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『「またね」』関連作品

黒薔薇とチーズケーキ(旧版)

作者: ソラヒト

 エスノ先輩は、堕落先輩とおつきあいを始められて、「堕落マン」というあだ名を使われることはなくなりました。

 それは当然の成り行きだと思います。

 私としても、いつまでも何度も「堕落」という単語を重ねることは、親愛なるゼミの先輩に呪いの言葉を吐き続けるようでしたから、できればもうやめたいと思っていました。ですので、私もエスノ先輩に倣い、「堕落先輩」はもう使わないことにしようと思いました。でも、「エスノ先輩」のように気に入った呼び方が思いつかないので、それが思いつくまではとりあえず「D先輩」とするのはどうかな、と考えました。

 エスノ先輩にこのことをお話してみると、「そうね、あまりいじめるとぐれちゃうもんね」ということで、了承していただけました。よく考えてみると、もうあだ名を使わずにご本名でお呼びしてもいいような気がするのですが、親愛なる先輩のプライバシーを尊重するために、「D先輩」を採用することにしました。


    *      *      *      *


 年明けにD先輩と会ったのは、2月に入ってからでした。

「もうお身体からだの具合はよろしいんですか、先輩?」

 私はエスノ先輩から、D先輩が入院されたことをうかがっていました。

 そのときはもうD先輩は間もなく退院されるという頃で、私は一度もお見舞いに行くことができませんでした。

「まだまだではあるんだけど、ゆっくりなら動けるし、留年したくないから」

 確かに危ないところでしたが、D先輩は後期試験にぎりぎり間に合われたのでした。

「全部の科目がきちんと受けられたわけでもないし、受けたにしてもろくに点が取れなそうなのもあるし。まあ、いくつか落とすと思うけど、追試と再試とレポートでなんとかなると思うし、ひとつやふたつなら来年度再履修するよ」

「いっそ、私と同級生になってくだされば、私がいろいろ教えてあげますよ」

「やだ」

 D先輩は即答されました。私はちょっとだけ本気だったのに。

「先輩は、なんで私に入院したことを教えてくださらなかったんですか? 私だって、知っていれば遠くてもゼミ代表でお見舞いに行ったのに」

「うーん、そんな余裕はなかったし・・・タマキの電話番号が分からなかったし」

「ええっ! 私、教えましたよね」

「メモは部屋に置きっぱなしのまま帰省しちゃったんで」

「ひどいです、先輩。だったら、今あらためて電話番号を交換しますから、手に書くなり暗記するなりして、忘れないようにしてください」

 私は独断で、手帳を出しました。

「ほら先輩、ここに先輩の電話番号を書いてください」

 私は自分の部屋の電話番号を書き、ページを破いてD先輩に渡しました。

「分かったよ。タマキの番号はトイレにでも貼っておけば、覚えられるかな・・・」

 D先輩は気乗りしない様子をされていましたが、今回はきちんと番号を教えてくださいました。

「いいですか、先輩。私、今晩電話してみますからね。もし嘘だったら、許しませんよ」

「嘘じゃないよ。出ないかもしれないけど、留守電になってるし」

「留守電じゃ本当かどうか分かりません。ちゃんと出てください。21時から22時の間にかけますから」

「眠ってるかもしれないなあ」

「だまされませんよ。宵っ張りだってこと、先輩が教えてくださって知ってるんですから」

「ずいぶん厳しいな」

「先輩には、これまでいろいろごまかされてますから」

 D先輩は苦笑いされていました。


    *      *      *      *


 21時ぴったりに、D先輩から教わった番号に電話をかけました。コール3回で、受話器が上がりました。

「もしもし」

 私が言っても、D先輩の声は聞こえてきませんでした。

── あ、タマキちゃん? こんばんは。

 そうです。電話に出てくださったのはエスノ先輩でした。

「こんばんは。D先輩のお部屋、でいいんですよね?」

── うん、間違ってないよ。あの男、今お風呂に入ってる。タマキちゃんから電話が来るかもしれないから、もしあがってないときだったら代わりに出てって、言われたの。

 逃げたな、と思いました。

 私は、D先輩がなかなか電話番号を教えてくださらなかったこと、教えてくださった番号が正しいものか確かめたかったこと、私の電話番号を覚えてくださらないことについて、エスノ先輩に話しました。

