突破
たいして息を吸えていないまま、水の中へ。
「ごぽっ!」
水は思っていたより冷たく、視界は思っていたより悪くない。必死にヒスイの足を追いかけて、水をかく。
ヨナタンのことが一瞬頭をよぎったが、彼の位置を確かめる余裕などまったくなかった。
「体が……、重い!」
服を着ているからだろうか、うまく前に進まない。ヒスイから少しづつ距離が離されている気がする。
「水を掻く時に、力を抜いて」
頭の中に、そんな声が響いたような気がした。
その言葉に従い、脱力する。力みが減ると、少し進みがよくなった。
「まだなの!?」
周囲はどんどん暗くなる。ヒスイの灯りの呪文がここでは効力を発していないのだろうか。
視界がなくなるにつれ、再び不安が襲ってきた。体が固くなる。
「息が、続かない……」
ほとんど視界がなくなったとき、
誰かに首元をぐいとつかまれた。そのまま、ぐいぐい引っ張られる。
「力を抜いて、運命に身を任せるのよ」
再び不思議な声が聞こえた気がした。
力を抜いて、引っ張られるに任せる。水の抵抗を、極力殺す。そうすると、なぜか息も少し楽になった。
「こうかしら?」
引っ張られるタイミングに合わせて、足で水を蹴る。体をしならせる。
「でも……」
さすがにまた息がつらくなってきた。頭の中が徐々に真っ白に輝きだす……。
気づいたときには、水面でバシャバシャともがいていた。
「立って!」
立ち上がると、膝ほどの水位だった。
数メートル横で、ヨナタンが立ち上がりながらゴホゴホとせき込んでいる。
「走れる!?」
声がうまく出せず、ただ走りながら何度もうなずく。
しばらく走っていると、少し気分が冷静になってきた。ヒスイが前を走っていて、ヨナタンもすぐうしろを走っている。
「少しスピードを落とそう」
ヒスイも少し息が切れている。
「装備を失くしていないかしら?」
ヒスイに言われて、歩きながら自分の体をチェックする。何も失くしていない、問題なさそうだ。服がずぶ濡れなのが気になったが、
「大丈夫だ。歩いていれば、そのうち体温で乾くよ」
とヒスイ。
「あの蜘蛛は?」
少し歩くとヒスイに尋ねる余裕もできてきた。
「粘菌は水を潜ってやってくるだろうけど、時間は稼げるかもね」
少しづつ息も整ってきた。
そして、追いつかれることもなく、ついに出口らしき場所に到達。
「着いた!?」
入った時と同じように、洞窟の入り口に全面板が張ってあり、隙間からかすかに灯りが漏れていた。
「じゃあ、端を通れるようにするから、少し向こうを向いていてくれるかしら?」
ヒスイはあまり力を出すところを見られたくないようだ。
マルーシャとヨナタンが背を向けると、ふーと息を吐く音。
「ふんっ!」
という気合いとともに、ミシミシ、ミシミシと木がきしむ音。そして、バキッ、バキッと木が裂ける音。
「よし、いいよ!」
振り返ると、ヒスイもかがんで通れるほどの穴が開いていた。
「やっと出れる……」
外はもう夕暮れどきのようだ。
と、三人で外に出ると、
「なんだ? おまえらは?」
いきなり派手な格好の男。続き服のようなものに、文字がたくさん書かれている。
周囲を見渡すと、見える範囲だけで五十人はいる。酒盛りのように騒がしい。どこかに馬も繋がれているようで、時折いななき声が聞こえる。
「暴走天使でよろしく! 暴走天使でよろしく!」
「唯我独尊でよろしく! 唯我独尊でよろしく!」
何かよくわからない言葉を繰り返し叫んでいる。
「おまえら、喧嘩売ってんのか!?」
ひとりがマルーシャに詰め寄ってきた。
「こいつら……、騎馬ゾクだな……」
と言いながら、ヒスイがずいとマルーシャの前に出た。
「ひいっ!」
マルーシャに詰め寄ろうとした男が、ヒスイの視線でうしろへ吹っ飛んだ。
「おい、なんだこいつら!」
三人が周囲を取り囲まれるが、ヒスイの体の大きさに少しひるんでいるようだ。
「ゾクチョウ!」
「ゾクチョウ!」
一人の、髪を逆立てたひときわ派手な男があらわれ、ヒスイの前に立った。やはり、だいぶ体格差がある。
「わりい、用事ができた……」
ゾクチョウと呼ばれた男が、人込みを掻きわけていなくなった。
「バーンチョウ!」
「バーンチョウ!」
今度はもう少し体格の良い男が出てきたが、
「わりい、今日は腹いてえわ……」
ヒスイの前に立って睨まれると、急に具合が悪くなったようだ。
「ウーラーバン!」
「ウーラーバン!」
三人目がヒスイの前に立ち、周囲の期待を背負って泣きそうな顔になっていたとき、
「アニキが来たぞ!」
「おお! アニキだ!」
ひとの数は百人ほどになっていて、その人混みがさっと開いて、その向こうに黒塗りの馬車が停まった。客車の窓ガラスも真っ黒に塗られたドアが開き、太った男と痩せたのっぽの男が降りてきた。
