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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

DIVE

作者: 明鯉尾
掲載日:2022/04/23

中華マフィアのおすすめの映画を教えてください

かつて上海と呼ばれたこの地の夜は、まるで深い海の底にいるかのようだ。

古い昔の映像で見た海の底は、暗い闇の中に毒々しく光が浮かび上がっていた。このネオン街のように。海にも発光する生き物がいるらしい。闇に対抗しようとするのは、人間も他の生き物も同じようだ。


アパートメントの窓からギラギラ輝くネオン街をぼんやりと見下ろしつつ、モコはそんなことを考えた。

四六時中眩しい光を放つネオン街は慣れていない者からすると鬱陶しいらしいが、この街で育ったモコにとっては全く迷惑ではない。寧ろ()()()から戻ってきた直後の今はネオン街ですら目に優しく見える。

トリッパーたちの夢の中は大抵が灰色とオレンジを混ぜたような、ビビッドピンクとエメラルドグリーンを混ぜたような、極彩色の渦だ。それに比べたらネオン街なんて全然マシだった。実際、こうして眺めていればダイブ後特有の気持ち悪さも大分治まってきた。

窓際の椅子で煙草を吸いながらダラダラしているとセルが鳴った。


「もしもし」

「あー電話に出たってことは終わりました?」

「うん。回収に来る?」

「うぃっす、今すぐ行きますわ」

「分かった」


ぴ、と電話が切られてモコはそのままセルをベッドに投げた。と同時にポーンと間抜けなインターホンが鳴った。

いくら何でも早すぎる。玄関で待ち伏せでもされていたんだろうか。


まだ体調は悪いけれど、弱っているところは見せたくない。

一つ息を吐き出すと吸っていた煙草を灰皿でもみ消す。モコは椅子から立ち上がって玄関に向かった。


「お疲れ様です!!!」


玄関にはガタイのいい20代後半くらいの男が一人立っていた。

大きな声が頭に響く。思わず顔を顰めたが、相手はにこにこと笑ったままだった。

何度か迎えに来たことのある男で、その声の大きさも白金の髪もよく目立つ。なんでも地毛ではなく脱色しているらしいので、モコは彼を目立ちたがり屋だと思っている。

何度か来たことがあるため患者のいる部屋は分かると思うのだが、彼はいつもモコに案内される。決してモコの前を勝手に歩こうとはしない。今どき珍しい、礼儀正しい男なので嫌いではない。

いつも通り患者の部屋に案内すると、男はベッドに仰向けに寝ている患者をちらりと一瞥したあと、モコに向き直った。

迎えに来たはずなのにまるで興味が無さそうなのもいつも通りだった。


「どうすかね、アイツは?」

「普通の電子ドラッグだったから、1週間もすれば元の生活に戻れると思う。でもその1週間は映像を見るのも音楽を聞くのも駄目だから。電子媒体に触らないこと。薬自体の中毒性はそこまで高くないはずだけど、ルーティン化してる可能性があるからちゃんと復帰させたいなら見張りをつけた方がいいかもね」

「うっす、上に相談しときます」


男はモコに頭を下げると、ベッドに寝る男をぞんざいに担いだ。

その手つきから、きっと患者に見張りを付けられることはないだろうな、と何となく思った。

ドラッグに溺れた時点で男は詰んでいたのかもしれない。それでも医者に見せるくらいなのだから、利用価値はあったはずなのだが。


首を突っ込んでも仕方が無いのでモコは考えることを辞めた。


玄関口まで男を見送ると、白金の頭が再度下げられる。


「手間かけました」

「…まあ、仕事だから」

「あっ、そうそう、多分もう暫くしたらツバキさんも来るっすよ。今日は牛丼って言ってました」

「ぎゅーどん…」

「じゃあ自分はこれで。またよろしくっす」


黒塗りの車に雑な手つきで男を投げ入れるのを横目で見つつ、モコは玄関を閉めた。

今日は牛丼、という言葉に少しだけ浮かれていた。




かつて上海と呼ばれたこの地は、今は電子・物理ドラッグとマフィア同士の争い─電脳戦争と呼ばれる賭け事(ゲーム)に侵された眠らない街である。

その地でモコはドラッグ専門の闇医者をしていた。

闇医者と言っても、この街では真っ当な医者の数の方が少ない。ほとんどがどこかのマフィアお抱えの、特に免許なんてものはない自称医者だ。例に漏れずモコも「黒」というマフィアお抱えの自称医者だった。

