◆96◆
俺の視野の片隅でゴロンと横に一回転、転がった者がいた。優奈だった。
そっちを見た鈴佳の目が、驚きで見開かれている。
「ら、らめー!」
凄い力で俺を突き飛ばしたのは鈴佳だ。
「死ね!」と叫びながらこちらに向けた拳銃が、優奈の手にはあった。
タン、タン、タン、タン、チッ。四連射、弾丸がばら撒かれる。五回目は弾切れだ。
俺も胸の左脇に弾丸を喰らった。ショックと直後の激痛!
次の瞬間、優奈の身体は甲虫ボットの一斉射を受けてズタズタになった。銃声に顔を上げた奴らも、慌ててまた伏せる。だが、そんなものは無視だ。俺は躓きながら鈴佳に駆け寄った。砕けた肋骨が擦れ合う痛みは、アプリの力で遮断する。
「鈴佳!」
鈴佳のTシャツが、みるみる血に染まっていく。半分意識がないのに、か細い声で何か言っている。
「だめだからね、だめだから……英次さんは死んじゃだめなの……あたし一緒に幸せになるんだから……ね」
出血量から見て、致命傷だ。血の勢いは……大静脈か……、間に合わん。いや。
“どん亀、俺と鈴佳を転送しろ! 治療が必要だ。それからこいつらは、殲滅しろ。跡形も残すな!”
“了解デス”
後になってから反省すべき点は多かった。そして俺は社会人になる前のある時点に「反省はしても後悔はしない」と心に決めていたが、それでも後悔しないではいられない結果となった。
まず、どん亀の暴走を怖れた俺が、誰かを攻撃する前に必ず俺の許可を得るよう箍を嵌めた。そのせいで俺が負傷して“一時的に指揮不能”と判定されるまで、どん亀は優奈を止めることができなかった。
次に俺が優奈を甘く見すぎていた点。こいつは俺に対する恨みをこじらせて、文字通り命を掛けて俺を殺しにかかって来た。
おまけに後で分かったが、国外でかなり時間を掛け拳銃による射撃練習をした、マニアックな奴だった。それを知らなかった俺は、優奈に対する脅威度判定を事前の指定で無しとしていたんだ。
結果として優奈は、夫光一の仇討ち(正確に言うと相手が違うが)をしようとしたように見える。だが本当のところ、こいつの性格から出た行動だと思う。俺はそんなことも読めていなかった。
さらに甘さと短慮さから、短艇とボット群による強襲を選ばず、お馬鹿で安っぽいヒーローさながら、わざわざ自分で乗り込んで行った。自分の身を危険に晒すことは、自分の大事な人間まで生命の危機に晒すことだと理解していなかった。
そもそも鈴佳が誘拐されたのだって、まさか日中衆人環視の中で、そこまでやらないだろうという日本的なおめでたい先入観により、現実を見失っていたせいだ。
世界はそんなに優しくないのだ。どん亀に提案された時点で、ウー・シェーレンのヨットを沈めてしまえば、この事件自体起こらなかったろう。まさに、「やられる前にやれ」の鉄則から目を背けた報いなのである。
自分が怪物に成り果てているのに、小市民的な価値観で行動しようとした俺の身動きで、潰されてしまった犠牲者が鈴佳だ。
優奈も安西所長も、そしてウー・シェーレンとその一味、SASFの二人、そしてあの船の乗組員たち、彼ら全員も犠牲者と言えば犠牲者だが、それについては俺の心に咎めるものは無い。善悪がどうこうより、生存競争の結果だろうと思う。
俺がこんなことをダラダラ考えている理由は、鈴佳を失ったからだ。
いや、死んだわけではない。
どん亀の内部に転送された後、用意された生体修復槽に入れられた俺たちは、二十四時間も経たずに完全に元の状態まで回復した。
ただし、それは身体だけで、記憶は別である。憶えているだろうか、転送された人間の記憶が全消去されることを。
どん亀は俺については記憶の、完全かどうかは不明だが、バックアップを取っていた。
しかし、従たる乗組員と認定されていた鈴佳は、その対象とされていなかった。
指揮官である俺より重要度が劣ると見なされ、仮に鈴佳を含めた場合に、どこまで範囲を広げるかの基準がどん亀にとって不明だったからである。
それだって、俺が事前に指定しておけば、可能だったはずのことだ。
要は、俺が甘かった、それだけだ。
鈴佳は現在、オシメが必要な赤ん坊状態である。そしてあの、俺と幸せに暮らしたいと言って事切れた時点の鈴佳にも、あるいは俺に無理難題を押しつけようとして俺の家にやって来た鈴佳にも、戻ることはない。
いっそあのまま死なせてやれば良かったのではないかとも考えてみた。でも俺にはできなかったし、今もできない。
どん亀によると、残っている映像記録や録音された音声などを利用すれば、外観的には同一人物と思える状態まで育て上げることができるという。その場合、彼女自身も自分を鈴佳だと自己認識するだろう。
だが俺の出会った「あの鈴佳」はもういない。残ったのは鈴佳の形をした、生きてはいるが中身が空白な存在だけだ。
かと言って、このか弱い生き物の鼓動を、たとえ苦痛無くであっても、止めることなど俺にはできない。そんな選択ができるほど、俺は強くないのだ。強くなることなど、俺にできるだろうか?
どん亀はばら積み貨物船を、あの後沈めた。文字通り、海の藻屑である。短艇の牽引光線によって引き裂かれた船体に、海水がどっと押し寄せ、乗組員も積荷も一瞬の内に海底へと呑み込まれてしまう。
多分、軍艦であろうと、もっと巨大な船舶であろうと、結果は同じだ。どん亀が見せてくれた映像記録を見て、俺はそう感じる。今やるべき事は何か、そう思い悩んでいた俺は、取りあえずやれることをやるしかないと思った。
「この短艇くらいの戦闘能力を持った艦船、いやボットを、何隻作れる?」
「短艇ハ、ますたーヲ乗セ短距離ヲ移動スル為ノモノデ、戦闘艇デハアリマセン」
「俺と敵対する奴らと戦える力が欲しい。今後間違いなく、国家を相手にしなければならない時期がやって来るだろう。そうなれば武器を持った兵士だけでなく、船舶や航空機、それに地上を移動する戦闘車両を撃破する能力だって必要になる。戦闘艇でも何でも良い。戦力が必要だ」
えっ、強くなるって、そういうことじゃないだろうって?
そうかもしれないが、それはそれ、これはこれだ。
「ら、らめー」は野乃の遊びです。一度ヒロイン(?)に言わせてみたい台詞、ナンバー1でした。後で書き直すかも知れません。
意識が戻った(?)赤ん坊状態の鈴佳には、尿道カテーテルは適用できません。挿入したまま身動きすると危険だからです。尾籠な情報ですみませんが、念のため。
2020.08.06. 野乃