第一夜. また
夢を見ていた気がする。けれども、目を開けた瞬間には何も残っていなかった。ただ嫌な感覚だけが胸の奥に沈んでいる。深い水の底に沈められた石のように。
朔はゆっくりと瞼を開いた。空が見えた。青い空だった。雲がゆっくり流れている。見たことがあるような気がした。当たり前だ。空なんて誰だって見たことがある。そんなことを思ってから、朔は眉をひそめた。
誰だって?
誰が?
自分は?
そこで初めて異変に気づく。身体を起こす。頭が痛い。ひどい頭痛ではない。むしろ妙だった。何かを無理やり押し込めた後みたいな重さ。森だった。
辺りを見回す。知らない場所。知らない木々。知らない空気。それなのに、不思議なほど焦りはなかった。普通ならもっと慌てるはずだ。自分が誰なのか分からない。どうしてここにいるのかも分からない。なのに胸は静かだった。静かすぎた。
まるで――。
「……またか」
口をついて出た言葉に、朔自身が首を傾げた。
また?何が?答えは出ない。けれども言葉だけが妙に馴染んでいた。昔から何度も使っていたみたいに。
その時だった。
「いたぞー!」
遠くから声が飛んできた。朔は顔を上げる。数人の男が森の奥から走ってくる。農具を持った村人たちだった。
「無事か!?」
「怪我はないか!?」
勢いよく駆け寄ってくる。朔は思わず一歩下がった。
「大丈夫……だと思う」
「よかった」
男たちは本当に安心したような顔をした。それが少し不思議だった。初対面の人間に向ける表情じゃない。もっと別の。探していたものを見つけたような顔。
「名前は?」
朔は答えようとして止まる。
名前。
それだけは分かった。不思議なくらい自然に。
「朔」
言った瞬間。男たちが一瞬だけ黙った。本当に一瞬だった。気のせいかもしれないくらい。けれど確かに沈黙が落ちた。
「……そうか」
男は笑った。
「朔、か」
それ以上は何も言わなかった。
⸻
村は森の外れにあった。大きくもなく、小さくもない。どこにでもありそうな村だった。子どもたちが走り回り、洗濯物が風に揺れている。
平和。
そんな言葉が似合う場所だった。村人たちは朔を村長の家へ案内した。軋む木の扉が開く。中には老人がいた。
白髪。
深い皺。
けれど背筋はまっすぐだった。
「連れてきたか」
老人は顔を上げた。そして朔を見る。
数秒。
沈黙。
老人の目が揺れる。懐かしむように。悲しむように。諦めたように。朔にはうまく分からなかった。
「そうか」
老人は小さく息を吐いた。
「よく来た」
それだけだった。初対面の人間に向ける言葉としては、少し変だった。
⸻
夕方。
朔は一人で村を歩いていた。何もしないでいるのが落ち着かなかった。だから歩く。理由もなく。川の近くまで来た時だった。水切りの音が聞こえた。
少女がいた。川辺にしゃがみ、小石を投げている。
四回。
五回。
六回。
驚くほど上手かった。
「下手だね」
少女が言った。朔は瞬きをする。
「まだ投げてない」
「投げても下手そう」
失礼なやつだった。少女は振り向く。年齢は同じくらいだろうか。
黒髪。
少し眠たそうな目。
だが不思議と印象に残る顔だった。
「初めまして」
少女が言う。
「初めまして」
朔も返した。
すると少女は少しだけ笑った。
「そうだね」
「?」
「ううん」
少女はまた川を見た。しばらく沈黙が続く。変な空気だった。居心地が悪いわけじゃない。むしろ逆だった。初対面なのに、妙に落ち着く。
「名前以外は覚えてないんだっけ」
少女が言った。
「ああ」
「大変そう」
朔は少し考える。大変。そうなのだろうか?
「そうか?」
「普通はそうじゃない?」
少女は石を投げる。水面を跳ねた石が向こう岸へ消える。朔は川を見た。流れる水を。流れていく葉っぱを。
「別に困ってない」
気づけばそう言っていた。少女は首を傾げる。
「変なの」
その言葉だけ残して、また石を投げた。今度は七回跳ねた。なんとなく悔しかった。
⸻
夜。
夢を見た。
炎が燃えている。
知らない街。
知らない人々。
叫び声。
泣き声。
そして。
無数の死体。
その中心に誰かが立っている。
顔は見えない。
ただ、その人物はこちらを見ていた。
真っ直ぐに。
まるで知っている相手を見るように。
そして言う。
「お前は何度目だ」
⸻
朔は目を覚ました。汗をかいていた。胸が重い。
嫌な夢だった。理由は分からない。分からないのに。どうしてか、その続きを知っている気がした。それが気味悪かった。
「……最悪だな」
窓の外を見る。まだ夜明け前だった。村は静かだった。何も起きていない。
何も。
まだ。