先程の患者もあの白金の男も「黒」の者。

電子・物理ドラッグのある一定の限度を超えた中毒者がこうしてモコの元に運ばれてくる。

電子ドラッグは流行り廃りがとても早く、また拡散しやすいのでドラッグ専門のモコの元にも定期的に患者がやってきて、食い扶持に困ることはない。

電子ドラッグを解毒するためのダイブも、電子ドラッグの研究自体もモコに取っては苦ではなく、興味を持てるものだ。だからモコは今の暮らしが気に入っていた。

それに。


自室に戻っていたモコの耳に、またぽーんと来客を知らせるチャイムが鳴った。

玄関の鍵をあけるとすぐに扉が開く。


「ただいま、姉さん」

「……おかえり、ツバキ」


モコがそう言うと玄関に入ってきた男は微笑んだ。


──それに。

大事な弟の傍にいるためなら、モコは何だってよかった。



ツバキは玄関を再び施錠したあと、モコの方を見て笑顔を消した。

あ、しまった、とその理由が分かったが時すでに遅い。


「姉さん、そんな格好で人前に出たんじゃないよね?」


モコの今の格好はキャミソールにショートパンツ。しかも裸足でキャミソールの下は下着のみ。


「……忘れてた」


そう言って何となく流そうとしたが、ツバキが無言で更に眉間の皺を深くしたので失敗したなと他人事のように思った。

ツバキはわざとらしくため息をつくと、片手にビニール袋を持ったままモコの自室に入り、薄手のカーディガンを無言で突き出した。

モコも大人しくそれを受け取って羽織る。

いくら言っても薄着をやめないモコの為にツバキが買ったカーディガンである。結局こうして言われてから着ることの方が多いが。

ツバキはモコの格好にうるさい。いや、ツバキから言わせるとモコが無防備すぎるらしい。男の前で肌を出しすぎだと怒る。言いたいことは頭では分かっているが、モコは自分でも薄着癖を治すことを諦めている。

そんなことをツバキは知らずに、モコがカーディガンを着たことに満足げに頷くと、ビニール袋をガサガサ言わせながらキッチンへと向かった。モコもその後について行く。


「今日、牛丼?」


シンクに並べられていく食材を眺めながらそう聞けば、ツバキは「そうだよ」と頷いた。


「モコ姉、ダイブの後なんでしょ?辛かったら寝ててもいいよ」


玉ねぎを刻み始めたツバキの周りをうろちょろするモコに、食材を見つめたまま声だけがかかる。


「……別に、さっき休んだから平気」

「そう?でも気が散るから椅子に座って待ってて」

「……」


モコは無言で大人しく言われた通りにダイニングの椅子に座った。

ぐでっとお行儀悪くダイニングテーブルに突っ伏したまま、手際よく肉と玉ねぎを炒めるツバキの背中を見つめる。


ツバキはモコの弟だ。

正確に言うと血の繋がりは全くない。でもモコは彼の事を大事な家族だと思っている。

スラリと伸びた手がフライパンを握る。ダークブラウンの髪は、まだら模様の髪を持つモコとは全然似ていない。今はそうでも無いけれど、昔はツバキのような普通の髪の色がよかったと憧れたものだ。


ふわあと欠伸が出た。

ダイブした後の疲れはまだとれない。

モコは知らず知らずのうちに目を閉じていた。




「……姉さん?」


視線を感じなくなったので振り向くとモコがテーブルに突っ伏して寝ていた。

ダイブしたと聞いているし、まだ疲れているのだろう。

ツバキは火を止めると椅子からモコを抱き上げた。くたっとされるがままの彼女に笑みがこぼれる。警戒心などまるでない。子供のようだ。

そのままモコの自室まで抱えて歩き、ベッドにそっと横たえた。

そっと金と黒のまだら模様の髪を撫でる。

モコ自身はあまり好きではないらしいが、ツバキは彼女のこの異質な髪が子供の頃から大好きだった。この髪は目立つから、どこにいても彼女の場所を見失うことはない。最も、ツバキが彼女から目を離すことはほとんどないけれど。