── 番号を教えたがらないというのは、らしいといえばらしいけど。

「そうですか?」

── 私にもなかなか教えてくれなかったなあ。でも、タマキちゃんの番号は、暗記してないかもしれないけど、あいつがいつも持っている手帳のアドレス欄に書いてあったよ。

「本当ですか?」

── うん。私がこの前タマキちゃんに『西洋音楽史』の件で初めて電話したときは、あいつにそれを見せてもらってかけたんだから。

 D先輩は、やっぱり嘘つきでした。あ、でも、「メモは部屋に置きっぱなし」というのは嘘になりませんね。嘘つき、ではなく、たちの悪い先輩でした。

「D先輩は、ひとりでお風呂に入れるくらいには元気になったんですね」

── そうね、それなりに前から、お風呂とトイレぐらい自力でなんとかするから、ついて来るなって言われてた。

「ずいぶん偉そうですね、D先輩は」

── まあその分元気になってきたから、妥協してあげてるわ。

 エスノ先輩は優しいな、と思いました。

── そうは言っても、やっぱりまだ心配だから、なるべくそばにいてあげるようにしてる。

「D先輩には非常にもったいない彼女さんですね」

 エスノ先輩はフフッと笑っておられました。

── タマキちゃんだって、ずいぶんもったいない後輩だよ。

 エスノ先輩と私はふたりで笑ってしまいました。

「今年も劇団は忙しいんですか?」

── うーん、そうね。実は夏に海外公演が決まっていて。

「海外ですか! すごいじゃないですか」

── 海外って言っても、ヨーロッパやアメリカじゃなくて、近隣のアジア諸国よ。

「それにしたって充分すごいですよ」

── まだどこの国になるのか、全部は決まっていないんだけど、台湾は決まっていて、他に3~4か国になる見込み。

「そんなにですか」

── そうなの。だから、1か月くらいかかるんじゃないかって言われてる。

「たいへんですね」

── でも、自分がやりたいことだから。演目は過去に私も舞台に乗ったひとつだけだし。もしかしたら、夏休み前の課題を素早く終わらせなくちゃいけないのが、いちばんつらいかもしれないわ。

「ああ、それは確かにきつそうです。ん? ひょっとして、前期試験の日程とかぶるんですか?」

── ううん、そこはさすがにかぶらない予定だけど、試験が終わったらすぐに出発することになりそう。

「やっぱり、きつそうですね」

── 課題のレポートくらい、代わりにあいつがやってくれたらいいんだけど、残念ながら学科が違うし、仮に任せちゃったら私が留年しそうだし。

 私はくすくす笑ってしまいました。

── それでね、タマキちゃん。

「はい」

── タマキちゃんにだから言えるんだけど、私がそばにいられないとき、やっぱり心配なのよ、あいつのこと。夏の海外公演のときだけでなく、いつだって。

「ああ、そうでしょうね」

── 夏頃にはずいぶん元気になっているとは思うんだけど・・・タマキちゃん、もしよかったら、これからもときどき突っ込みを入れてあげて。

「突っ込みでいいんですか?」

── タマキちゃんに面倒をみてもらうなんて、100年じゃ足りないくらい早いし、贅沢すぎだわ。むしろだらしないところを、やつあたりも兼ねて怒ってあげてほしいのよ。突っ込みだって、本当は申し訳ないくらいだもの。

「仲よくしていただいているゼミの先輩ですから、ちょっとだけ気にしておきます」

── うん、ありがとう。それでもう充分すぎるくらい。

 私とエスノ先輩は20分くらいおしゃべりしました。D先輩の話題の他に、学校の近所にできたケーキ屋さんのことが話題になりました。ベイクドとレアの2種類のチーズケーキが特においしいという噂でした。

