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大学受験するとすでに決めているなら、勉強に本腰を入れられるのだろうが、あるいはしないかも知れないという思いがあると、やはり頭は冴えないものだ。本当にやらなければいけないという認識のあることにしか、気力を費やせないようになっているのかも知れない。
「12月の中間テストだけど」
と、綾さんが、区切りのいいところで言う。
PM8時半ごろ。
お父さんはもう、退社して帰ってきている。
「――詳しい範囲は知らされた?」
「いえ、まだです」、とわたし。
「そう。範囲が分かったら、教えてね。テスト対策用の勉強に、切り替えるから」
「分かりました」
「今日はそろそろ終わりにしようかな。鈴ちゃんはどうする? 続けたいのなら付き合うけど」
綾先生の言に、変な含みはなかった。わたしに意欲があればしばらく学習を続行してくれるし、なければないで構わなかった。
わたしは、しばらく考えると、「今日は、もうやめにします」、と返した。
綾さんは納得し、文具をまとめてバッグに仕舞うなどし、帰り支度を始めた。わたしは、勉強机の上をサッと片付けた。
「そういえば」、とわたしは呟く。「綾さんって、一人暮らしなんですね」
「うん。そうだよ」、と、バッグを腿の上に置き、片腕を机上にのせている綾さんが答える。「ご飯、どうしようかなぁ」
「夜ご飯、ですね」
「そう。帰って作るか、スーパーとかに寄って、御惣菜を買って帰るか」
綾さんが一人暮らししているというのは、彼女が家庭教師として家に来るようになった当初、会話を通じて知ったことだった。
わたしは密かに、綾さんという存在を、ひとつの将来像として見ていた。わたしが進学して、その先が遠方で、一人暮らしするようになった時の自分のモデルとして。確かに、例として参考になる部分はあった。
「自炊されるんですか?」
「うん。する時はする。いつもじゃないけどね」
「すごいですね」
「全然、大したことないよ。わたし、簡単なものしか作れないし、それに、鈴ちゃんだって、自炊出来るっていう点ではいっしょでしょ?」
「自炊は、出来なくはないですけど、やっぱりお父さんに任せちゃうことが多いです」
「いいの、いいの。鈴ちゃんは勉強に集中して。家のことは、お父さんに任せちゃいなさい」
「あ、そうだ」、とわたしは、あることを思い付いて発する。「綾先生、何かおかずでも持って帰りますか?」
「え?」
突然の提案に、先生はきょとんとする。
「何か持って帰ってもらえるものがあると思います。ちょっと見てきます」
と言って、わたしはキッチンへと向かうため、立ち上がったが、綾さんがわたしの肩を持って制止する。
「いいの、鈴ちゃん。気を遣わないで」
「……」
肩に触れる先生の手に、気迫が滲んでいる。
わたしはその意が自然に汲み取られ、再び椅子に座り直す。
「ありがとう。帰るわ。お疲れ様、おやすみなさい」
先生は立ち上がって手を振り、辞去する。
わたしも立ち上がって一礼し、挨拶を返す。
「こちらこそ、ありがとうございました。また次回も、よろしくお願いします」
わたしは、綾先生に階下まで随伴した。途中、お父さんのいるダイニングに向かって、彼女は大声で帰りの挨拶をすると、お父さんが現れて、じかに「ありがとうございました。お疲れさまでした」、と礼を述べた。
玄関を開けると、厳しい冷気が入り込み、綾先生の着る中綿コートはとても暖かそうだった。季節はずいぶん冬めいてきたものだ。最近まで、台風の影響が続いていたというのに。
バックグラウンドは、街路灯が辛うじて明るい、真っ暗闇。
PM9時過ぎ。
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