(9)
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家に帰って、まずわたしは、自室へと向かい、軽く整理整頓をし、学習の段取りに取り掛かった。
制服を、グレーのパーカーと綿パンという私服に着替え、勉強机の上を更地にし、机の前に、折り畳みの椅子を持ってきて置く。
一通り済んだら、キッチンへと移動し、軽食を用意する。家庭教師だけど、お客としてもてなすことを忘れてはいけない。
個包装のクッキーをお皿に盛り、インスタントのコーヒーを用意していると、ピンポンとインターホンが鳴った。
モニター付きのインターホンのそばまで行き、映像を見ると、すでに暗くて分かりにくいが、玄関の照明に、ひとりの女性が立っているのが見える。ゆったりとした中綿コートを着て、スラックスはスキニー。
「――はい」
ボタンを押して、わたしは応答する。
「どうも。箕島です」
「今、迎えに行きます」
階段を駆け下り、玄関を開けてわたしは、出迎える。
「こんばんは。鈴ちゃん」、と綾さんは笑顔で挨拶する。「寒いね」
緩くパーマを当てた髪は、自然な黒色で、ピアスなどの装飾具はなし。厚くて長い、黒に近い藍色の中綿コートの下は、細いジーンズ、黒いパンプス。荷物はリュックサックに入っている。
綾さんの向こうの景色は、綾さんのコートとすっかり同じ色の寒々とした夕空だ。冷たい空気が充満している。
「こんばんは。綾先生。入ってください」
「お邪魔します」
――PM6時ちょうど頃。
わたしは、いつもするように、綾さんを上階へと誘導する。
「先、行っててください」、とわたしは二階に着くと、彼女に言う。あらかじめ用意したお茶菓子を持ってあがろうと思ったのだ。
「分かった。待ってるね」
空のカップに、コーヒーの粉末、砂糖、ミルクパウダーを入れ、ポットのお湯を注ぐ。
夜ごはんの用意は、していない。だが、お父さんはわたしの家庭教師のスケジュールを知っているので、今夜は、弁当か何か、手間の要らないものを買ってきてくれるだろう。
トレーを持って階段を三階へと上がり、自室へと入る。
「お待たせしました」
先に机に付いて、テキストをペラペラとめくっていた綾さんは、「ん」、と発し、首だけでわたしの方を振り返る。
「ありがとう、鈴ちゃん。わざわざごめんね」
「大したものじゃないですけど」
「とんでもない」
わたしは些少の照れ臭さと共に、トレーを勉強机のわきのキャビネットにのせると、クッキーとカップを、わたしと綾先生、それぞれのそばに配った。
「あれ?」、とわたしは綾先生の手元に注目して発する。
「あ、バレた?」
立っていたわたしは先生の隣に座ると、テキストだと思っていた冊子を指差し、「綾先生も、ご存知なんですか?」
わたしが密かに愛好している、先日読みかけてうたた寝してしまったイラストレーターの画集だった。
「ううん? 知らなかったよ。けど、手に取ってみて、この画風に惹かれちゃった」
「はぁ」、とわたしはポカンとして、気のない返事をしてしまった。
「ゴメン、ゴメン」、と綾先生は画集を勉強机の本立てに戻して謝る。「いきなり脇道に逸れちゃったね。じゃあ勉強、始めようか。この前宿題にしておいた箇所は、やってある?」
「はい、やってあります」
――わたしはテキストとノートを用意して開いて見せ、綾先生は、問題と解答を確認する。
そういう風にして、その後は、普段といっしょ。限られた時間の中で、わたしはテキストを進めていき、順調に行けばいいが、順調に行くのなら、家庭教師を求めたりしないわけで、やはりよく分からない箇所が必ず多かれ少なかれ発見され、わたしは、最初は自力で分かろうと悩むのだが、諦めて綾先生のレクチャーを受ける。
コーヒーの熱はすでに冷めた。
PM6時35分。
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