── あとで食べなくちゃいけないわね。これは使命だわ。

「そのときは、ご一緒します」

── そうよね、3人ではなく、ふたりで行こう。

 エスノ先輩は笑いながらおっしゃいました。そう気楽に言えることが、少しうらやましいなって思いました。

 D先輩はお風呂から出ていらっしゃらないようでした。今度会ったときはエスノ先輩の指示どおり、怒ってあげようと思いました。


    *      *      *      *


 新年度になり、エスノ先輩と私が同じ講義をとることはなくなりました。

 それでも、学内で行き会ったときにおしゃべりしたり、ときどきは電話でもお話しました。

 たまにはD先輩を通じて、エスノ先輩の近況をうかがうこともありました。そんなときD先輩はいつもばつが悪そうにされていました。

 私はD先輩によく言いました。

「そんな態度はよくないですよ。彼女さんを見習って、もっと堂々としてください」

「でも・・・そうは言うけどさ」

「もう、もじもじして。どこの照れ屋のお子様ですか。おっさんがかわいこぶっても気持ち悪いだけです」

「タマキ、ボクに対してずいぶん冷たくなったな」

「彼女さんに頼まれていますので、突っ込んであげているんです」

「なんて頼りになる後輩なんだ」

「先輩が頼りにならなすぎなんです」

 D先輩はいつもの苦笑いをされていました。

「そうだ、先輩」

「なんでしょう、後輩」

「後期の試験結果はどうだったんですか? 留年は避けられたようですが」

 D先輩はまたも得意の苦笑いをされていました。

「まあ、予想どおりというか、いろいろ落としたりして」

「ええっ! それで大丈夫なんですか?」

「んー、ひとつは一般教養パンキョーの『映画史』で、パンキョーの必要単位はもう取れてるから、これはまあいいんだ」

「はい」

「次は『現代日本語文法』で、これはなんとか再試で助かった。で、次は」

「まだあるんですか」

「あるんだよ・・・いちばん笑えないヤツなのに、いちばん笑っちゃうのが」

 よく意味が分かりませんでした。

「『ドイツ語Ⅰ』を再履修するんだ」

「『ドイツ語Ⅰ』って、必修だから単位を取らなくちゃダメですけど、どうして・・・」

「それが、聞くも涙、語るも涙でさ。まずホンチャンの時は、退院してすぐで受けられなかったんだ」

「ああ、なるほど」

「で、追試があったんだけど、再試はなくて」

「それで?」

「追試の日程を間違えていて」

「ああもう、何やってるんですか!」

「いや、1日間違って覚えてて、そのことに気づいたときはもう終わってたんだ」

 私は右手で自分のおでこを押さえてしまいました。

「な、聞くも涙だろ」

「涙が出るとしたら、あまりの情けなさにです。おバカすぎです、先輩」

「否定できません。行けば絶対単位はくれるって分かってたのに、まさか日にちを間違っているとは・・・」

「で、再履修ですか。じゃあ、新入生と一緒になるんですか?」

「いや、それだと内容が難しいままだから」

「難しいって、先輩。『Ⅰ』は基礎の方ですよ。『Ⅱ』は取れたんですよね。だったら」

「だって、少しでも楽な方がいいじゃん。だから、落とした連中ばかり集めた方のコマにした」

「あの、先輩」

「なに?」

「内容はずいぶん楽かもしれませんけど、試験を受けなければ単位は取れないんですからね」

「はい。とてもよく承知しているつもりです」

「まったく。今年は先輩の試験日程を確認しますからね」

「え? タマキが? そんなに甘えていいものだろうか・・・」

「もちろん、先輩がイヤなら無理にとは言いませんよ」

「いえ、是非お願いします」

 そのときの会話はそれで終わりました。

 まったく、仕方のない先輩です。でも、実は私はそんな先輩をちょっとかわいいと思ってました。


    *      *      *      *


 D先輩は相変わらず、研究室の集まりにもゼミの集まりにも寄りつかれませんでした。

 顔を出すのは最低限で、たまに研究室の掲示板をご覧になっていらしたようですが、定かではありませんでした。体調不良のためかもしれないと、普通なら考えるところですが、D先輩に限ってそれはないと思いました。

 私はD先輩の電話番号を教わっていましたので、時折電話をかけて注意を促しました。D先輩は在宅しておられるのかおられないのか、いつも留守番電話に話すことになってしまいました。

