牛ノ首
家紋武範さま『牛の首企画』参加作です。
元文四年七月十九日のことである。碓氷菊右衛門が屋敷の門を出ると、青空が心做しか赤く見えた。
「これはいかんな……」
そう呟きながらも、刑場へ向かい、歩き出す。
「血を、見すぎたか……。そして今日も……」
「死にだぐないーッ! 死づどば嫌だーーッ!」
今日の罪人は町人の分際で武士に汚物をぶちまけた女であった。すれ違った時に、運んでいた糞尿が箱から飛び出したのである。上等の着物と武士の誇りを穢した罪であった。
目隠しをされ、首を受けるため掘られた穴へ身体を前に傾けさせられ、縛られた縄ごと役人に押さえられて、それでも必死に喚けば助かる道がある、と思ってでもいるかのように、喚き続ける女の後ろ首に、菊右衛門は無表情に刀を振り下ろした。
周りの者達は皆、鋭く振られた刀の音しか聞こえなかった。女の声は瞬時に止まった。肉も骨も音を立てず、ただ氷に風が触れたような音だけが響いた。衆人がふと見やると、女の首は穴の中へ落ちていた。
「お見事……!」
傍らで見ていた町奉行同心の片原板左衛門は思わず声を上げてしまった。
本来ならば死刑執行人は彼の仕事である。しかし人間の首を斬り落とすのは難しく、彼には三度斬っても遂に落とせなかった。そのため、御様御用つまりは死体を用いて刀の試し斬りをする仕事を務めていた菊右衛門に代役をしてもらっているのだ。
穏やかな表情で刀身を拭っている菊右衛門に、横から板左衛門が聞く。
「首を一刀にて両断するコツのようなものがあるのか?」
菊右衛門は静かな口調で答えた。
「搗き上がったばかりの柔らかい餅は、餅を斬ろうと思っても斬れません。しかし、餅を乗せた台を斬るつもりでかかれば……」
「き、斬れるのか!?」
「斬首の際、私の目には仏が見えています。罪人の首の、その下に。私はいつも、それを斬っているのです」
「仏をか……!」
板左衛門はしばし考え、唸り、呟いた。
「俺に仏は斬れん……。そんな度胸は……」
「ん……?」
菊右衛門が何かに気づき、門の外の気配を窺う。
「どうした?」
それを見て板左衛門も耳を澄ました。
「何やら表が騒がしいな?」
開いた門から駆け込んで来た者が叫んだ。
「暴れ牛だーっ!」
木の門をぶち壊し、荒れ狂った一頭の黒牛が刑場に乱入して来た。何があったのか、その目はぎゅるると音を立てるように焦点定まらず、鼻から瘴気のような息を吐き、人間を憎むように口元が殺気を浮かべている。
「うわーっ!」
板左衛門は菊右衛門の背中に隠れると、喚いた。
「き、きき菊右衛門どの! 何とかしてくれ!」
黒牛はまるで恨みでもあるように、鋭い角を菊右衛門に向けた。前脚を踏み鳴らし、鼻を鳴らして威嚇する。地を蹴ると、まっすぐ突進して来た。
菊右衛門は刀を抜き、構えた。その顔は落ち着き払っている。邪魔な板左衛門を左手で払い除けると、暴れ牛と真っ向対峙した。
地面も人も揺らす震動が駆け抜けた。菊右衛門は流麗な足捌きで横へ身を躱すと、そのまま代官へ向かって行こうとする黒牛の首を、横から斬った。
黒牛の巨体が雪崩のように横へ崩れ落ちる。一刀両断された頭部は巨大なサイコロのように転がり、切断面を見せて止まると、明後日のほうを睨みつけた。
「流石じゃ! 菊右衛門」
砕けた腰のまま、代官が言った。
「ひゃあ……。おっかなかったな」
板左衛門は菊右衛門に歩み寄ると、声をかける。
「菊右衛門どのがおらんかったらどうなっていたことやら……ん?」
菊右衛門は牛の首を斬り落とした格好のまま、固まったように動かなかった。その顔を横から除きこみ、板左衛門は不思議そうな顔をする。
「……何を笑っているんだ? 菊右衛門どの」
いつも無表情な菊右衛門の顔に、快楽を味わった者のような笑いが、微かに浮かんでいた。
∴ ∴ ∴ ∴
今日は何故か寺へ出掛ける気になれない。支度は整えたものの、菊右衛門は屋敷の中に座したままであった。
斬った者の魂に許しを乞うなどというつもりはなかった。弔いの念はあれど、ただ己が斬った仏を鎮めるため、菊右衛門は斬首の翌日は必ず寺の長い石段を昇る。それが今日は億劫なのだ。意味のあることとは思えなかったのだ。
人の首を斬ることに快感など覚えたことのない菊右衛門であった。ただ心を無にして刀を振り下ろす。罪人の首の向こうにいる仏ごと斬るつもりで。
