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霧の踊る谷


 空間のモヤモヤを抜けた先は、藍色の光が広がる谷間の底だった。

 昼間なのに、暗い。

 明るい空は、岩壁の隙間のように遠く高く、そこから差し込む数条の光がている。


 などといった景色を鑑賞していられたのも短い間で、物凄い振動が来た。重いはずの機関車が跳ね上がりそうな勢いで、下から突き上げられる。

「ブレーキ、スピード落として!」

 キュウナが叫ぶ。

 俺は急いでブレーキを引いた。

 列車の速度が下がって、振動も収まる。

「今のは?」

「線路が古いんですよ」

 ちゃんと整備してないのか? これが日本なら七時のニュースで役員が謝罪するレベルだぞ。

「壊れてるなら修理しろよ」

「こんな場所、整備車両も滅多に来ないんですよ。仕方ないでしょう」

「そういう問題なのか?」

 鉄道の運行に責任を持つ組織とかないの?

 どうりで、毎時180メアルで走れる所を抑えて毎時75メアルを指定するわけだ。他の奴らが通りたがらない理由も良く分かった。

 むしろ、もっと遅く走らないと危ないんじゃないのか? いや、これ以上減速したら間に合わないのか。色々面倒くさい。


 俺は速度計を80メアルに合わせて列車を進める。これでもガタガタするが、跳ね上がるほどではない。

「あ、止めてください」

 そしての赤信号だった。

 何なんだよ。


 列車が止まってから辺りを見回す。

 霧は相変わらずだが、ここまで少しずつ線路が下がっていたようで、線路とほぼ同じ高さに水面があった。

 川だろうか? 流れがないので湖かもしれない。水の色は青く透き通っている。

 深い水の向こうに白い砂の底が見えるけれど、生き物の気配はなかった。

 空気はひんやりとつめたい。


 こんな所に、誰が来るというのか。

「突っ切ったら良いじゃないか。どうせ誰も見てないし」

「ダメに決まってるでしょう! 鉄道で信号無視は、100%事故に繋がりますよ」

 おっしゃるとおりで。だってレールの上じゃ避けられないもんな。

「それに、この先のポイントは、行き止まりに繋がったまま固定されているはずなんですよね。それを変更してもらわないと」

「なら、担当の人を探さないといけないのか?」

 この霧の中で? ちょっと厳しくないか?

 信号機の番をしているなら、近くに家があるのだろうか? そんな物見えないんだけど。

「警笛を鳴らしてください」

 キュウナの言う通り、警笛を鳴らす。十秒ほど経ったころ、鈴の音が聞こえた。


 川の向こうから、霧を割るようにして小船がやってくるのが見えた。

 ゴンドラのような尖がった先頭の上にランプが乗って、ぼんやりと光っている。

 船に乗る人間の姿は一人、小柄な少女だ。

 神官を思わせる白い服と、流水のように滑らかな金髪が、風もないのに揺れている。

 顔は美形だが、こんな所に住んでいるせいだろうか? どこか生活感が希薄なようにも見える。

 これが切り替え担当の人なのか……と思っていると、少女の乗った船は機関車の横を通り過ぎるように去っていく。


「おい、ちょっと待てって!」

 俺が窓から顔を出して呼び止めると、少女は人形のように青ざめた顔をこちらに向けた。

 何か操作をしたようにも見えないのだが、船が停止する。


 小船の少女は、俺を見上げる。

「何か?」

 感情のこもらない声。いや、怒っているのか? だがここで負けるわけには行かない。

「進みたいんだ。信号、変えてくれないか?」

 だが少女は静かに首を振る。

「この先は、人が行くべき道ではない。加速線路は向こう」

 遠くの方を指差されても分からない。

 加速線路って何? 帰り道か何か?

「この道を通らないと、間に合わないんだよ。大損害なんだ」

 いや、どれぐらい損失が出るのか知らないけど、でもダメだろうな、たぶん。

 少女は少し屈んだ。船底に転がっていた杖のような物を掴み上げたようだ。

 そしてその杖を俺の眼前に突きつける。

「人間の短期的な損得に、私は関わらない。帰りなさい、水を汚したくない」

「……」

 汚したくないってどういう事? 俺の血で、とか? 怖いよ!

 とりあえず、俺は顔を少し引く。

 だがポイントは変えてもらわないとならない。

「そこをなんとか通してくれないか? そんなうるさくしないからさ」

「そういう問題ではない」

 小船の少女は杖を更に突き出そうとする。だが、腕の長さが足りないのか、届かない。杖の先端が俺の目の前でプルプル震えている。

 冷静なように見えて、あんまり冷静じゃないな、この子。

「届かないだろう?」

 俺が笑うと、少女はむっとしたような顔になった。

「そういう問題ではない!」

「こら、いじわるはいけません」

 キュウナに後ろから押されて、杖の先に額から突っ込んでしまった。

 なにすんの!