 私はD先輩に行き会ったときに文句を言いました。

「なんで私の電話に出てくれないんですか」

「いや、タマキがボクの留守の時ばかり狙ったようにかけてくるから」

「・・・嘘」

 私ははすにかまえてD先輩を睨んでみました。

「う」

 D先輩は少しうろたえて、「すみません」とおっしゃいました。

「だって、タマキは最近怖いから」

「こんなにかわいい後輩が怖いなんて、ひどいです」

「タマキ、ずいぶん逞しくなったな」

 いたちごっこの会話になりそうでしたので、私はわざとため息をついてから、話題を替えてみました。

「そうだ。先輩、以前に約束してくださったジャズの鑑賞会を、そろそろお願いできませんか?」

「そう言ったことは覚えてるけど、約束してたっけ?」

「逃がしませんよ、先輩。いつもごまかされてますから、今回はそうはいきません。『第1回』として、開催していただきます」

「まさか、定例化するとか・・・」

「まだまだたくさん、いいディスクがあるんですよね、先輩」

「そうだけど」

「私にいろいろ教えてくださるんですよね、音楽仲間として」

 私は更に踏み込んでみました。

「分かったよ。タマキにもかなわないや」

 D先輩は「にも」とおっしゃいました。他にいるのはエスノ先輩だろうことは容易に想像できました。

「なら、ボクとタマキの他に、あいつも入れていいかな。仲間はずれにすると、殺されるかもしれないから」

「彼女さんですね。もちろんです。むしろいてほしいです。あと、先輩は何度か殺された方がいいと思います」

「・・・もう勘弁してください」

 D先輩は「今度のゴールデン・ウイーク中にやってみようか」とおっしゃいました。

「その頃はぼちぼち元気だろうと思うけど、ボクの調子が悪くないときにね」

「もちろんそれは大事なことです」

「場所は、ディスクのこともあるから、ボクの部屋にするか」

「先輩のお部屋ですか、それは楽しみです」

「是非お手柔らかにお願いします」

 後日、エスノ先輩からご連絡をいただきました。D先輩の最寄り駅の、西口の改札を出たところで、15時に待ち合わせすることになりました。

── まだちょっと先のことだけど。

 エスノ先輩はおっしゃいました。

── 病人はほっといて、私が迎えに行くからね。

「それは助かります。いちばん確実な方法です」

 D先輩のくしゃみが聞こえてきそうでした。

 開催は5月5日に決まりました。エスノ先輩のスケジュールにあわせて、「この日がいちばんのんびりできると思うから」ということが決め手になりました。


    *      *      *      *


 当日、私は電車に乗る前に、自分の最寄り駅に近いお薦めのケーキ屋さんに寄って、レアチーズケーキを買いました。ベイクドもあれば、と思いましたが、扱われていませんでした。レアだけでも買ったのは、エスノ先輩と、あとで例のお店のものと食べ比べができるからです。

 お店に寄ってからでも、思いのほか早く、待ち合わせ時間より20分前に着くことができました。でも、エスノ先輩は既にいらしてました。

「タマキちゃん、ここだよー」

 エスノ先輩はそうおっしゃりながら手を振ってくださいましたが、この日の服装は青一色で不思議なデザインのワンピース(だと思いました)を着ていらして、それだけでもすぐに分かったと思います。