心が無でなければ斬れなかった。心を無にするためにこそ、そこに仏を置いたのかもしれぬ。心を無にしなければ、仏は斬れぬ。
心が無であったからこそ、たかが武士に糞尿をかけてしまっただけのあの女を、心を動かすことひとつなく斬れたのだ。
しかし本当に自分の心は無であったのか、と菊右衛門は己に問う。
無であろうと努めなければ無になれないのは、つまりは己に言い訳をしていたのではないか。
心を無にしているつもりで、じつは刀の斬れ味を楽しんでいたのではないか。それでなければあの牛の首を斬った時の爽快感に説明がつかぬ。
いつも罪人の首を斬り落とす時には必要な仏が、あの時には見えなかった。牛に対してはどのような容赦も呵責も必要がなかったのである。それゆえか、ただひたすらに、あの感触は、快感であった。
菊右衛門は妻を娶らない。代々続いている死刑執行人の役目を継ぐ息子を儲けるつもりもなかった。初めての死刑執行人を務めた時、首をはねた女は、かつて自分の愛した女であった。血で汚れたこの血を残してはならぬと己に命じていた。
しかし、愛した女の首を斬った時、そこに果たして快感はなかったのか。
菊右衛門は己に問う。
問うたところで答えは出ず、やがて重い腰を上げた。
これから御様御用の仕事へ赴くのだ。
∴ ∴ ∴ ∴
立てられた杭の間に、首と手足のない男の胴体がくくりつけられてある。
「今日の一振りは備前長船でござる」
役人からそう説明を受けて、菊右衛門は真新しい日本刀を受け取った。
目の前の人間の胴体は、あの牛の首ぐらいの太さがあった。
菊右衛門はそれへ向かい、刀を構える。
肉の下に仏が見えた。
ゆっくり振り上げ、ゆっくりと振り下ろす。斬る瞬間に刀身が見えないほどに疾くなった。
「見事にござる」
菊右衛門はわずかに死体の臓物で汚れた刀身と、真っ二つになって落ちた胴体とを見比べながら、落ち着き払った声で役人に言った。
「刃こぼれもなく、斬れ味も一流……。だが、しかし……。もう少し試しても……構いませぬか?」
「存分に」
刀の出来栄えに気になるところがあるわけではなかった。気になるところがあるといえば、己の中にあった。
手足と首のない女の胴体を縦にくくりつけ、袈裟懸けに斬る。それはささくれひとつなく二つに分かれた。傍らに鎮座している仏ごと斬ったのだった。
何体斬っても快感はなかった。手に返って来る脈動が感じられない。どの肉体の傍らにも仏があった。
役目を終えると、一礼し、菊右衛門は御様御用の部屋を出た。
帰り道を歩いていると、塀に向かって老婆がしゃがみ込み、手を合わせているのを見た。何を拝んでいるのかと気になって、少し近づいてみると、塀の下に小さな石仏が祀られており、老婆はそれに菊の花を添えて、何かを乞うような顔をして、静かに拝んでいるのだった。小さく細い背中はあまりにも容易く消えてしまいそうで、儚く脆いものに見えた。
菊右衛門の表情が微かに動いた。憐れむようなその表情は、優しい顔のようでも、老婆を見下すようでもある。その口が小さく呟いた。
「それに何の意味があるというのか……」
石仏の顔は拙く彫られたもので、子供が描いた絵のようだった。それでも優しく笑っているのだということは見てとれる。
「失礼ですが、お婆さん」
菊右衛門は老婆に話しかけた。
「熱心に拝んでおられるが、何か願い事でも?」
老婆は顔を上げると、菊右衛門の顔を見た。石仏の顔によく似ていた。
「あぁ、お侍さま。あの世に行ってしまった孫の幸せを願っていたのでございますよ」
「そうですか……。お孫さんは、病か何かで?」
「はい。まだ十歳でございました」
老婆は懐かしむように微笑みを浮かべる。
「なぜ、こんなに素直で良い子が、と思うほどの孫でございましたのにね……。神様のお考えになることは、わたくしどもには理解できません。なぜ、あの子を連れて行かれたのか……」
「そうでしたか」
そう言いながら、菊右衛門は腰の刀に手を掛けた。
「それは……お悔やみ申し上げる」
ゆっくりと刀を抜くと、構えた。塀の下に鎮座している、小さな石仏に向かって。
「あの……」
老婆がうろたえて声を掛ける。
「お侍さま……。何を……?」
「これは私の愛刀」
構えた刀身が黒く光る。
「名を『仏包丁』と申す」
「ほとけ……ぼうちょう?」
「仏を斬る包丁にござる」
「いけません」
老婆が哀願するように、言った。
「仏様をお斬りになるなどと……」
