彼のオーダーは、レモンサワー(キャラ紹介画像アリ)
その時昼恵は、とんとんとリズムよく葱を刻んでいた。
葱を刻む度に香味野菜の鮮烈な香りがふわりと漂い、木製のまな板を包丁が叩く軽妙な音が耳に心地いい。
鍋ではたっぷり張った湯がぐらぐらとあぶくを立て、十割蕎麦が中を泳いでいる。
鰹節に生姜を効かせた冷奴と茄子の揚げびたしはもう冷蔵庫から出したし、海老天、鶏天、蛸天、それに南瓜や薩摩芋もじきに揚がる。
すべての料理がカウンターに並ぶと、朝奈が両手をパンッといい音を立てて合わせた。
「いただきます! めっちゃ美味そう……!」
「昼恵ちゃんって、ほんと凄いわ」
氷水でしゃっきり締めた笊蕎麦を啜って、うっとりと夜香が頬を押さえる。
朝奈と夜香が喜んでくれるのも嬉しいが……、昼恵には昼恵の美学があった。
自分が最高だと思う料理を、最高のタイミングで並べる。
それは、音楽家が満足のいく演奏をするような――あるいは画家がもう完成だと絵筆を置く瞬間のような――歌手が喉を震わせ最後の余韻を奏でるような――美しい達成感があった。
でも……、この昼恵だけの世界は、誰にも邪魔されたくない。
だから、朝奈や夜香にも内心は告げずに、昼恵は一人悦に入った。
昼恵が微笑んでいると、口をもぐもぐさせながら、朝奈が首を傾げた。
「……ん? 昼恵ちゃん、何で笑ってるの?」
「ううん。何でもないの」
――……昼恵達は、いつからこのバー【追憶の砂時計】で過ごしているのか、実感がない。
ほんの数週間前からかもしれないと思うこともあれば、もう何十年もここにいる気がすることもある。
昼恵、朝奈、夜香。
この奇妙な名前さえ、三姉妹の本当の名前かどうかもわからない。
三人が、本当に姉妹なのかすらも……。
「……っはあぁぁ! 美味かった! 満足満足!」
白いTシャツの上からでもわかるくらいに膨れたお腹をぽんと叩いて、朝奈が椅子にもたれかかる。
夜香はまだ食べている……あれで案外、大食いなのだ。彼女はすぐ胃もたれするから、翌日ぐったりしていたりもするのだけれど。
そう思って注意すると、夜香がにやりと笑う。
「胃もたれを恐れて、昼恵ちゃんのご馳走デーを逃せるわけないでしょうが」
「それな! 昼恵ちゃん、気まぐれにしかこのスペシャルディナーを作ってくれないもんねえ」
朝奈も頷く。ちなみに朝奈の胃袋は強靭で、生まれてこの方〈胃もたれ〉という現象を経験したことがないらしい。
朝奈と夜香が協力して食器を片づけ終えて、換気が終わって天ぷらの匂いを完全に追い出したところで――……。
エレベーターが、動き出す気配がした。
「……あ、誰か来るね」
洗い物をしながら、朝奈が顔を上げる。
食後のお茶を用意していた夜香が、湯呑をもう一つ多く出すか首を捻る。
「お茶より、お酒がいいか。バーだものね。ここは……」
その時だった。
エレベーターの扉が開いたのは……。
++ ♢ ++
「――それで、何飲む? 泰久君」
突然迷い込んでしまったその不思議なバーでオーダーを訊かれ、【山脇泰久】は目を白黒とさせた。
泰久は地味な大学院生で、陰キャっぽい性格もあってか、こんな店で飲んだことなんて今まで一度もなかった。
ウィスキーのダブルをロックで――みたいな、〈知ってる〉風なことを言おうか迷って、やめる。
結局泰久は、飲み屋でいつも頼むのと同じオーダーをした。
「じゃあ、レモンサワーください」
「生レモンでいい?」
カウンターの向こうに立つ夜香という女に訊かれて、気恥ずかしく泰久は頷いた。
「はい、それで」
泰久は、あまり女の言うことに抗ったことがない。
女とあまり接したことがなかったし、苦手意識もあった。
だからなのか、女に自分の意に反することを言われたりされたりしても、抗議するにも躊躇ってしまうのだった。
……女が、泣いてしまう気がして。
すると、そんな話を、泰久はいつの間にかぽろりと口から零してしまったんだろうか?
隣に座った昼恵に、微笑んで言われた。
「そうなんだ? 泰久君って、優しいのねえ」
「いや、そんなことないっす。チキッてるだけっていうか……」
おろおろと首を振る。
でも、動揺したのは、昼恵が美人だからとか、夜香が色っぽいからとか、反対隣りに座る朝奈が愛らしいからとか、そういう理由じゃなかった。
三姉妹だという女達は、それぞれに魅力的なようにも見えたが――……、なぜだろう? 泰久にとっては、何か進展を期待するような〈異性〉ではなかった。
滅多に会わない歳の離れた従姉妹とか、母と姉の中間の年頃の家庭教師のお姉さんとか、そんな感じだった。
すると、朝奈が不思議そうに小首を傾げた。
「ええ? そういうのって、チキン……っていうか、臆病? って言うのかなあ。普通に長所じゃないの?」
〈男の人ってわからない〉――そんな顔で朝奈に言われて、泰久は目を瞬いた。
その泰久に、夜香がくすくす笑って教えてくれる。
「朝奈はねえ。男心がわからないから」
「……」
……それは、泰久も同じだった。
女心なんて、微塵もわからない。
『絞ってあげようか?』と明るく訊く朝奈の申し出を固辞して、半分に切り分けた生レモンをぎゅうぎゅう絞り器に押しつけると、爽やかな柑橘類の匂いがすっと鼻を抜けていく。
泰久がつまみにオーダーした唐揚げがあっという間に揚がって、タコさんウィンナーや卵焼きと一緒に並ぶと、何だか小学生の頃の運動会で食べた母の弁当を思い出した。
あの頃はよかった。
何も考えないで済んだから。
とはいえ、そんな牧歌的なのはせいぜい小学生くらいまでのもので、それから先は人間関係も複雑になったのだけれど……。
子供の頃に戻ったように口いっぱいに唐揚げを詰め込み、レモンサワーで喉の奥へ押し流すと、搾りたてのレモンの苦みが、鼻を通り越して目に来るほどに苦くて酸っぱかった。
この感じ――これを心で味わったからここに来たのだと、泰久はふと気がついた。
「……話したいこと、思い出した?」
昼恵のおっとりとした声に訊かれて、泰久は、カウンターに置かれた砂時計を眺めた。その粒が流れていくのを見つめているうちに、いろんなことが思い出されていく。
「……はい。俺、話すの苦手なんですけど……」
そんな前置きで、いつも泰久は自分を守ってしまう。
それすらも内包するように、砂時計はただ、無言で砂粒を落とし続けていた。
その砂粒一つ一つに、かつて泰久が抱いた思いや、過去の出来事が映し出されていく。
始まりは……、たぶん、あの初恋だ。
あれは――何年前のことだっただろうか?
間違いなく初めて本気で人を好きになった……泰久が経験した、あの切ない初恋は。
ここまで読んでくださってありがとうございます!
また、お知らせです!
次作の女性向けR18小説の試し読み連載を、来週末くらいから始める予定です。
内容は、新人女教師×御曹司高校生のダブルヒーロー物です。
そちらも読んでいただけたら嬉しいです。