「タマキちゃん、それ、おみやげ?」

「はい」

「おっと、催促しちゃったみたいで、ゴメンね」

 エスノ先輩は「しまった」という表情をされました。

 私は何を買ってきたのか説明しました。

「さすがタマキちゃん、ブラヴォーよ」

 エスノ先輩は喜んでくださいました。

「あ、申し訳ないんだけど、そこのスーパーに寄らせてもらってもいい?」

「もちろんです」

「それから、とりの唐揚げ、大丈夫?」

「大好きです」

「よかった。私が腕をふるうから、楽しみにしてて」

 エスノ先輩は左腕で力こぶのジェスチャーをしてくださいました。

「それと、タマキちゃん、アルコールは大丈夫?」

「はい。人並みにはいけると思ってます」

「ウイスキーでもいい?」

「あ、ジャズだからですか」

「それもあるけど、私の好みだってことが大きい理由かも。『とりあえずビール』って言われたら困っちゃうとこだったわ」

 エスノ先輩は楽しそうににっこりとしていました。もちろん文句はありません。

「あの男は、いちおうまだ調子が悪いので、コーラでも飲ませておくわ」

 エスノ先輩はフォア・ローゼズの黒ラベルにソーダとロックアイスを買われると、こうおっしゃってくださいました。

「タマキちゃんと『黒薔薇』を飲めるなんて、嬉しくてしょうがないわ」

 私もとても嬉しくなっていました。

 D先輩の部屋は、駅からだいたい15分くらいのところにありました。部屋はとてもきれいに片付いていて、エスノ先輩が頑張られたに違いないと確信しました。

「いらっしゃいませ、タマキ様。お待ちしておりました」

 D先輩はそうおっしゃって迎えてくださいました。私はそれに答えてこう言いました。

「ヨキニハカラエ、先輩」

 エスノ先輩はずいぶん笑ってくださいました。

「タマキ、そのセリフは王族の衣裳が必要だ。今からでも遅くないから、着てくれ」

 D先輩は押し入れから何か取り出そうとされているようでした。

「そんなもんないでしょ。あったら私があなたに着せてるわ、王冠と一緒に。あなたは体調が悪いのをいいことに王様みたいにふんぞり返っていただけで、ほとんど私が部屋を片付けたんだから。知ってるわよ」

 それで買い物をしておく時間をとられちゃったんだし。

 エスノ先輩はぼそぼそと私に向かっておっしゃいました。

「しまった、そうだった」

 3人で笑いました。とても楽しくなりそうでした。


    *      *      *      *


 D先輩は早速、ご用意いただいたディスクをかけてくださいました。

 この日は本当にたくさんのディスクをかけてくださったのですが、基本的にどれも先輩お薦めの1曲か2曲を聴かせていただくと、次々とディスクを替えていかれました。

 とても覚えきれませんでした。

 そんな中でも特に印象的なのは、初めにアナログ・ディスクをかけてくださったことです。

 古いけれど高級そうなレコード・プレイヤーがあるなんて、やはりさすがだと思いました。

「せっかくなのでいろいろ聴いてもらうからな。まずは王道として、LPからだ」

 D先輩はそうおっしゃると、いちばん最初に私の大好きなビル・エヴァンズ『ポートレイト・イン・ジャズ』をかけてくださいました。D先輩には特にこれが好きだとは話していなかったはずですが、エスノ先輩が話しておいてくださったのだと思いました。

 D先輩は1曲目の“降っても晴れても(Come Rain Or Come Shine)”を器用に飛ばされると、2曲目の“枯葉(Autumn Leaves)”を聴かせてくださいました。

