるとある閣僚。
閣僚側は、国内外の裏表を知り尽くし、人外領域までも知る、陰陽官と呼ばれる官僚が集う帝国情報省の主。他の省庁の大臣は、総理大臣が推薦し天皇が任命する方式をとるが、情報大臣はその特殊性故に天津舟において天皇と同じ託宣を受けた物を天皇自ら指名する方式をとっていた。
「まあ、飲め。今日はおまえの婚約決定を祝おう。俺の本体さんからもおまえの本体さんからも祝いの電報が届いてる。」
情報相の言う本体とは、魂魄の根源を同じくする存在のうち、最も根源の占有率が大きく能力値が高い存在を指す。
「ただな、全部俺のところに届くんだ。だから今日おまえが持って帰れ。何、車は貸してやるさ」。
え?これ話に関係あるかって?…あー…。たぶん無い。
じゃあなぜ書いたか?
それは作者にもわからない。
この世界で江戸時代が終わったのは八代将軍吉宗の時代とされる。
まあ、読者にわかりやすく江戸時代と称したが、この世界では当該時代区分はその初めに連立政権を樹立した、両者の頭文字を取り豊徳時代と呼ばれる。
豊徳時代の終わり、豊徳政権第10代内閣総理大臣松平頼久が自身の政策が結果的に国民生活に悪影響をもたらしていたことを知り、政権を朝廷に返上。朝廷は国会に諮り、すぐさま時の財務兼経済通商相、田沼を臨時の総理に指名した。
田沼は、湘南島に使節を派遣、英国とはかり、ムー帝国を巻き込んで密かに海洋三大帝国同盟なる物を締結しようと図った。
田沼は宝暦天皇(史実における後桜町天皇)にこれを上奏し認められるも、天皇自ら出向くことを条件とされた。それを知った天津舟が艦隊を差し向け、大日本帝国領マニラで、条約が締結された。これが豊徳時代の終わりとされ、宝暦天皇が崩御する、1745年までを宝暦時代と呼ぶ。
大日本帝国では天皇の生前退位は認められているというか推奨されている。健康なうちに次代に国を託すことを良としているのだが、宝暦帝は、最初兄が帝位を放り投げ仕方なく即位したが、思いの外仕事が面白くなってしまい気づいたらぽっくり逝ってしまっていた、よくある、ぴんぴんころりである。
まあ、結婚していて、皇太子も決めていたし、面白くなっていたとはいえ、晩年は皇太子に仕事を振っていたこともあるので、皇太子の即位と仕事の引き継ぎはスムーズに行われた。
1850年
数年前に即位したばかりの新天皇は遙か昔旧時代的考えを持ち、現代文明を毛嫌いした上で、官民一体で行っている開国対外貿易を勅令を出してまで禁止しようとした。
そのため政権末期の某民主主義政党も真っ青の小数点以下支持率で在位していたが国内、特に皇子率いる家族をはじめとした宮中からの要求に屈した天皇が、息子に譲位を行った。
これを受け即位した者は睦仁の名を持つ者だった。
史実において睦仁帝は1852年の生まれだがこの世界では1847年の生まれである。
憲法の規定により18歳以下で即位した者は天津舟で日本の頂点に立つ者として育てられつつ執務を行う。
この規定に則り、わずか5歳の睦仁は父母姉弟とともに天津舟に移り、日本本土の外から客観的立ち位置で日本を見ながら国政を行うこととなった。
睦仁帝の即位を持って元号が改められ明治となった。
1853年 明治3年
江戸湾浦賀港
無許可で、4隻の舟が入港してきたが、馬鹿め政府はそこから優に50里は離れておるわ。と、ほくそ笑んでいたところを空砲とはいえ無許可船が発砲したため、こんにゃろ、フカのえさにしてやるとばかりに、香取海にいた艦隊を差し向けて、相手の射程外から旗艦とおぼしき蒸気外輪船を残して沈めた。
旗艦に乗っていたアメリカ合衆国インド洋艦隊提督ペリーはうなだれていた。
自国でさえやっと外輪蒸気船が外洋に出始めたというのに、この極東の島国では、外輪が無い金属船が。それも自分たちが乗ってきた船よりも遥かに巨大な船が何隻も行き交っていた。
子供の頃、イギリスを通してのみ情報が入ってきていた、このジパングがいったいいかなる国かを知るために来たのに、部下が勝手に発砲したことで、その軍事力の一端を見ることも出来たが、国に帰ることはかなわなくなった。