「おやすみ、姉さん」


そう言って彼は彼女の自室を後にした。



+++


モコが目を覚ますと目の前にはツバキの寝顔があった。

一瞬自分がどこにいるのか分からなくなる。暗いがネオンの光が窓から零れていて、すぐにここが自分の部屋のベッドだと分かった。あのままリビングで寝落ちしたのを運んでくれたらしい。

背中側で自分のほうに引き寄せるように回っていたツバキの腕をそっと退けて、モコはベッドからのそりと起き上がった。

お腹が空いた。が、今は煙草が吸いたい気分だ。


ローテブルの上に置いてあったライターで煙草に火をつける。ゆらゆらと紫煙が漂うのをぼうっと見つつ、モコは窓枠に座り込んだ。

ピンクや紫のけばけばしいネオン。飲食店や、ホテルや、それからモコの知らない国の言葉の明かりがモコの部屋を照らす。

もぞ、とツバキが寝返りをうち、薄いタオルケットがベッドから落ちた。モコは視線を室内に戻した。

モコのベッドは1人用なので2人寝ると狭い。しかもいつも壁際にモコ、反対側にツバキが寝るのでツバキは割とギリギリを攻めている。タオルケットじゃなくて彼自身が落ちないか少し心配になった。

タオルケットを拾うついでにちょっとだけツバキを壁際に押した。う、と抗議めいた呻き声が聞こえたあと、パチリと目が開いた。


「…ごめん、起こした」


申し訳なくなって謝れば、首を横に振ったあとツバキもベッドから体を起こす。


「寝てていいよ」

「…………モコは?」


掠れた声で問いかけられてモコの煙草を持つ手が少し震えた。ツバキがモコのことを名前で呼ぶのは珍しい。怒っている時か、真剣なときか。今は寝起きで寝ぼけているのだろうけど。


「私はもう一本吸いたいから」


動揺を悟られないように視線を外してそう答えると、ツバキはベッドから完全に降りてしまった。


「…ツバキ?」


不思議に思って彼を見上げれば、すっとタバコが取り上げられた。

むっとして睨みつける。そんなモコにくすりと笑うとツバキは取り上げた煙草をそのままくわえた。


「ちょっと?」


抗議するモコに「ほら、もう一本吸いなよ」とツバキは言う。


「は?」

「そうしたらモコ姉も寝るんでしょ?」

「いや、そう言う意味じゃ…」


途中まで言葉を紡いでモコははあとため息を零した。こういう時のツバキは抗議するだけ無駄だと分かっていた。

諦めたモコがもう一本煙草に火をつけくわえると、ツバキはそんな彼女を抱き上げた。


「ちょっ、」


驚いて声を出しかけて、煙草をくわえていたことを思い出して慌てて口を噤む。

ツバキは彼女を抱き上げたまま窓枠に腰を下ろし、その膝の上にモコをのせた。


「ちょっと急に動かないでよ…危ないでしょ」


煙草を口から離して文句を言う。

しかしツバキはニコニコと嬉しそうに笑っている。


「姉さんとお揃いだ」

「…………何が?」

「煙草。これ俺も好きなやつ」

「……」


知っている。

というかツバキがよく吸っていたのを見てモコは自分も吸いたくなったのがきっかけだ。


「……そう」


とは何だか照れくさいのでモコは黙っていることにした。

ツバキは黙って手櫛でモコの髪を梳いている。彼はモコの髪をよく触る。彼が幼い頃からの機嫌がいい時の癖だ。

モコは黙って背中を彼の胸に預けた。


2本の細い紫煙が天井へと登っていく様子は、深海で空気が水上を目指すのに少しだけ似ている気がした。



×××



再度寝直して2人が起きたのは昼頃。

交代でシャワーを浴びてモコは昨日の夕飯になるはずだった牛丼を食べていた。ちなみにツバキはコーヒーを飲んでいるだけだった。

唐突にモコのセルが鳴る。


「もしもし?」

「すんません、まだらさん。一人これから連れてくんでお願いします」

「…分かった。電子?」

「はい、お願いします」


電話越しでも頭を下げているであろう白金の男が目に浮かぶ。

セルが切れるとモコはため息を吐いた。


「また?」


ツバキが眉を顰めてそう聞いてくる。

若干機嫌が悪そうだ。


また、という言葉にモコも同意しながら頷いた。


「そうみたい」

「連日()()のはやめた方がいいんじゃない?少しくらい放っておいても平気でしょ」


潜るというのはダイブのことだ。

電子ドラッグの中毒がある一定まで進むと、使用者は意識を失い精神世界に溺れる。本人たちは夢を見ているような心地らしいが、意識を失った体はやがて衰弱死する。それを起こすには、患者の精神世界に潜るしかない。この中毒者たちの精神世界に潜ることをダイブという。