「どう? アナログだとノイズもあるけど、なんだか味わい深いと思わない?」

「そうですね、CDで聴くよりもとても贅沢な気がします。LPの大きなジャケットも素敵です」

 D先輩は「うんうん」とでもおっしゃるように、2回うなずいてくださいました。

「さすがタマキちゃんだわ」

 エスノ先輩は紅茶をいれてきてくださいました。

「そこでレコードを回してるおじさんの好みで、アール・グレイだけど。このままでいい?」

「はい、ありがとうございます」

 今度はおじさんかよ、というD先輩のぼやきが聞こえました。それをまったく気にすることはなく、エスノ先輩はおっしゃいました。

「それで、タマキちゃんにお願いがあるんだけど」

「え、なんですか?」

「タマキちゃんが持ってきてくれたおみやげ、いただいてもいいかしら」

「あ、それはもちろんですよ。紅茶にも合うと思いますし」

「お、タマキありがとう。ごちそうさま。レアチーズだね」

 D先輩はケーキ屋さんの小箱をのぞかれたあと、次のディスクを用意してくださいました。

「ウォルター・ビショップ・ジュニアの名作から、タイトル曲だ」

 ピアノ・トリオの演奏で、聴いたことのあるメロディーが流れてきました。

「“スピーク・ロウ(Speak Low)”ですね、先輩」

「そのとおり。このアルバムは全曲最高だから、ボーナス・トラックつきのCDでも持っているんだけど、LPで聴く方がやっぱりいいなあ」

 特に骨太のベースがいいんだ、とおっしゃいました。

「あなたはレコードいじってると元気ねえ、病人とは思えないわ」

 エスノ先輩がおっしゃると、D先輩がすぐに応じられました。

「これもリハビリのうちなんだ」

「そ。早くもご満悦なのね」

 エスノ先輩は軽くいなされると、レアチーズを召しあがっていました。

「タマキちゃん」

「はい」

「おいしいわ、これ」

「それはよかったです」

「私の方こそよかったわよ、ありがとう、タマキちゃん」

「何だよ、キミがいちばんご満悦じゃないか」

 D先輩がおっしゃいました。

「あなたも無駄口たたいてないで、いただいてみなさいよ。格別よ」

「ん、ホントだ。ありがと、タマキ」

「ちょっと、食べながらしゃべらないっ」

 エスノ先輩の突っ込みが入りました。

 おふたりとも喜んでくださって、私にとっても格別でした。

 ジャズは夜の音楽と言われますが、こうして紅茶とケーキで聴くのも素敵だなと思いました。

「じゃあ、私、ちょっと失礼するね。あなたは私の分まで、タマキちゃんにたっぷりサーヴィスしてよ」

 エスノ先輩はそうおっしゃると、“スピーク・ロウ”のメロディーを口ずさまれながら、キッチンへと向かわれました。途中で「愛を語るなら、そっと囁いて」と、無理矢理日本語で口ずさまれていたのがエスノ先輩らしいと思いました。

「分かってるって。では、次はサックスにしようか。ソニー・ロリンズだ」

 青いジャケットのLPが出てきました。

「『サキソホン・コロッサス』。テナーを聴くならまずこれ、と言われるディスクのひとつだよ。それだけでなく、ジャズを聴くならこれ、とも言われている超名盤だ。もちろん、一家に一枚だ」

 前に5枚を選んだとき最後まで悩んだ1枚でもある。

 D先輩はそうおっしゃると、「テナーはコルトレーンの『バラード』を入れちゃったから泣く泣くはずしたんだよなあ」と続けられました。

 うきうきした感じのドラムスで始まり、テナー・サックスの陽気なメロディーが聞こえてきました。ディスク冒頭の“セント・トーマス(St. Thomas)”です。

「やっぱりロリンズは、このレコードが最高だと思うなあ」

 D先輩はつぶやくようにおっしゃいました。

「バックのメンツも素晴らしいよ。トミー・フラナガンのピアノ、ダグ・ワトキンスのベース、マックス・ローチのドラム、最高の名演だ」

 私は初めて聴くものでしたが、D先輩がおっしゃることは確かだと感じました。“セント・トーマス”が終わると、D先輩は次のディスクと換えてしまわれましたが、私はもっとこのレコードを聴いていたいと思っていましたから。

「そのうちタマキも、メンツを選んで聴きだすことになるかもよ」

 D先輩は次のレコードをジャケットから出されながら「じゃあ」とおっしゃいました。

「テナー続きで、次はこれ」

 いきなり速いテンポでテナーがテーマを2回繰り返すと、そのままのすさまじい勢いでソロが飛び出しました。

「コルトレーンの『ジャイアント・ステップス(Giant Steps)』からタイトル曲。『バラード』もよかったと思うけど、こうした吹きまくるコルトレーンもカッコいいよ。コルトレーンのこのスタイルは、『シーツ・オブ・サウンド』って呼ばれているんだ」