と考えていたら、日本外務省に呼ばれ、そこで、英国女王ビクトリアと、母の外遊に付いてきていた皇太子エドワードに出会った。歴史書では、このときエドワードに対して生涯の忠誠を誓ったとされる。
そして、大阪の港に泊まっていた、王室専用船を見て、ペリー提督腰抜かした。
だって、浦賀に入ったときに見た日本の巨大金属船とそっくりなんだもの。
何でも6年前にヴィクトリア女王在位20周年を祝して、150年ほど前のアン女王即位を祝して贈られた船を継ぐ形でおくられたそうな。
それを大事に使っている英国もあれだがこれほどの元を無償で引き渡す日本も日本だ。そうペリーは思った。
日本は英国と協議の上で、室蘭、仙台、名古屋、神戸、博多、大分、松江、金沢、富山、秋田の10都市にある港湾を欧米諸国に今後50年をかけ整備、開口していくとのことが決まった。
1872年10月14日帝都を中心に日本を縦横無尽に走る鉄道網のうち東都から横須賀、小笠原諸島を経由して艦橋市に至る国鉄小笠原本線と、ムー帝国国立鉄道西海岸線が結ばれた。
翌月 現在まで使用されている、公衆風俗管理法が施行された。これは史実における風俗営業法である。
ここでは、各県に最低一つ、遊郭街の設定が規定された。
史実では昭和年代に改正された風営法で廃止された遊郭だが、あの素っ頓狂集団が遊郭有る方が、性犯罪少ないし、公営風俗はもうけといた方が良いよといわれて、規定となった。この規定は令和となった現在も残っている。
まあ、居るのは、そういうの大好きな人たちだし、公営店は、そういう関係の病気対策や、建物が綺麗、お手頃価格(それでも両手万円)、担当者の質が高いと言うことから人気が高い。
それ以上に高い人気を誇るのが我らが素っ頓狂集団率いるLLCA系のお店。見てよし、触れてよし、味わってよしの三よしがなんとまあ、数千円で楽しめるとあってお客が殺到。
これには、LLCA系特有の理由からしたくなかったけど、嫌々ながらしとかないと質が落ちてしまう。ということで、完全予約制に成ったが、それでも予約は3年先まで埋まるレベル。制定1年後でこれである。
年の瀬も押し迫った12月28日
何も今せんでも良いのに、陸軍が、制服のデザインを変更し、それと併せて国防大学陸上科の入試、進級、卒業がめちゃくちゃ難しくなった。それでも、毎年定数がしっかりと供給されるのだからここの学生はよほどのMだと神子は言う。
1875年6月
中央省庁再編。気象庁が総務省から国土省に所属変更され、天気予報を作るサーバーが強化された。
時は一気に20年近く飛ぶ。
佐世保に清国北洋水師に属する装甲砲艦(日本の基準から見て、これを戦艦と呼ぶのは絶対にいやだった。)定遠が寄港した。
日本をものすっごい見下して寄港した定遠の乗員一行は佐世保鎮守府に泊まる第3艦隊を見てせせら笑った。日本の艦隊はこんな物かと。
彼らは佐世保での飲み食いを踏み倒し長崎に移動。乱暴狼藉を働いて呉に向かった。が、そんなヤカラを帝国が瀬戸内に入れるわけがなく、天津舟こと、ご存じ素っ頓狂集団率いるあの国が許すはずもなく。
東シナ海に出たとたん速攻で捕まり、強面体育教師に耳を持たれて連行食らうヤンキーのごとく後ろ向きで曳航される定遠号。それにすごすごついて行く鎮遠他2隻。
横須賀に連れて行かれた4隻はその場で、全乗員が捕縛、全乗員に傷害、婦女暴行、窃盗、その他相当する罪で起訴された。なぜ横須賀なのかと言えば、帝国海軍の第一艦隊が持つ格の違い(装甲砲艦なんておもちゃを戦艦と言い張る清国に対して、日本の基準での戦艦はこれという物を見せて、ざまあしたかったというのもあるだろう。)
清国は抗議するが、死罪としないだけ感謝しろ。何、一部を除き相応の金払えば今日にも返してやるよ。まあ、食い逃げと盗人だけだけどな。
といわんばかりの勢いで返答した帝国外務省でした。
新年度です。新元号です。新時代です。だから急ぎ、一話目だけ書き上げました。
基本主人公は平成最後まで出てきません。
令和スタートだから良いかと考えています。
後書きに書いているのは、前書きに書くよりはと考えてのこと。
二話目はいつになるやら。毎度のことながら超気まぐれ更新です。