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日米の政府は勝手に協議して、トライデントと六角産業の企業活動を安全保障上の問題と捉え、保護という名の囲い込みを始めようとしていた。
供給される高機能製品が日本国内で生産されていると思い込んでいる米国は、国防の観点だけでなく国内産業保護のためにも水平的な技術移転を求め、日本政府と綱引きを行っている。
六角産業は二子玉川にある五階建てのビルを買取り、新オフィスを開設した。とは言っても、建物自体は二十世紀後半の不動産ブームの頃に建設された、頑丈さだけが取り柄のパッとしない物件である。
大田区にあった工場は、中華系の組織を釣り出す囮として残されていたが、公安による大捕物があった後解体された。だからこのオフィスが六角産業の、表に晒した唯一の顔である。
地下に駐車場があり、一階のほとんどが倉庫に割り当てられているが、今は何も入っていない。地上の入り口部分以外の窓には、ガラスの内側に明るい色で塗られた厚さ一センチの鋼板がはめ込まれており、そこからの侵入者を阻んでいた。
もっともその鋼板は、ガラスとの間に設置されたブラインドが隠していて、建物の中から調べなければそれと知られることもない。
一階の各部屋のドアはその枠共々、表にチーク材に見える突板のシートが貼ってあった。その下の心材は窓の内側を守っているのと同じ、一センチ厚の鋼板だった。
正面にある三間幅の入り口だけは、強化ガラス製の自動ドアである。しかしその内側に、普段は壁の中に収納する形式の防火扉が新設されていて、これも一センチ厚の鋼板製だ。同様な仕掛けは、地下駐車場への入り口や消防法上必要とされた非常扉などにも施されている。
要するにこのビルの一階は、戦車でも持って来ない限り突破できない金庫みたいなものであった。この突破困難という点は建物に入ることだけではなく、俺との面会を求める場合にも言えた。
自動扉から入っても、正面にあるエレベーターの扉はやはり鋼板製であり、来訪者に何の反応も示さない。そもそもエレベーターを呼ぶためのボタンが無いのである。脇の郵便物受け取り用のボックス奥には非常階段に抜ける防火扉もあるのだが、これも鋼板製で外側からは開かないようになっていた。
どうやっても入ることができず、腹を立てた東アジア系の外国人が一度騒ぎ立てて暴れたことがある。廊下に面したドアを蹴って廻ったその男は、一センチ厚の鋼板との戦いで、当然のことながら敗北を味わうことになった。
その後、更に怒ってライターを取り出し、持参した書類か何かに火を点けて放火しようとしたところを、駆けつけた警察官に取り押さえられたのである。まあ、放火は論外だが、面会を求めるなら事前にアポをとりつけることが社会常識だ。
とは言うものの、俺に会う約束を取り付けることが容易ではない。放火しようとした男も、アポイントメントを求めて電話してきた。その時「そちらのお話を伺うことが可能だとしても、三ヶ月以上先のことになると思います」と、桃花にやんわり断られている。それなら無理矢理オフィスに乗り込んで直談判とばかり突撃し、勝手に玉砕したもののようだった。
二階三階がオフィスだ。ただ、このオフィスで仕事をしているのは五月になった今でも、謝花桃花と俺の二人だけである。あと、時々顔を出すのが渉外部長の君嶋だ。
二階には、エレベーターと非常階段、給湯室やトイレなどの水回り、そして物品庫及び私物が置けるロッカールームがある。これらのための区画を除き、二階の間仕切りはすべて取り払われ、百坪ほどのワンフロアになっていた。
このフロアの中央に君嶋にあてがわれたデスクと応接セットが、冗談みたいにポツンと置かれているのだが、奴は「怖い」と言って、全然この階には寄りつかない。
玄関から真っ直ぐ三階に上がると、エレベーターホールの正面奥に秘書室がある。その前を通らないと入れないさらに奥の社長室に、君嶋は時々、報告という名目で無駄話をしにやってくる。彼の仕事は、六角産業側が交渉したい相手との、本会談前のコーディネートというか予備交渉だ。だから商売がある程度順調に動き出してしまって、新たな課題も無い現在は、暇と言えば暇であった。