 キュウナは俺を押しつぶすように、上から車外に顔を出す。

「許可をお願いできます? どうしても、ここを通らないといけないんですけど」

「キュウナ……あなた何をやっているの?」

 あれ? 顔見知りか何か?

 もしそうだったなら、最初からおまえが交渉してくれればよかったんじゃ?

「……」

 小船の少女は俺の顔を改めてじろじろと見つめる。

「この機関士、誰?」

「新しい機関士ですよ。リョウという名です」

「前のアイツはどこに行ったの?」

 アイツって誰だ? 例のラーズリー? そういえば、どこに行ったんだろう?

 キュウナは知っている、はずだよな? 知らなきゃこんなに落ち着いていられはしないだろうし。

「さあ?」

 キュウナの返事は、ただそれだけだった。

 なんか、本当は知っているけど、はぐらかしてるような感じだ。

 小船の少女は首を振った。

「なんてこと。……あなた、とうとうやってしまったの」

「何をですか?」

「あんな話、何かの冗談だと思っていた」

「不可能だから? それとも私はそんな事をしないと思ったから?」

「両方」

 戦々恐々としている小船の少女。一方、キュウナはどこ吹く風といった様子。

 こいつら、何の話をしてるんだ? まるでわからん。

「でも、それなら、なお更ここを通る必要はないはず」

 小船の少女が咎めるように言うと、キュウナはふふふと笑う。

「私もそのつもりだったんですけどね。ちょっと事情が変わったんです。ラーズリーの、残念な置き土産と言ったところでしょうか」

「だから、その少年も?」

「問題はそこですよね。ちょっと迷っています」

 そしてキュウナは更に俺に体重を掛けてくる。

 重い! そして窓枠に挟まれてるから痛い!


「あなたは、自分が間違った事をしていると分かっているのか?」

「自覚ならありますよ」

 小船の少女は納得いかなそうな顔をしていたが、ため息をついた。

「あなたがそれでいいと言うなら、私は止めない事にする。辞めて欲しいのは代わらないけど」

「そうですか」

 キュウナは俺の上からどいた。


 小船の少女は、杖を信号機の方に向ける。

 シャン、と鈴の音がして、信号機が赤から緑に変わった。

「ポイントも切り替えておいた。このまま進めば谷の道を行ける」

「そうか、ありがとな」

「……」

 俺が礼を言うと、小船の少女は改めて俺の顔をジロジロ見る。

「なんだよ」

「少年、おまえ、面白い魂の形をしている」

「は?」

 魂の形? この人、何を言ってるの?

「運命のつながりも、ずれている。どこで生まれた?」

「どこでって、日本だが」

「……やはりか」

 驚愕の返事だった。

「おまえ、日本を知ってるのか?」

 ついでに帰り方とかも知ってるなら教えてくれ。

「いいや、知らない。路線図に乗っている地名は殆ど知っているつもりだが……」

「……知らないのに、やはり、ってどういう事だよ」

 使えない奴だ。思わせぶりにも程がある。

 だが、小船の少女は平然と言う。

「魂の色が、私の知らない土地の色をしている」

「はぁ」

 とりあえず、路線図で日本を探しても存在しないという事か。

 予想はしていた。この列車で日本に乗り入れたりできるなら、日本にいる時にこの世界の噂ぐらいは耳にしていてもおかしくないはずだから。

 だけど、ちょっと残念だ。

「おまえの幸運を祈っておこう」

「それはどうも」

 何を言っているのかよくわからないけど、たぶん悪意はないのだろう。


 少女を乗せた小船は、何かに流されるかのように、ゆっくりと去っていく。

 その後姿を見送りながら思う。

 あの少女は、何だか俺達と違う世界で生きている感じだった。もしかして、人間じゃなかったのかも。

「ほら、行きましょう」

「ああ」

 キュウナに急かされて、俺はブレーキを外しスロットルを入れる。

 ゆるゆると動き出す機関車。

 速度は直ぐに上がって行き、ポイントを踏み越えてさらに先へと進む。


 と、また振動が来た。俺はすぐに減速。

 いけない油断していた。ここの線路はガタガタしているんだった。

 適度なスピードを保ちながら、それでもできるだけ急ぐ。

 キュウナが言う。

「ヘッドライトをつけましょう。霧で見通しが悪いですから」

「ライト? これか」

 スイッチを入れると、機関車前方から光が放たれて白い闇が照らし出される。

 それでも、視界はせいぜい数百メートル。もしかしたらもっと近い。これも速度を出せない理由か。


 霧に白く染まった空と、青く澄んだ川面を見ながらふと思う。

 俺達のライバルがこのルートを通ろうとしないのは、あの少女を説得できるだけの材料を持っていなかったからかな、とこの時は思った。

 結果から言えば、そういう問題ではなかったのだが。


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