◆94◆
そのばら積み貨物船は、宮古島南方の公海上で停船していた。エンジンはアイドリング状態だが、推進スクリューは動かされていない。だから海流や風で次第に流されていく。
雲一つない満天の星だが、海面は闇に沈んでいた。衝突を回避するため国際条約によって点灯義務のある航行灯だけが、周囲に船の存在を示している。GPSがあるとは言え、この暗闇の中でヘリから船を見つけることは至難の業であった。
突然船の甲板で、何十ものライトが点灯される。ただし照明を当てられたのは甲板上の五つのハッチの内、一番前の一つだけであった。ハッチの面は水平なため、その光を最も視認しやすいのは上空からである。
巨大な白いハッチの面に描かれた黄色のヘリポート・マークを目標に、ヘリは下降しつつあった。
「こいつは、ずいぶん不格好なヨットだな」
眼下に姿を表した貨物船を見た俺がそう言うと、ゴルフコースで俺を出迎えた男が自慢気に答える。
「我々の組織は、世界中に拠点を構えている。海の上でもな」
『余計なことを喋るな!』
イングラムを持った男が小声で怒鳴りつけた。
『どうせ、こいつは処分するんだろう』
『黙れ』
『まあまあ、そんなに怒るなよ』
俺がなだめるとイングラムの銃口がこちらを向く。
『お前、華語が分かるのか?』
その途端ヘリが旋回し、ライトの光で充たされた空間に突入した。眩しい光線が機内を照らし出し、隣から俺をにらみ付けるイングラムの男と、間抜けな表情で口を開いている後ろの若いのの陰影が、刻銘になった。
軽いタッチで、ヘリが着地する。一瞬止まった動きが再始動した。
作業服を着た船員数名が走り寄ってくる。いや拳銃を持っている奴が混じっている時点で、普通の船員じゃあないな。
俺って、そんなに警戒されている? あ、昨日、こいつらの仲間二人を行動不能にしたんだった。でも、殺した訳じゃないぞ。
『降りろ』パイロットが指示する。
「ふん、もう少し気骨のありそうな男だと思っていたが」
ヘリが着陸したハッチから甲板に降りると、俺を出迎えたのは電話に出た男だった。会った途端に貶してくるこの喋り方、間違いない。いやあ、俺の見掛けが良いとか強そうだとは言わないが、度量の狭い男は嫌われるぞ。
黒いマオ・スーツを着ている姿は、悪役っぽい。身長は百八十センチをやや切るぐらい、足元を見ると黒い布製のパンプスだ。ズングリした体躯だが、動きはキビキビしている。中年過ぎに見える。けどこいつ、ひょっとして功夫使いか? だってあれ、映画で見たカンフー・シューズだろ。
「老板がお待ちだ」
てっきり船橋に連れて行かれると思っていた俺は、そこを通り過ぎ、照明に照らし出された船尾楼までやって来た。そこには両手を前に縛られた鈴佳の他に、安西所長と橘優奈、SASFの人間だと考えられる白人が二人、それに白髪混じりの短髪で五十代と思われる細面の東洋人が待っていた。
特徴から見て、最後の男が多分ウー・シェーレンだろう。ダーク・スーツにホワイト・シャツ、灰無地のネクタイ姿だ。こんな海風に曝された、機械油臭い貨物船の船尾甲板に似合うコーデじゃあないのに、妙に相応しく見える。
「ふむ、この男が岡田英次かね?」
「そうです」
聞かれた安西が、神妙な態度で頷いた。
「私はウーだ。ウーラム・グループを束ねているが、別の顔もある。このリュウのような男たちを仲間とする裏の繋がりだ。岡田、素直に我々に従えばお前も辛い思いをしなくて済む。だが服従を拒むなら」
完璧な日本語でそこまで言って、ウーは鈴佳の方を振り返る。黒服の男たちが船尾楼に設置されたデリックを始動し、ブームから垂れたワイヤロープの先に付いたフックに、鈴佳の両手を縛ったロープを掛けた。
「お前は思い知ることになる」
ウーが薄い唇を一文字に引き結んで言う。だがどうも、笑いを堪えているようだった。
「はー、何をするつもりだ?」
聞きはしたが想像はつく。こいつ、本物の変態だ! 頭のネジがぶっ飛んでいるに違いない。
「お前はリュウの部下を手ひどく痛めつけたそうだな。リュウは面子を潰されたと怒っている。だが、私は寛容だ。リュウに一度は許してやるようにと説得した。何と言ってもお前は、これから私の部下になるのだからな」
リュウと呼ばれたマオ・スーツの男は胸の前で右拳を左掌に打ち付け、武闘家の拝礼をして見せた後、鼻息荒く俺をにらみ付けた。それを片手で制したウーは言葉を続ける。
「だがリュウは、お前は身の程を知らない奴だから、一度痛い目を見なければ心底従うとは思えないと私に忠告してくれた」
俺を威嚇するように、リュウが背中を丸め首を突き出してやや前屈みになる。ウーの口角から笑みが零れた。飼っている猛犬が歯を剥き出して唸るのを愛でる、悪趣味なキャラのようだ。紳士の皮をかぶった何とかか?
「私はまだ、お前を直接痛めつけるのは、気が進まない。だからお前の大事な女に、ちょっとだけ怖い思いをさせようと思う。このデリックで吊して、船の外にぶら下げてやろう。なに、万が一落ちたとしても、ここは南の海だ。直ぐに死にはしない」
ん? それって、俺に対する配慮なの? 俺の面子を守ってやる……的な?
「やれやれ、弱い女をいたぶって強がってみせるなんて、漢のすることじゃあないな」
俺が吐き捨てるように言うと、リュウと呼ばれた男が我慢できないという顔で前に出た。
「老板、こいつに口の利き方を教えてやる許可を下さい」
「おいおいオッサン、いい歳していきり立つのは、やめとけよ」
俺がリュウを挑発する。ウーは少し考え込んでから、ゴルフコースに迎えに来た男に尋ねる。
『マー、武器は持っていないな?』
『持っていたのはスマホだけです』
マーと呼ばれた男が、ポケットから俺のスマホを取り出して見せる。用心深くそれを確認して、ウーがリュウに頷いた。どうやら俺は暗器使いと思われているらしいな。あの時、特殊警棒を使ったし。
「ふむ、仕方がない。だがリュウ、殺すな。骨の二・三本が折れても、自業自得だがな」
それを聞いた鈴佳の顔が引き攣っている。こいつらに、よほど怖い思いをさせられたんだろう。そう考えると自分の胸が痛むことに、正直俺は驚いた。クズだと思っていたのに、まだ俺にも人間らしいところが残っていたらしい。
「聞いたな、岡田。思い知らせてやる」
上着を脱ぎ目の前にズカズカ出てきたリュウは、筋肉質な体躯である。ウエイトで三十キロは俺を上回っていそうだ。脳筋らしく、これから暴力を振るうことへの期待で、顔が紅潮している。
だが、そう思い通りにいくかな?