 私は「スリリング」という単語を思い出しました。

 ジャズって面白い。

 D先輩に頼んで正解だったと実感できました。


    *      *      *      *


 エスノ先輩がサラダをテーブルに並べてくださいました。レタスをベースに、トマトとセロリが載っていました。

「ドレッシングはシンプルにフレンチにしたけど、いいよね」

「あ、私、手伝います」

 立ち上がりかけた私を、エスノ先輩は両方の掌で止めてくださいました。

「タマキちゃんは大切な主賓なんだから」

 エスノ先輩は続いて別のお皿に、カマンベール・チーズを載せてきてくださいました。

「いちおう、スープもあるんだけど・・・それ、開けてもいいかな?」

「はいどうぞ、ご遠慮なく」

 D先輩は、先ほど買ってきたボトルをエスノ先輩に渡されました。

「ん、『黒薔薇』じゃないか。いいなあ」

「いいでしょう~」

 エスノ先輩はそうおっしゃると、キャップをひねっておられました。いい香りがぷんと漂いました。

「あなたはコーラでも飲んでなさい。はい、1.5リットル、飲み放題よ」

「それはどうも・・・」

 「チェッ」と、D先輩は口を尖らせていました。

「・・・ト・ベイカー」

 D先輩はそう続けておっしゃいましたが、私にはなんのことか分かりませんでした。

 エスノ先輩はあきれ顔になっておられました。

「せめてチェットのレコードをかけてるときに言ってよ」

 D先輩は受けなかったことを水に流し、話題を転じておられました。

「なかなか暗示的なウイスキーを選んだもんだな」

「どういう意味ですか?」

 私は訊きました。

「つまり、ボクにとっては両手に花、ということさ」

「あら、今日は物分かりがいいのね」

 エスノ先輩がおっしゃると、D先輩は続けておっしゃいました。

「嬉しいよ・・・バラの花だけど」

 棘がいっぱい、そうD先輩が続けられました。

 私は、うまいことを言うな、と思ってしまいました。

「敢えて突っ込まないけど、それなりの覚悟で言ったセリフよね」

 エスノ先輩の睨みを利かせた突っ込みに、D先輩は苦笑いを浮かべておられました。

「ひとりずつでもたいへんなのに、ふたりでかかってこられたらお手上げだ。勝てる気がまったくしないから、怖くて仕方ないよ」

「先輩、それはひどいです。こんなに素敵な彼女さんと、かわいい後輩だっていうのに。何をするのも先輩のためを思ってのことなんですから」

「タマキ、悪酔いしてない? からまないでくれよ」

「まだほとんど飲んでません。先輩は病気を理由にうまく逃げましたね」

 エスノ先輩は笑っていらっしゃいました。

「ボクだってちょっとは飲みたかったよ。好きなんだ、黒薔薇」

「よしよし、あなたは元気になってからね。今日はタマキちゃんと私で空けちゃうんだから」

 エスノ先輩は1杯目はソーダで割られていましたが、2杯目からはロックでお飲みになっていました。アルコールはずいぶんいける口のようでした。私はときどきチェイサーのお水もいただきましたが、エスノ先輩はお水はほとんど飲まれていないようでした。

 やがて、エスノ先輩が腕をふるわれた唐揚げが登場しました。

「ごはんもあるけど、いらないかな」

「ボクは自分でよそって食べるから、おふたりは飲んでてくださってけっこうですよお」

 D先輩は少しふくれた調子でおっしゃいました。

「そうね、それがいいわね」

 エスノ先輩はニヤニヤしておられました。

 私は唐揚げをいただきました。熱々でからっとした衣、ジューシーな肉にスパイスが利いていて、とてもおいしいものでした。感動的でした。

「おいしいです。こんなにおいしいの、滅多にないです」

 私は思わず言っていました。

「ありがとう、タマキちゃん。たくさんあるからどんどんいっちゃって」

 エスノ先輩はそうおっしゃると、私のグラスに氷と黒薔薇を入れてくださいました。

「タマキちゃん、ソーダでいいの?」

「はい、それでお願いします」

「コーラで割るのもいいぞ」

 D先輩がからんでこられました。

「けっこうです。先輩の大好きなものをいただくわけにはいきません。私にかまわず、先輩が全部お飲みになってください」

「お気遣いに感謝しますよ」

 D先輩はまた「チェッ」と小さくおっしゃいました。「ベイカー」は出てきませんでした。

「病人にはまだダメよねえ。タマキちゃん、私とふたりで楽しもうね」

 エスノ先輩はご自分のロックをD先輩の方へかざし、にこにこしていました。

「・・・この借りは、いつか返す」

 D先輩は苦虫を噛み潰したような表情をされていました。

 私はそんなおふたりを見て、仲よしでいいなあと思っていました。

 音楽はスタン・ゲッツのテナーと、ブラジルを代表するミュージシャンのひとりであるジョアン・ジルベルトの歌とギターの共演、『ゲッツ/ジルベルト』がCDで流れていました。1曲目は私も知っている“イパネマの娘(The Girl From Ipanema)”でした。すごく心地よいと感じました。

「裏返さなくてもいいし、全曲かけるよ」

 D先輩はおっしゃいました。

「これはジャズと言うよりはボサ・ノヴァを代表する1枚かなと思うけど、食事時だし、いいよね」

 エスノ先輩は女性ヴォーカルに合わせて英語で口ずさまれています。

 “とっても素敵な、イパネマの娘が歩いてくるよ”。

「ジョアンのヴォーカルに続く英語の部分は、当時のジョアンの奥さんだった、アストラッド・ジルベルト。この曲がヒットしたことで、彼女はジョアンと別れてソロ・シンガーの道を歩み、有名になってゆくんだ」