モコは闇医者だ。彼女の元に運ばれてきた患者というのは大抵が意識を失くした状態で、それでも組織にとって利用価値がある彼らを目覚めさせるのが仕事だった。


「……仕事だから」


ダイブは精神的にも肉体的にも強い負担がかかる。ダイブ後は気持ち悪いし、慣れない頃はよく吐いていた。それに助けに入ったはずが、自分も囚われてしまい精神世界から帰って来れなくなる同業者もいる。モコの師匠はそんな奴らを間抜けと笑っていたが、幼い頃のモコはその話を聞いてゾッとしたものだ。


それでも仕事だからモコはダイブをする。

今のモコにとってその作業は苦ではない。当然体調は悪くなるが、それだけだ。


ツバキは暫く心配そうにモコを見つめていたが、しょうがないなとばかりにため息を零した。


「別に馬鹿なトリッパーなんてどうでもいいよ。疲れたらすぐ帰ってきて。夕飯用意してるから」

「もちろん。自分が一番大事だよ。それにツバキのご飯があるなら絶対に戻るに決まってるでしょ」


モコも別に自ら電子ドラッグにハマった奴らなんてどうでもいい。それよりも自分が大切だし、ツバキのご飯をまた食べられることの方が大事だ。


半ば本気で軽口を叩くとツバキが嬉しそうに笑った。彼はモコに餌付けをするのが好きだ。


和やかな雰囲気になったところでぽーんとチャイムが鳴った。やはり白金の男、行動が早い。


出迎えに行こうとしたらツバキに手で制され、「俺が行くからカーディガン着て」と言われた。モコは大人しく言われた通りにカーディガンを羽織り、再び座り直した。まだ牛丼も食べ終わっていない。

味わいながら食べていると、昨日と同じく白金の男がもう1人男を担いで登場した。ツバキはその後ろで彼らを睨みつけていた。


「すんません、まだらさん。食事のところ」

「ん、仕事だからそんなこと言ってられないでしょ」


タイミングよく食べ終わった。

ごちそうさまとカトラリーを置き白金の男を治療室に案内する。モコ、白金の男(+担がれているヤク中)、ツバキの順でぞろぞろとアパートを歩く。


「そこのベッド使って」


3つある内の一つを指させば、白金の男は背負っていた男を乱雑にベッドに投げた。

痛そうだと思うが投げられた男はそれでも目を覚まさない。電子ドラッグの中毒者は外界の刺激では決して目覚めないのだ。


モコはベッドの傍に置いてあった腕時計型の改造補助器具を腕に付けた。精神世界に潜るのはかなりの負担なため、このように補助器具を身につけてダイブするのが普通だった。

ツバキは白金の男を睨みつけていたが、モコが患者の傍に椅子を持っていこうとしているのに気が付くと手伝ってくれた。


「じゃあ、行ってくる」


患者の手を握る。ダイブの詳しい仕組みは知らないが、こうやって患者と自分の波長を合わせないといけない。


「…ねえさん」


モコにとっては慣れた作業だ。

どことなく不安げな顔をしたツバキに笑ってみせる余裕もあった。


「今日の夕飯はオムライスにしてよ」


そう言うと小さく「分かった」という声がして、モコはダイブした。




ふっとまるで糸が切れた操り人形のように椅子の背もたれに体勢を崩したモコをツバキはじっと見つめて、その頬を微かに撫でた。

馬鹿なトリッパーとモコの手が固く握られているのを今すぐ外したいが、それをするとモコが戻って来れなくなることを知っている。だから忌々しいと思いつつ舌打ちだけは止められなかった。


