異世界の洗礼 1
開いた花を模したトレーサリーが美しいその大きな丸窓は、ガラスが既に割れ果てている。
そこから針のように差し込んだ陽光が、黒ずんだ漆喰の壁と屋内まで伸びた蔦、そしてボロボロに朽ちた長椅子を照らす。
出来上がった日だまりから、数匹のトカゲが逃げた。
静謐にして、退廃。そこは寂れた、廃墟の教会だ。
教会といっても規模は小さい。石造りの納屋のようだった。
弐郎介はその教会の中心。丸窓からの光が作ったその日だまりの中で、大の字で倒れていた。
暫く呆然とその窓を見て、吸い込んだ埃を吐こうと咳をする。
「ンフッ!? ンフッ、ンフッ……ん……ん?」
咳がおさまると同時に、弐郎介はのっそりと上半身を起こす。
廃墟と言えど石造りなのでそれなりに頑丈だ。屋根や壁はまだ崩れておらず、数個の窓から差し込む少ない陽光だけが光源だ。中は非常に薄暗い。
舞った埃がその光の中でちらついている。
弐郎介はそれを手で払いながら、ゆっくりと立ち上がった。頭が寝起きの時のようにぼんやりしている。
「……どこよココ? 教会?」
振り返り、祭壇のある方を向く。
埃を被った祭壇の真上には丸窓、そしてその丸窓を中心にシンメトリーとなるよう配置された長方形の窓が幾つか。
更にその上には、壁の端から端までに渡る大きな壁画が描かれていた。この教会の信仰対象を描いたものだろうか。
暗いため少し目を凝らして見る必要があったが、円になって並ぶ数種類の動物たちが見て取れた。
そしてその円の中心には、猫の頭をした女神が手を組み、立っている。
陽の光を目の中に取り入れ、次第に思考が鮮明になってくる。
弐郎介はハッとした表情で辺りを見渡し、起き上がる直前の記憶を想起する。
「……なんで俺、教会にいんの……? え……?……確か俺がいたのって道路……よな?」
子どもを助けようとして居眠り運転のトラックに轢かれそうになった事は覚えている。
その後、その助けた子どもに駆け寄ってから──そこからの記憶がない。
すぐに自分がどこにいるのか調べようとスマートフォンを探すも、いつも入れている胸ポケットや他のポケットにもどこにもない。
「……チッキチョー……スマホがない……えぇ? どこぉ……?」
近くに落ちていやしないかと、床の上を探し回る。靴跡がくっきり残るほどの埃に満ちていた。
ふと、その埃まみれの床に点々とできた、人のものではない足跡を見つける。大きさは弐郎介よりもやや大きく、細長い五本指を持った手型。その手型と、尻尾や腹を引きずった跡もある。
その足跡を目で追った先に、それはいた。
チャーチチェアの隙間からこちらを覗く、巨大なイグアナに似た爬虫類生物だ。
「…………は?」
灰色じみた皮膚を持つその爬虫類は、シュルシュルと舌を口から出し入れして鳴らしている。
最初、弐郎介はイグアナだと思った。しかしその大き過ぎる体躯と黒い体色からして、もしかしてと肝を冷やす。
「……コモド、ドラゴン……なんで……?」
途端、その爬虫類はこちらへ這い出て来た。
確か、コモドドラゴンは牙に毒を持っていたと思い出す。その毒は血液の凝固を妨げ、獲物を失血死に至らしめるとか。人間を襲って食べた記録もあるらしい。
危険を察知した弐郎介はすぐに逃走を開始。
「なんでコモドドラゴン!? なんでコモドドラゴンッ!?!?」
背後からヒタヒタヒタと、コモドドラゴンの這い寄る足音が聞こえる。
弐郎介は薄暗がりの中無我夢中で走り、出口の扉の前まで行く。
そして思いっきり、その扉を開いた。
一斉に入り込んだ強い陽光で、視界が一瞬だけ白に染まった。
目が慣れて、視界が鮮明になる。
教授から飛び出した先は、コンクリートとビルに満ちた見慣れた東京の街のハズだと思っていた。
そこは街の高台にあった。
一つフェンスを隔てた先は、どこまでも続く煉瓦造りの街並み。
石畳の歩道は人が往来し、その歩道が挟んだ砂の道には多くの馬車が行き交っている。そしてその道沿いに建つ様々な建造物たちは四角い形状をしており、それらが建ち並ぶ様はさながら並べられた積み木のようだ。
