ファントム、保護者になる6
その日のセグレトは、いつも通りの朝だった。少し違うのは、出張で時間を持て余したのだろう、見知らぬ営業マンが一人来店したくらいだ。
灰島は、マスターの流れるような所作を横目で見ながら、自らも完璧なタイミングでトーストを焼き、サラダを盛り付けていく。その動きには、一切の無駄がない。
昼時の喧騒が過ぎ去り、穏やかな午後の時間が店の中に満ちていく。 カウンターの中では、マスターが静かに食器を磨いている。 客席では、玲奈がユキに学校の宿題を教えてもらっていた。
「だから、この場合のコサインはこっちの補助線を引いて……」
「うぅ……、ユキちゃんの説明、レベルが高すぎて逆に分かんないよぉ……」
天才的な頭脳を持つ見た目は子供の少女と、勉強は少し苦手な心優しい女子高生。その微笑ましい光景が、彼らの「日常」になりつつあった。
灰島は、そんな二人の会話をBGMのように聞きながら、キッチンの隅で一冊の料理本を読んでいた。 彼が今、研究しているのは暗殺術でもサバイバル術でもない。 ただの「完璧な栄養バランスの夕食の献立」だった。 彼にとって、それもまた完璧に、遂行すべき『任務』なのだ。
穏やかな時間は、あっという間に過ぎていく。 マスターが予報した通り、空は厚い雲に覆われ、夕立が窓ガラスを優しく叩き始めた、その瞬間、灰島の眉がピクリと動く。
「……だから、お前がいるのか?」
灰島がそう話しかけた席には、瀬尾が座っていた。彼も何かに気が付いたのか、パソコンの画面から顔を上げ、店のドアの方に視線を向けた。
「俺は関係ない。聞いてないし、俺とあいつは部署違うしね」
瀬尾がそう言い終わった瞬間に、チリンとアンティークな扉のベルが鳴った。入ってきたのは、灰島よりも背は高く、まるで狼のようにぼさぼさの髪で、その奥にある目は鋭い男だった。
「いらっしゃいませ、空いてるお席にどうぞ」
マスターの声に、玲奈もユキも顔を上げた。
「あれ? ヘル──」
玲奈がそこまでしか言えなかったのは、灰島が彼女の口を封じたからだ。
「……陣内さん、であってたかしら」
警戒しながらユキがそういえば、ヘルハウンドこと、陣内涼はちらりとユキを見て、「元気そうだな」と小さく返す。
その名前は、以前、ヘルハウンドとしてこの店に来た時に、彼の方から名乗ったものだ。
「そうだ。これからもその名前で呼んでくれ。ここは日本だしな」
彼の言う通りで、『ファントム』だの『クラブ』だの、『ヘルハウンド』なんて名前で呼び合う日本人は居ない。むしろ、コードネームで呼び合うことで、コクチョウの存在が明るみになっては困るのだ。
「何しに来たの?」
席を立ち、そう質問するユキを陣内は一瞥し、椅子に座った。
「コーヒーを飲みにきた、ではダメか?」
その皮肉めいた言葉に、答えたのはマスターだった。
「いえいえ、もちろん、歓迎いたしますよ、陣内さん。いつものブレンドで、よろしいですかな?」
「……ああ」
マスターの、あまりにも自然な「常連客」としての扱いに、陣内は少しだけ毒気を抜かれたような顔になる。
しばらくすると、店内にいた客が居なくなった。
「俺は本当に、コーヒーが飲めればよかったんだがな」
小さく呟く陣内の声に、ユキのシャーペンの芯が折れた。