モコがいなくなった途端、怜悧な雰囲気になったツバキに白金の男の声がかかる。


「ツバキさん、向こうに行くなら車乗ってきますか?」

「……いい。今日はここにいる。PCも持ってきてるし」

「了解っす」


モコを見つめたままそう答えたツバキに、男はこちらを見ないのかと怒ることもなく静かに退室した。

ツバキの方が男よりも上の立場だ。この社会では上下関係が全てだ。それに彼らが互いを大切にしていることを男は薄らと知っている。自分の仕事は終わったのだから、これ以上は二人の邪魔だと弁えていた。


ツバキは一度診察室を離れると、片手にPCを持って再び部屋にやって来た。そしてPCを診察室の古びた机に置くと、静かにキーボードを叩き始めた。




+++



モスグレイにバーミリオン。

相変わらず今日も何とも言えない色の組み合わせだ。

しかもぐるぐると混ざりそうで混ざらないまま、その渦が蠢いている。ずっと見ていると何だか気持ち悪くなってくる。目をつぶりたいけれど、精神世界に瞼はない。一刻も早く患者を目覚めさせるしかないのだ。


モコははあとため息を吐き、患者探しを始めた。

精神世界は人によって様々だ。今日の患者の世界はゴチャゴチャした街─かつて上海と呼ばれたこの都市─が広がっていた。ただし、色は全てモスグレイとバーミリオン。街は形だけ。白い粘土で街の形を作って、色付けをしたイメージだ。


精神世界で核となる男を見つけて、叩き起す。

それがモコの目的である。

街全体を虱潰しにするのは中々疲れるが、精神世界なので足が痛いとかはない。長くダイブすればするほど、起きた時に疲れるのは事実だが。


モコのところに運ばれてくる患者は組織の関係者だ。だからとりあえず組織を目指そうと、モコは誰もいない街を歩き始めた。



ようやく組織の建物までたどり着いた。

一見ただのビルだが、ここが黒というマフィアの総本山だ。


「疲れた」


体は疲れていないものの、なぜか疲労感があってモコはついそう口に出していた。

ここに男がいなかったら一度戻ろうかと考えたくらいだ。精神世界の時間と現実の時間感覚は一致しないが、長いことダイブしているような気がする。

…オムライスがいいとお願いしたし。

ツバキはリクエスト通りにモコの為にオムライスを作って待っているだろう。

夕飯までには一度帰りたい。


考え事をしながら無人のビルを進む。

いつもは厳つい男たちが扉の前で出迎えてくれるが、ここには誰もいない。

1階、2階…と上に進み、件の男を見つけたのは最上階だった。


男はこの組織の頂点に立つ頭が普段座っている椅子にいた。


「……」


精神世界は欲望に忠実なのだろう。

誰かに教えられた訳では無いが今まで幾人もにダイブして来たから、何となくモコはそう感じている。

そして自分の組織のトップの椅子に座る男。

その意味が示すことは簡単に想像出来たが、今はそれに何かを言うつもりは無かった。


「……あとで報告しておこう」


この組織のトップが流石に薬に溺れるような小物に殺られるタマでは無いと知ってはいるが、見てしまったものは伝えなければならないだろう。


とりあえず男を起こそう。

大きな椅子に腰掛けて眠り込んでいる男に手を触れたとき。


「っ!?!?」


音楽が聞こえた。


驚いてすぐに手を離す。


優しいような、懐かしいような、哀しいような。


一瞬過ぎてどんな旋律だったかは思い出せない。

でももう一度聞きたくなるような不思議な魅力を持った音楽。


もう一度聞いてみよう、と伸ばしかけた手をもう片方の手で止めた。


おかしい。


モコは自分が感じた違和感の理由を探した。

人によっては精神世界の中で音楽がかかっていることはあった。だから音が聞こえたことは特段おかしなことではない。

じゃあ何が?


