湖からの脱出
「ちょっと、起きてください」
「……んん?」
目が覚めて、しばらく状況が思い出せなかった。
どうやら、床に座ったまま毛布に包まって目を閉じて、そのまま寝てしまったらしい。
仮眠のつもりが熟睡していたような気がする。
室内灯の光が反射して、窓の外は闇に染まっている。
まだ夜のままか?
俺達は、目的地に急がなければならない理由があったような気がしたんだけれど、タイムリミットはどれぐらい残ってたっけ?
「あれから何時間経った?」
「三時間ぐらいだと思いますけど」
キュウナも少し困ったように言う。
猶予時間って二時間しかないとか言ってたような気がするけど? これ、いまから出発して間に合うのか?
ともかくガスタービンを起動するために運転席へと急いだ。
とりあえずの準備を終えた後、二人で機関車の屋根の上に上る。
雨はやみ、霧も完全に消えていた。
空に光るのは星。それを水面が反射して、足元もキラキラと光っている。まるで、俺達のいる機関車は、宇宙空間の真ん中を漂っているようだった。
「すごい」
「綺麗ですねぇ」
美しい。けれど同時に、自分達が世界の全てから切り離されてしまったようで、恐ろしくもある。
この空間にずっと留まっていたら、自分が何者なのかわからなくなってしまいそうな、そんな恐怖を感じる。
「……」
と、キュウナが俺の服を掴んできた。
「な、何?」
「いえ、何も」
キュウナはすまし顔で言うと、適当な方を指差す。
「霧が晴れて、遠くまで見えるようになりましたね」
「ああ……暗くてよく分からないけどな」
空気も澄み切っている。明るければ、よく見えただろうに。
「暗視ゴーグル、使いますか?」
キュウナから気軽に手渡された。相変わらずこの世界の技術レベルがよくわからない。
暗視ゴーグルを覗くと、視界が緑色っぽくなった物の何も見えない。
いや……機関車の前方に延びる線路が見える。数十メートル先にポイントがある。さらに、ポイントから伸びる片方の線路を辿っていくと何かが止まっているのが見えた。
「あれ? 次のポイントで、右側、十キロぐらい先列車が止まっているな」
「本当ですか? という事は、進むなら次は左ですね。残念です」
「残念?」
「説明するので、ちょっと運転席に戻りましょう」
そうだな。そろそろ暖機も終わってるだろうしな。
運転席の床に、キュウナは湖の路線図を広げる。俺、その地図よく分かんないんだけどなぁ、と思いながらも、俺はキュウナの隣に座った。
「リョウさんを起こす前に、路線図をもう一度調べなおしてみたんです。まず、私達の目的地がここ」
地図の右上を指差す。
湖から脱出する線路のようだ。
「それで、私達がいる場所は、たぶん、ここからここの間です」
キュウナは湖の中央辺りの線路を指でなぞる。
「それで、次のポイントを右に進むと、こっちに出るはずなんですよ」
「でも右は……」
さっき俺が各坐してる列車を見つけてしまった。
あっちに行って戻る手間を考えると、二十分近く節約できたかもしれないが。目的地からは遠ざかってしまう。
「そうなんですよねぇ。避けて左に行った場合、この辺りに行くはずです」
キュウナは地図のやや左側を指す。
だが、避けていった所で別の列車がある可能性が高い。みんな、考えることは同じなのだから。
「待てよ。考え方を変えてみるってのはどうだ?」
俺は地図の中央を指差す。
「他の列車が通りそうにないルートを探して、そこを選んでみた方が効率いいような気がする。そういうのって、可能か?」
「できなくはないけど。遠回りになるし、時間掛かりますよ?」
「そうだけど、どうせ間に合うとも思えないし、安全第一の方がいいだろ?」
「そうですか?」
「何にせよ、ここで身動きが取れなくなって死ぬのだけは嫌だろ」
「そうですね。あなたがそれでいいと言うなら、やってみましょうか」
「おう」
キュウナは地図の四隅を順番に指差す。
「いいですか。湖から出入りする場所は、ここと、ここと、ここと、ここ。この四箇所を結ぶ線上は、列車が止まっている可能性が高い事になります」
歪んだ台形と対角線。ここが危険地帯か。
俺達は対角線の交点あたりを目指している形になるから、この先は今まで以上に足止めを食らう可能性が高くなるはずだ。
そこを左に回りこみつつ右上を目指すとなると……
「つまり、この辺りから、こう進めば、殆ど列車は存在しないはずなんだな」
線を二回踏む事になるけど、たぶんなんとかなるだろう。
電圧、蒸気圧、蓄電量、全てグリーン。
ライトを点灯し、ブレーキを解除、スロットルを一気に四メモリまで。
機関車はガタガタと動き出す。
「あ、ポイントが右のままですよ!」
「やっべ」
リモコンで的を撃ってポイントを左に。
列車は左側の線路に入っていく。