秘書室長の肩書きを持つ桃花にも、まだ直属の部下はいない。ただ外部委託している事務処理の取りまとめ、財務、庶務、そして秘書課の本務である内外との調整、接客や文書管理まで、一人で一手に引き受けている。だからさすがに俺も、今後人手を増やすことが必要だと考えていた。
「えっ、求人ですか?」
「そうだ、君嶋はどう思う?」
「いや、それは、人間が増えるのは良いと思います。あの広いフロアに一人ぼっちでいるのは嫌ですからね。でも、仕事があるんですか?」
「おいおい、君嶋と違って、この謝花は、八面六臂の活躍だぞ。事務仕事はほとんど外部委託と言っても、それを選別して割り振るのは彼女だし、仕上がりのチェックもしている。お前さんの使った経費を落とすのもそうだし、文書の作成から管理、電話やメールの対応、備品の発注と管理、来客があれば接待もある」
「はー、大変ですねぇ。暇な自分があんな報酬を貰って申し訳ありません」
「あら、部長はそんなに貰っているんですか?」
君嶋の座る応接セットのテーブルに、ボーンチャイナのコーヒーカップを置きながら、桃花が尋ねた。
「まあ、君嶋には官公庁との対応までやって貰っているからな。あのGNペイントの件は助かったよ」
君嶋との年収の比較が始まると困るので、俺は話題を変えることにした。
「ああ、あの時は寿命が縮みました。結局、公安の尾行が付いたのは一ヶ月だけでしたけどね。ホテル暮らしが続いて、うちの奴には随分愚痴を聞かされました」
「GNの経営陣は交代して、結局元経産省の官僚だった人間が送り込まれたからな。あの副大臣何と言ったっけ?」
「松田です、松田一平。あの人も経産官僚のバックアップで、次の入閣は確実視されてるそうです」
「大臣か? しかし経産官僚グループじゃあ、弱いんじゃないか?」
「経産省は今度のことで、外務と財務にも貸しを作りましたからね。対米交渉でも手駒を握っていると思われてますし」
「警察庁を陰で動かしたのが松田で、例の拉致事件の後始末で、うちに恩を売っていると見られてるのか。内閣官房も甘いな」
「そんなこと言ってて大丈夫ですか? 国家権力は怖いですよ。現にGNに捜査が入って、前の経営幹部は退陣です。そう言えば、松田さんのライバルだった牧山副大臣も、秘書が検挙されたせいで、詰め腹を切ることになりましたし、あちこちに恨みを買ってるでしょう」
確かに国家権力は怖い。軍隊や警察という暴力装置も持っている。そして民衆という怪物に支えられたこの機械は、俺がどん亀の計画に従って作りだしている富の甘い匂いに気付いていた。いつかそれを我が物にしようと動き出すに違いない。
この富の甘美な匂いは隠そうと思っても隠し通せるものでは無いから、そんな先行きを否定するのは馬鹿のすることである。官僚機構や政治家の周辺にも虫を放ち、それなりの配慮はしている。だが国外から軍事力を伴った干渉があった場合、この国がどこまで抵抗できるかは、予断を許さないものがあった。
その点を考え、どん亀と俺は、単なる身辺警護用のガード・ボットだけでなく、「軍」を準備することにした。後の世にこれを評する人間がいれば、愚行と言われるかもしれないことも承知の上だ。
俺の身をただ守るだけなら「軍」なんてものは必要ない。極端な話、どん亀にたのんで地球外に生活の場所を作ってしまえば、地球上のどの国家にも手出しができないだろう。
万が一誰かが宇宙まで追ってこようとしたとしても、どん亀の力を借りればそんな物、片っ端から撃ち落とすことができる。まあ追ってくるなんて、コスト的なことを考えれば現実には無理なことだ。
ただそれは、彼らに捕まって虜囚の身になるのと、何処が違うのだろう。結果として地球から追放されるのは、地上で拘束された生活を送ることになるのと、悲惨さではどちらが上なのか。
そんなことにはなるはずがない?