立てられた街路灯はガス灯の形、巨大な時計塔が目を引く城砦、積み木のように並べられたテラスハウス、空を飛ぶ多くの飛行船、そして遠く何本も立つ長い長い煙突から昇る赤い煙……。
眼下に広がる景色は、見慣れた東京の街ではない。それはイギリスのロンドン──それも現代のものではなく、十八世紀の「ヴィクトリア朝」の時代を彷彿とさせる街だった。
「……あ……は、へ……ん? え?」
ボリボリと頭を掻きながら、ただ弐郎介は言葉にならない声を出すしかなかった。
しかし放心状態ではいられない。背後から聞こえる這い擦る音で、すぐに我に返る。
振り返ればコモドドラゴンが、先ほど自分が開いた扉から顔を出していた。
「いやでもなんでコモドドラゴンなのぉ……!?」
襲われると思い身構える弐郎介だったが、コモドドラゴンは扉の前で丸くなり、気持ち良さそうに日光浴を始めた。
手押し車を押す青年が、その上に乗せられた様々な果実を売ろうと声を張り上げている。また別の露天商人が、コンソメスープと思われるものを売っていた。
その前を人混みに紛れながら、弐郎介が通り過ぎる。ずっとここまで信じられないものを見るような顔と目で、しきりに辺りを見渡しながら歩いていた。
「…………どうなってんのコレ……?」
実際に街中を歩いて分かったのは、ここは自分の知る世界ではないということだ。
街の風景や雰囲気こそ、古いロンドンと似たものだ。しかし、根本的に違う点があちらこちらにある。
一番分かりやすいのは、行き交う人々の姿。皆、猫のものと同じ耳と尻尾が生えていた。弐郎介と同じ耳を持った人間は、一人も見受けられなかった。
最初こそアクセサリーの類かと思ったが、耳も尻尾もいきいきと動く様を見て、実際に生えているものだと確信する。通りかかった中年男の尻尾でバシッと手を叩かれながら、弐郎介はひたすら呆然と首を振る。
「……獣人なのもびっくりだけど……」
次に弐郎介は、馬車が行き交う道路の方を見やる。
なんと馬車を引いているのは馬ではなく、巨大なカマドウマだった。それが馭者の手綱で操作されながら、六本の長い脚をカサカサ駆動させて歩いている。
「……確かにカマドウマって『馬』の字入っているけど……」
カマドウマに限らず、街で確認できた虫は軒並みデカい。
白鳥ほどもあるトンボや蝶が鳥と一緒に空を飛んでいるし、子犬ほどの蛾をペットのように抱いて歩いている人もいる。
今し方弐郎介は、足元をノロノロと進む大きなカタツムリに驚き飛び跳ねていたが、そう過剰に反応しているのは彼だけだ。
それ以外には、イグアナやトカゲと言った爬虫類が野良猫のようにあちこちにいた。コモドドラゴンもまた見つけたが、弐郎介以外でそれに慄いている人間はいない。皆、「見慣れた光景だ」と言わんばかりに平然としている。
「…………なんだこれ」
彼にとっては異常な光景しかない。
夢かと思ったが、感じる肌寒さも人いきれも、何もかもがリアル過ぎる。そもそも何度か頰をつねっている。
間違いなくこれは現実。そしてここは異世界。弐郎介はそう、認めるしかなかった。
「……もっと、こう……ファ、ファンタジーな感じだと思ってたけど……世界観もなんか、中世ヨーロッパ? な、モンかと思ってた……」
そう呑気に感想こそ述べているが、頭の中は冷静ではない。ずっとどうしようか、どうするべきかと考え続けていた。
特に彼を打ちのめさせたのは、言語だ。周りから聞こえる言葉はまず日本語ではなく、英語だった。
「……ヤバい……文学部だったから英語は分からん……専攻もイタリア語だったし……こ、こう言う異世界って、ナチュラルに日本語で通じたりしないの……?」
翻訳アプリを使いたいが、スマートフォンはない。せめて文字は読めるだろうと思い店の看板や標識を見たが、アルファベットではなく全く見たことのない文字だった。終わったと天を仰いだ。
「……え。異世界来て野垂れ死に……?」
困憊し、もたれた街路灯の上には、数匹の雀が鎮座していた。お前たちは元の世界と同じだなと微笑んだ瞬間、雀は飛んで来た巨大なハエに場所を取られ、空へ逃げて行ってしまった。