 英語ができたからだろうな、と、D先輩の解説が続きます。

 今日はなんて贅沢な日なんだろう。

 私は思っていました。


    *      *      *      *


 帰り際に、私はD先輩に頼んで、プロコフィエフの『交響曲第5番』のCDを貸していただきました。図書館では結局見つからなかったからです。

「アシュケナージとコンセルトヘボウ管のディスクもいいんだけど、今回は世界の小澤さんがベルリン・フィルを振ったヤツを貸すよ」

 D先輩がそうおっしゃって渡してくださったのは、1枚物ではなく、4枚組の交響曲全集でした。

「だって、小澤さんのはバラで持ってないから。1番と7番もいいし、気が向いたら他の番号も聴いて」

「次はクラシック鑑賞会でもいいかもね」

 エスノ先輩がおっしゃいました。

 D先輩は更に、『サキソホン・コロッサス』のCDも貸してくださいました。

「ホントはLPを貸してあげたいところだけどね」

「私の部屋では聴けませんけど、LPジャケットを部屋に飾るだけでも素敵ですよね」

 私はそのうち本当の意味で「ジャケ買い」をするのもいいな、と考えていました。

「今日のタマキはロリンズのこれがいちばん気になってたようだから」

「どうして分かったんですか?」

 私は不思議でした。

「そうだなあ、タマキがかわいい後輩だから、かな」

「あら、タマキちゃんに好かれたいと思って・・・」

 苦笑いをされているD先輩に、エスノ先輩がすかさず突っ込んでくださいました。

「道が分かりにくいだろうから、病人はほっといて、私が送っていくわ」

 エスノ先輩はそうおっしゃると、部屋から出てきてくださいました。

「まだそんなに遅くないし、キミはアルコールに強いから平気だとは思うけど、町で暴れないでくれよ」

「何よ、失礼しちゃうわね」

「タマキ、この人が暴れそうだったら、悪いんだけど止めてくれ」

 フン、とエスノ先輩はふくれてしまわれました。

 でも、おふたりは本気でそんなやりとりをされているわけではありません。

 私はとても楽しい気持ちのまま、D先輩の部屋をあとにしました。


    *      *      *      *


 駅までの道をのんびり歩きながら、私はエスノ先輩と話しました。

「日が延びてきたとは言え、ちょっと肌寒いかなあって思ったけど、アルコールが入っているから気持ちいいわ」

「そうですね」

 エスノ先輩も私もにこにこしていました。

「先輩は、お料理もすごく得意にされているんですね。ますます尊敬です」

「嬉しいわ、タマキちゃん。誉めてくれてありがとう。あれでよければ、レシピを教えてあげる」

「それは是非、お願いします」

 私は更に嬉しくなってしまいました。

「あいつも楽しそうだったし、私は今も楽しいし・・・」

「私も先輩方に負けないくらい、楽しませていただきました。本当に、ありがとうございました」

「今日のイヴェントは大成功ね」

 エスノ先輩は両手を頭のうしろで組まれて、満足そうに微笑んでくださいました。

「あの男にはご褒美で、アイスぐらい買って帰ろうかしら」

 エスノ先輩が何気なく「帰ろう」とおっしゃったのが印象に残りました。

「タマキちゃんが来てくれて、とてもよかったわ」

 そうおっしゃると、エスノ先輩はこう続けられました。

「ふたりだけだと、ときどきしんみりしちゃうのよねえ」

 私には意外な言葉でした。あんなに仲のいいおふたりがしんみりしてしまうなんて、何故なのでしょう。すごく気になりましたが、この場で訊くわけにはいかないと思いました。

 エスノ先輩は私の方を向かれると、こうおっしゃいました。

「またやろうね、タマキちゃん」

「はい、もちろんです。そうおっしゃってくださって、嬉しいです」

 私は素直に答えました。

「でもまず、例のケーキ屋さんに私たちだけで行って、食べ比べないといけないわね」

「そうですね」

「私たちの使命だから」

 エスノ先輩と私は駅で別れました。

「また電話するからね」

「はい。では、失礼します」

 私が改札を抜けて階段を上り出すまで、エスノ先輩は手を振ってくださいました。


    *      *      *      *


 エスノ先輩がD先輩を彼氏に選ばれた理由は、私にはなんとなく想像できました。

 あんなに素敵なエスノ先輩が彼女だなんて、D先輩はなんて幸せ者なんだろうと思いました。

 エスノ先輩にはかなわないなあ・・・。

 電車に揺られながらそう思っている私がいました。


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