「私は幾度も斬って来たのです。しかし、この石仏は……斬れぬ」
そう言うと、おもむろに、刀を鞘に収めた。
「刃こぼれするのが目に見えている」
一礼し、踵を返すと、まっすぐ屋敷へと歩き出した。その背を老婆はぽかんと口を開けて見送った。
∴ ∴ ∴ ∴
なぜ、あの小さな石仏を自分は斬ろうとしたのだろうか。
斬れる気がしたのだ。あの黒牛の太い首をはねた自分ならば。
しかしなんとか冷静になれた。石など斬りつけようものなら愛刀が刃こぼれすることは自明の理であった。
「どうも……おかしい」
屋敷の自室で、座禅を組みながら、菊右衛門は呟いた。
「牛の首に取り憑かれてしまったとしか思えぬ……」
何かを斬りたいなどという欲求は今までないものであった。あの牛の首を斬ってからというもの、またあれを、あの爽快感を味わいたいと、己の中で叫ぶ声がする。
あれから何人もの罪人の首を斬った。しかし人間の首などでは満足が出来なかった。中には丸太のごとく太い首をもつ男の罪人もいたが、それでも牛の首とは比べ物にならないほどに味わいが薄かった。
処刑場に転がった黒牛の首を思い出すと、心がざわざわとなった。それは明らかに不吉なものではなく、もっと明るい、歓喜のようなものである。
黒牛の目玉が恨むように斬った自分を見据えていたなら、こんなことにはならなかったように思えた。あの目玉が、菊右衛門のほうではなく、何も無いところを睨みつけていたことが、菊右衛門に得も言われぬ快感を覚えさせていた。
「仏は……いなかったのだ」
菊右衛門は確信していた。
「あの老婆のかわいい孫も、ただ病死しただけだ。極楽浄土は、ないのだ。可哀想も何も無い」
その考えに至ると、何かが吹っ切れた。
屋敷の門から誰かが入って来る音がした。
「何も……無いのだ」
菊右衛門がそう呟いた時、玉砂利を踏む音とともに姿を現したのは、町奉行同心の片原板左衛門であった。
「菊右衛門どの。ちょいといいかな?」
人懐っこい笑顔で板左衛門は戸口に立ち、話しかけて来た。
「どうされたのかな? 板左衛門どの」
静かに菊右衛門は振り返る。
「ああ……。ちょいとな、おめぇさんに剣でも習おうかと思いついてな」
そう言って板左衛門は頭を掻く。
「死刑執行人は本来、俺の役目だ。いつまでもあんたにやって貰ってたんじゃ、格好がつかねぇんでな」
「代々私の先祖は代役を務めています。今さら気にすることでもないでしょう」
「いや、何……。こないだの、牛の首をはねた時な、俺、痺れたんだよ。何ていうかな、憧れになっちまったんだ。どうかな。俺の剣の先生をさ、引き受けてくんねぇかな」
「板左衛門どの……」
菊右衛門は、ゆっくりと、立ち上がった。
「仏を斬る覚悟はおありかな?」
「それそれ! それを教えてほしくってよ。どうしたらいいんだい? どうしたら神様でも仏様でも容赦なく斬ることができるようになる?」
「何も信じぬこと」
菊右衛門は傍らの愛刀『仏包丁』を手に取った。
「それだけでござる」
『そのようなところにおったか、牛の首よ……』
菊右衛門は心の中で呟き、歓喜していた。
今、目の前に立つ板左衛門の、頭の天辺から股の間まで、菊右衛門には、正中線に一本の光が走っているように見えていた。
そこに巨大な牛の首の姿が重なる。その下に、仏はいなかった。
菊右衛門が刀を上段に構える。
「おい?」
板左衛門は冗談を聞いて笑うように、言った。
「何? 実践して見せてくれるのかい?」
「刀を構えてください」
「おいおい……。何も真剣でこんなことしなくてもよ……」
そう言いながら、板左衛門は自分の腰の刀を抜く。
「まぁ、何ていうか、気分は出るけどよ」
何も言わず、菊右衛門は刀を振り下ろした。稲妻のような一振りが、そこに立っていた板左衛門の身体を、頭から股の間まで一刀両断にする。
意味もわからず板左衛門は絶命し、左右に斃れた。
何も言わず、菊右衛門はただ、微かに笑った。恍惚の色がそこに浮かんでいた。
刀を振って血を飛ばすと、それを鞘にはしまわず、そのまま右手に持ったまま、歩き出す。屋敷の表へ、向かった。
往来に立ち、左を見ると、町娘が一人、歩いて来た。少し膨らみのあるお腹を、愛おしそうに抱えながら。
菊右衛門の目にそれは、正中線に光の走る、とても斬り応えのありそうな、牛の首にしか、もう、見えなかった。
参考文献『首斬り朝』小池一夫作、小島剛夕画