「おやおや、こんなところに野鼠が迷い込んだようですね……」
完全に反り上げた頭、額には、大王城と書かれている。
のっぽのほうは、長髪に黒い口マスクをしており、そこには白字で不真面目と書かれてあった。
太ったほうがヒスイのすぐ前に立った。他の者と比べてもかなり大きな体をしているが、やはり頭ひとつヒスイよりも低い。
「ぼくたちが暴走天使シャルル団と知って……」
「ひぽっご!」
左右、どちらの手で殴られたかもわからないまま、回転して地面に転がる太った男。
「きえーぃ!」
どこから取り出したのか、長い剣でヒスイにいきなり斬りかかるのっぽ。その斬撃を腕で受け止めるヒスイ。キーンと高い音がして、束から先が数メートル先に突き刺さる。
「アイアンスキン。アイアンスキンはいかなる斬撃も受け付けない」
折れた剣を振り下ろした姿勢のまま、顎まで下がったマスクに開いた口、呆然として動けないのっぽ。
数秒間沈黙が続いたが、
誰かの、
「椅子をお持ちしろ……」
という声に、折り畳みの椅子が三つ並べられた。
「どうもすみませんでした!」
真ん中にヒスイ、左右にヨナタンとマルーシャが座り、その前で手をついて頭を下げる太った男とのっぽの男。たくさんいた周囲の者も、立ったまま膝に手をついて頭を下げている。
厳しい顔つきのヒスイ、しかし、表情を和らげて言った。
「おもてをあげよ。わたしも伝説の漢、ライディーンを開祖とする大往生流を習っていたよ」
太った男のほうが、ぱっと頭をあげた。
「ど、どうりで……、殴られたとき、痛みよりも優しさを感じました!」
と嬉しそうに言った。
「ところで、おぬしたち、名前は?」
「アキカゼです」
のっぽのほうが先に答えた。
「そ、その……」
太ったほうは少し答えづらそうだ。
「ライディーンです……」
ついに消え入りそうな声で答えた。
「なにぃ!?」
一瞬険しい表情になるヒスイだが、すぐに優しい顔に戻り、
「その名に恥じぬ漢になれ」
と言葉をかけたので、またうれしそうに顔をあげる太った男。
「ところで……」
首都ビヨルリンシティまでいくのに、ちょうどよさそうな乗り物がある。
「この馬車で首都まで乗せていってもらえるかな?」
「は、はい!」
中に乗り込むと、六人乗り、向かい合わせに三席づつ並んだ珍しいかたちの客車だった。
「広いね」
三人とも、進行方向を向く側の席に座って、足をのばす。
アキカゼとライディーンも乗ってこようとすると、
「待て、おまえたちは馬でついてこい」
「は、はい!」
ヒスイも足を前の座席に乗せて、余裕の表情になった。
それから数時間、すっかり夜になった。
「もうそろそろだね……」
ヒスイが羊の革袋から、メモを取り出した。マリーからもらったメモで、その日の宿の場所が書いてあるようだ。
「首都の郊外にあるようだけど……、このまま行くと目立ってしまうね」
ということで、少し手前で黒塗りの馬車を降りて歩くことにした。
「ヒスイねえさん、何かあれば、いつでもなんでも言ってください!」
暴走天使シャルル団百騎あまり、ライディーンたちはもと来た道を帰っていった。
「わたしたちが潜伏するための、隠れ宿をマリーが手配してくれたんだけど……」
しばらく歩いていくと、首都の町はずれに、とても大きくて派手な宿が見えてきた。何層にも連なる瓦の屋根、いくつもの突き出た櫓。
「あれが隠れ宿なの?」
「メモだと確かにここなんだけど……」
三人で近くまで来てみると、確かに入口のところに隠れ宿サスキア御殿と大書されている。
「マリーがここを手配したの?」
「とりあえず入って聞いてみるか……」
しかし、宿の入り口もとても豪華で、これから泊まるであろう、たくさんの人で賑わっており、しかもどの人も綺麗な身なりで都会の大富豪といった感じだ。
「いいのかな?」
いっぽうの自分たちは旅装の、水に浸かったのもあってか衣服も髪もよれよれで、しかも体からなんだかかび臭いニオイが漂っている。
入り口のあたりでやや躊躇していると、
どうやら団体様が到着したようだ。
「チェックインでござるー! チェックインでござるー!」
甲高い声がして、派手な衣装を着た行列がやってきた。
「アショフ国国使にして絶世の歌姫、アグリッピナ・アグリコラ妃殿下であらせられるぞ、道をあけよー!」
旗を持った露払いが掛け声とともにやってきた。
「そこな愚民! ただちに道を開けよ!」
入り口に突っ立っていたマルーシャたちを見咎めて、声を荒げる。
慌てて脇へ寄る三人。
そこへ、
何十人もの男たちに担がれた大きな輿。入り口の手前で、一人の人物がその輿から降りてきた。