「ちょっと、私は遠くを見ていますね」
ポイントを見落とさないためだろう。キュウナは窓から身を乗り出して、天井へと上っていってしまう。
「危なくないか? 落ちたら一巻の終わりだぞ?」
「こういうのには慣れているから平気ですよ」
キュウナは平然と言う。ラーズリーが許してたのかな? サーカスじゃないんだからやめた方がいいと思うんだけど。
「でも、煙とか来るだろうし」
「うふふ、大丈夫ですよ」
一応、定期的に話しかけるようにする。
気がついたら、どこかで落としてしまって、ずっとそれに気付かないまま走っていたとか、そんな事しちゃったら怖い。
まあ、返事が来なくなってから列車止めても、既に手遅れのような気もするが。
三十分ほどした頃。キュウナは運転席に戻ってくる。
「ポイントが近いです、速度落としてください」
「おう」
スロットルをゼロにして、ブレーキ。
標識の手前で止まった。ポイントから伸びる線路は直進と右。
「右に行きたい所ですが、ここは直進ですか?」
「そうだな」
「ポイントは66番ですね。これは路線図にありますよ」
「おお」
これで現在位置が分かる事になる。
「今はここで、向かう先はこっちですね」
キュウナが差したのは、対角線の交点よりやや左上だった。
「この先、追加されたポイントがないなら、二つ先の26番で右に行くのがいいと思いますよ」
「分かった」
そしてキュウナは再び天井に上る。
それからも闇夜の線路を走り続ける。ポイントがあれば止まり、現在位置と進む先を確認し、そんな事を何度も続けながら、黙々と進んでいく。
26番のポイントを予定通りに右に行く。
「順調だな」
今まで、擱座した列車に全く当たっていない。スムーズに進めている。
ふと見上げると、空の色が変わっていた。星はもう見えず、蒼い色になっている。
「なんか、明るくなってきたような気がする」
俺が言うと、屋根の上から声が返って来る。
「日の出ですよ」
俺は白んでいく前方の空を見上げた。
オレンジ色の朝焼けの光が、闇を徐々に押し上げていく。
揺れる水面がキラキラと、光の波間を作り出す。
そんな中、水平線の彼方まで伸びる線路が、陽光を反射して銀色に輝く。
心が洗われるような光景だった。
「綺麗だな」
「ええ。明るくなると、遠くが良く見えますね」
「いや、見えるけどさぁ」
もっと景色を楽しもうとか、そういう発想はないのか。
とはいえ、確かに見通しが良くなったのはいい事だ。これならキュウナが天井に上る必要もないんじゃないか。
キュウナもそう考えたのか、降りて来る。
「お疲れさま」
「大した事ありませんよ」
キュウナは微笑むと、地図を広げる。
「さっき、19番のポイントを通りましたから、今はこの辺りですね」
指差した場所は地図の上側やや右。
「結構、いい感じに進めていると思うんだけど」
「そうですね。予想以上の進行速度です。この分だと本当に……」
「ん?」
「いえ。なんでもありませんよ」
キュウナはニコニコと笑いながら、後ろから俺に抱き着いてくる。
「なっ、なんだよ……」
「なんでもありませんよ」
ふんふんと変な鼻歌を歌いながら離れていく。なんだったんだ。
その後、何度かポイントをやりくりしつつ、ついに一度も擱座した車両にひっかかる事なく、脱出地点までたどり着いた。
「地面だ」
水平線の向こうに、岩だらけの地面が見えた。ようやく、このムダに広大な湖を脱出したのだ。
「線路の状態も良くなってきたから、最高速でも問題ないでしょう」
「よし」
俺はスロットルを全開まで上げる。
速度計のメーターがガリガリ上がっていて200を指した。
線路が陸の上に変わってから、キュウナは何かを探すように窓から顔を出す。
長い髪が風に煽られて後ろに流れて、うなじが見えた。
妙な白さがやけに綺麗だ。別に他の部分が汚いなどという事は断じてないが。
キュウナはあまりおしゃれをしているようには見えないけれど、そこを綺麗にする事に何か特別なこだわりを抱いているとかだろうか?
と、キュウナは急に振り向いて、不思議そうに俺を見る。
「どうかしましたか?」
「い、いや。なんでもない」
何の異変もない場面でドギマギしてしまった。なんか恥ずい。
「それより、何か探してたのか?」
「太陽の位置を確認していたんですよ。今の時間、だいたい十時ぐらいですね」
「時間ならそこに時計あるだろ」
俺は運転席の片隅を指差す。
「今は大丈夫ですけど、その時計、たまに間違ってますからね」
「そういうもんか?」
その発想がよくわからない。
「とりあえず、最初の計算より二時間ぐらい早く脱出できてるみたいです」
「本当か?」
それなら、急げば十分間に合うかもしれない。
再開。
残念ながら、休息期間に値するほどのストックは溜められなかった。
擱座///