モコは自分の腕を見つめた。

男に伸ばそうとしている右手。それを掴んで止める左手。

……そうか。

モコはダイブを何回もしたことがある。そしてトリッパーたちを見つけてはこうして揺り動かして起こしてきた。

今までトリッパーたちに触れたときに何かが起きたことは一度もない。


彼らは今自分の精神世界に溺れている。意識を失っているのだから、こうしてモコがいることにも気付いていないはず。

なのに今、この男はモコが触っただけで何かをした。男は目覚めていないのに。

つまりこれは男の意識でやったことではなく…


「ドラッグ……?」


ドラッグの中毒者を起こしに来た誰か─…大抵は闇医者に何らかの作用を起こす。

そういうドラッグのことは聞いた事がない。

だがそう考えると納得出来る。なによりもこのもう一度あの音楽を聞きたいという気持ちは、ドラッグ依存の初期症状に似ている。

何となくもう一度、と繰り返すことで後に引けなくなってしまうのだ。


モコは久しぶりにゾッとした。

こんなものがあるなんて。まるで闇医者をターゲットにしたようなドラッグだ。


震える右手をぎゅっと握りしめて、モコはもう一度男に触れるしかないと覚悟を決めた。それしか男を起こす方法はない。

それにここで男を起こさなければ、この恐ろしいドラッグへの手がかりも消える。

これを放っておいたら大変なことになるとモコは確信していた。


恐らく一度触れたくらいでは流石に中毒症状までは出ないはず。それはそうならないでほしいという希望的観測だった。


「……いける」


絶対に帰ると約束した。


モコは自分の帰りを待つ弟の元に帰らなければならない。きっとモコのリクエスト通りにオムライスを用意して待っているから。


モコは精神世界では無駄だとわかりつつも片手で耳を塞いで男を揺り動かした。




+++



PCを眺めていたツバキが振り返ったのは空気が揺れたからだ。


「モコ!」

「っはあ、はぁ……っ」


溺れていたかのように苦しくて息が整わないモコに駆け寄ってきたツバキを見て、モコは安心した。


よかった、帰って来れた。


ぎゅうといつにもなく抱きつかれて、モコも男の手を離し気だるい腕を頑張ってツバキの背中に回した。

どれくらいダイブしていたのだろう。

部屋の中は真っ暗で、ツバキのPCの明かりだけが光っている。この部屋はネオン街に面していないから暗いのだ。電気をつければいいのに、とモコは関係の無いことを思った。


「……いま、なんじ…?」

「2時」


抱きしめられたまま返事が返ってくる。

夜の、というのは言われなくても分かっていた。


かなり潜っていたようだ。

モコは心配をかけて申し訳なくなった。

よしよし、とツバキの頭を撫でるとそっと体が離された。


「わっ」


そしてそのまま横抱きにされる。

ツバキは身長が高いので地面がいつもよりも遠くて少し怖い。


「ツバキ待って!」


モコはそのまま診察室から出ようとするツバキを慌てて止めた。


「なに?」


足を止めた彼の胸を軽く叩く。


「患者の容態見ないと」

「そんなのどうでもいいよ」

「いや良くないから……」


曲がりなりにもモコは医者でドラッグ中毒者だけど男は患者だ。

それに男には目を覚ましてもらって、あのドラッグのことについて話を聞かなければならない。


「聞きたいことがあるから目を覚ましてもらわないと困るの」


端的にそう言えばツバキは無言で男の側に引き返した。

流石に医者をターゲットにした新しいドラッグ、ということまでは言わなくてもいいだろうとモコは判断した。まだそうと決まったわけじゃないしツバキに無駄に心配をかけたくなかった。

ツバキに横抱きにされながら、脈をとったり針で突っつく。すると男が払い除ける仕草をした。反射反応がある。精神世界からは起こせたようだ。じき目を覚ますはず。モコが安堵の息を吐くと、もういいだろうとばかりにツバキが立ち上がった。


大人しく抱かれて移動し、ついたのは自室のベッドだった。

そっと横たえられて離れていこうとするツバキを起き上がって追う。


「休んでなよ」


一言そう言われたが、首を横に振った。


「平気。………ツバキ、オムライスは?」


そう聞くとツバキはふっと笑った。


「ちゃんと作ってあるから」

「食べる」


そう言ってベッドから立ち上がり、あれ?と思うまもなくかしいだ体をツバキが支える。ここまで疲労しているのは珍しい。力が入らない。


「だから今は休んでなって」

「いやだ」


どこか呆れたような口調で咎めたツバキをモコは拒否した。

はあとため息を吐いたあと、再びツバキの腕がモコの背中と膝裏に回る。


リビングに連れて行ってくれているらしいツバキの腕の中で、モコはオムライスのことを頭に思い浮かべた。


お読みいただきありがとうございました

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