第0話 (2)
彼女は我に返った。
一瞬でも心奪われかけた自分が腹立たしい。
『おばさんのお願い、聞いてくれる?』
そうなのだ。
この男こそ不安要素の一つ。
『息子たちを普通の子にしてほしいの』
重要なことをメールで言ってのける叔母に、ついその場で了承のメールを送ってしまった自分も自分だが。ようやく学校が一つに落ち着くとほっとした反面、後々になって自分の返答の重さに気付いたり。
(わざわざあたしに言ってくるくらいだもん……、絶対何かあるって覚悟はしてたのに)
彼女はため息混じりに首を振ると、怒りを押し殺した声で言った。
「……初対面なのに、なかなか失礼なこと言ってくれるじゃないの。確かに身長も胸もある方じゃないけど、顔はそこまで酷くないもん!」
まさに負け惜しみだった。
相手の言い方が頭にくるとはいえ、反論できないのもまた事実。絞りだした精一杯の言葉だった。
「あたしは藤崎浬。今日からご厄介になります。一応君のいとこなんだから」
言い切ると、相手は鳩が豆鉄砲をくらったようだった。
浬に向けていた足を、今度は一歩引き下がる。
暑さで出る汗とは違った意味の汗が、彼の頬を伝う。
「まさか……冗談だろ?」
「本当」
浬は白い歯を見せてにっと笑うと、まるで勝負を挑むかのようなはっきりした声で告げた。
「これからよろしく!」
その後、二人の間に沈黙が流れた。
新興住宅街とはいえ、人の歩く姿もなければ話す声もない。恐らくクーラーのきいた涼しい家の中で、冷たい麦茶にスイカを頬張っているに違いない。
暑さを促すセミの声と、時折ふく風の音がやけに大きく聞こえた。
そんな気まずい空気を吹き飛ばすかのように、ガラリと二階の窓が開く。
そこから顔を出したのは、目の前の息子を産み出した叔母であった。
「浬ちゃん、いらっしゃい!そんな暑いとこにいないで、早く中にお入り。ほら、鴻は荷物を持ってあげて」
「あ、おばさんこんにちは!」
玄関はこっち、と大きくジェスチャーする叔母に、浬は慌てて頭を下げた。
ドキドキと胸うつ鼓動。いよいよ新しい生活が始まる。
この門をくぐれば煌めかしい青春と、苦悩な日々の幕開けだ。
「なぁ、荷物こんだけ?」
鴻と呼ばれた青年は、キャリーバッグに手をかけた。
「ま、しゃあねぇか。いとこという立場に免じてよろしくしてあげる。俺とお近づきになれて、浬ちゃんラッキーだね」
(こ、この男……!)
自信に満ち溢れた台詞を言って、台詞負けしないのだからなおのこと悔しい。
しかも冗談などではなく、本気の発言だからこそ。
これがもし、平凡などこにでもいる男子高校生が言ったなら、こちら側が笑って冗談扱いできるのに。
「ほら、そんなとこ突っ立ってると丸焼きになるぞ。早く中入れば」
「誰がブタよ!……お邪魔します!」
「何も言ってねぇよ」
いつの間にか彼女の荷物を持って玄関口に移動していた鴻は、扉が閉まらないよう体を重りに支えていた。
浬が中に入ってから、ゆっくり扉を閉める。
憎まれ口を叩く彼だが、女性のエスコートは体が慣れているようだ。
「ありがとう」
荷物も持ってくれたこと、扉を支えてくれたこと。
口の悪い彼にお礼なんて、どうせ鼻で軽くあしらわれるに決まってる。
と、思ったにも関わらず、意外にも「いーえ」と返事をし心なしか笑ったようにも見えた。
(何だ……、意外といけるじゃん)
彼の広い背中を見ながら、浬はふっと笑みを零すのだった。