うん、そうかも知れないね。でも自分の身を「かもしれない」にゆだねる気はない。
それに俺とどん亀の間には、何と言うか、ある種の「契約」がある。明文化されているわけではないが、どん亀が実現しようとしている方向に世界を持っていく計画を、俺が支援するという取り決めだ。今はそれが、俺の生きる目的でもある。
「何故」とは尋ねないでくれ。「どん亀と出会ったから」としか、俺には言えない。善悪とかとも関係ない。俺はすでに鈴佳を犠牲にした。
俺が「その時」までにやったこと、これからやるであろうこと、そのどちらも否定するつもりはない。それは犠牲となった鈴佳を、否定することになるからだ。俺は反省はしても、後悔する訳にはいかないのだ。
当然のことだが、「軍」を準備するのは、秘密裏に行う。必要になるまで存在も秘匿したままだ。可能な限り、隠し通す。存在自体悟られれば、「敵対」すると考えられかねない。
だが、準備はする。
鈴佳はかなり順調に「回復」しつつあった。もうオシメはほぼ必要ない。
一ヶ月で回復療養専用の病院に移り、歩行訓練まで進むのに二ヶ月、今はこのビルの五階にある居住スペースにいて、リハビリを続けている。
肉体的には健康そのものなのだ。歩行訓練が必要になったのは、最初の一ヶ月身体を使わなかったためである。そして赤ん坊と同じで、どうやって歩くかから学ぶ必要があった。
鈴佳には生後三ヶ月程度の生活体験しか無いから、危険な動作をしないように常に監視が必要である。本物の赤ん坊と違い、大人と同じサイズと重さの身体を持つ鈴佳は、転ぶだけでも大怪我をする可能性があった。
そのため七時間勤務の四交替、四人の看護師を雇用している。金があって良かった。
まあ、看護というより保育というのに近い。介護とも違うのは、老人などと異なり「自我」というものがまだ欠片も無いことだ。
最初鈴佳を担当した精神科の医師は、「ここまで深い記憶喪失というのは、論文ででも見つかりませんでした」と、俺に告げた。
あと少しして、衣食住の生活能力が一歳児レベルまで向上したら、東京から元の家に連れて行く。この無垢な存在に、「鈴佳という人格」を刷り込んでもらうためだ。
どん亀はできると言っているし、二十歳を過ぎた身体で、幼児期からゆっくり成長過程を体験させるのも、逆に残酷なことだ。
「あと三ヶ月したら、また長期休暇を取るつもりだ。鈴佳を、俺と住んでいた家に連れて行ってやりたい」
俺がそう言うと、桃花と君嶋が顔を見合わせた。
「記憶はまだ、まるで戻らないんですね?」と、君嶋。
「ああ、医者は退行と記憶喪失の両方が同時に起こっている希な例だと言ってる。ただ、器質的な損傷は見当たらないそうだ。向こうの家からリモートの指示で会社が上手く動かせるようになれば、あっちに住んで、もう少しあいつに時間を使ってやれる」
「そうですね、鈴佳さんも、昔暮らしていたお家の方が良いでしょうしね」
桃花の言葉はどこまで本心か、今でも分からない。でもこいつ、有能なんだよな。これから雇用する予定の部下を使って、もっと会社を廻してくれ。その分報酬は増やすつもりだからさ。
「というわけで、大学の学生課への求人条件を考えてくれ」
「大卒者の採用時期は過ぎています。でも……一年後は……無いですね。じゃあ中途採用の方が良いんじゃあありませんか?」
「そこはこれからの相談だ。ただうちは“同業種の経験者”は採用しない。多分うちには適応できないからな。それぐらいだったら、来年の新卒者を在学のまま研修生として受け容れる方が良いと思う」
「それって、奨学金を出すようなものじゃあありませんか!」
桃花は、昔の自分のことを考え、あまりの好条件に驚いている。いや、羨ましいのか? 桃花だってこれから大学に通ってもいいんだぞ。忙し過ぎて無理か。
「まあ、そうだ。青田買いの一種だ。例の就活ルールは廃止されたし、個人契約を活用して上手くやってくれ、君嶋」
「えっ、自分がリクルートするんですか?」
「ああ、君嶋なら面白い人間を知っているんじゃあないか? 謝花も良い人材がいたら声を掛けてくれ。学歴や前歴は問わない。ただし、人物調査はさせて貰うがな」
戸惑った顔の二人にやる気を出させるために付け加える。
「もし良い人材を採用することができたら、そいつの年俸の一割を紹介料として出す」
桃花の目がぎらりと光った。どうやらやる気が出たようだ。
最初のプランと異なり、99話で完結とはなりませんでした。ここからは実質第二部となります。できれば完結まで、もう少しお付き合い下さい。
2020.08.25. 野乃