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宮古島には第十一管区海上保安本部に属する宮古島海上保安部が置かれていて、三百五十トン級の“とから型”一隻、百八十トン級の“しもじ型”九隻、計十隻の巡視船と“三十メートル型ウォーター・ジェット推進巡視艇”一隻が配備されている。
鈴佳を拉致したゴムボートに対する捜索依頼が、宮古島警察署から海上保安部に届いたのは、事件が起こってから十二時間以上過ぎてからだった。それから開始された捜索の成果は、当然のように全く上がっていない。
俺は鈴佳を掠った奴らの行き先がウーラムのヨットだと知っているが、その根拠を説明することができない。だから海保は、何を探したら良いかを知らない訳だ。
船底を硬質の複合素材とし、強力なエンジンを複数搭載したボートは、荒波を高速で踏破する能力を持っている。鈴佳の身柄を押さえることに成功した彼らは直ちに沖合に向かい、GPSを利用して宮古島から見えない海域でブルー・タンガロア号と落ち合った。
この時タンガロアの船舶自動識別装置は意図的に切られていたが、ずっとどん亀が操作するボットたちの監視下にあった。だから現在位置も分かっている。
実は事件が発生するまで、陽光下の海上で接近が難しかったこともあり、船内の盗聴は不十分のままだった。そのためタンガロアから出たボート二隻に乗り組む男たちの意図が、まさか白昼堂々と鈴佳を誘拐することであるとまでは把握していなかったのである。どん亀が初動で対応できなかったのはそのせいだ。
しかもビーチにいて鈴佳と顔見知りになった者たちの中に、誘拐犯の協力者がいたことが、次第に明らかになってきた。
事件の時、誘拐犯たちに鈴佳を特定させ、更にその場にいた監視人たちをミス・リードして事態の発覚を遅延させた。いや、その前にも、俺が桃花と出掛けたことを見届け、犯行にゴー・サインを出している。
警察がその男に疑いを持ったのは、事件の直後にチェックアウトしたことを知り、連絡を取ろうとして、宿泊者名簿に記入された住所氏名が実在しない虚偽の物であると判明してからだ。そしてその後の足跡を、未だに掴めないでいる。
しかしどん亀の方は、事件直後から投入できるボットを総動員して、リゾート全域の人間に完全走査を掛け始めていた。だからさり気なく後泊をキャンセルしてホテルを出たその男も、ボットたちによって追跡されることとなったのである。
レンタカーを運転しながらスマホを取り出した男が華語で話し出した時点では、男をモニターしていたのは一匹の昆虫型ボットだけだった。だが通話の盗聴により、男が誘拐犯の一味だと判明した途端、ボットのネットワークによる監視が始められる。
どん亀から報告を受けた俺は、男が組織の上の、使い捨てではない人物の所にたどり着くか、国外への逃亡を図ろうとするまで、気付かれずに監視を続けるように指示した。
問題は、俺が警察によって宿泊棟から出ないよう、禁足を掛けられていることである。「犯人から連絡があるかもしれない」という名目であるが、俺が疑惑の目で見られ半分軟禁状態に置かれているのは、あの二人の女から俺が「女を脅して容赦なく酷使するクズ男」と告発されたせいらしい。
都会から来た女どもには、「日の出前に起きなければならない農作業」とか「家中だけでなくその周囲まで掃除」とか「臭いのする堆肥を運ぶ力仕事」や「炎天下での体力を消耗する除草作業」とかをさせられるのは、ひどい虐待と感じられたみたいだ。
情報元を明かさないおばちゃん婦警が、ネチネチとそんな項目を羅列して、俺を責め立てた。俺にしたら蛙の面に何とかで、「農家の暮らしなんてそんなもんです。沖縄では違うんですか?」と、聞き返すだけである。
このおばちゃんは一応、被害者家族のケアのため派遣されているらしいが、全然それらしい仕事はしていない。
あと、捜査のため調べるという名目で、鈴佳の荷物を開けてひっくり返した。俺の目の前で女物の下着や装飾品まで一つずつ手に取り、「あら!」「まあ!」とか声を出しながら改めていく。
「犯人に繋がる手がかりがあるかもしれないから」と、次には俺の荷物まで開けようとしたため、「警察による被害者家族の人権侵害って聞いたら、マスコミはどう動きますかね?」と脅した。
おばちゃんは急にニコニコし出し、「犯人逮捕のためご協力下さい」と言い出したが、俺は認めなかった。おばちゃんの先入観による影響が、警察の捜査全体を変な方向に引っ張っている気がする。
海保による捜索も、形ばかりに続いているが、無論何の成果も上がらない。そして奇妙なことに、衆目の中での拉致事件だというのに、マスコミの動く気配が一向に無かった。これは俺が受けた説明では、警察が被害者保護の名目で目撃者や関係者に箝口令を敷いているため、ということになっている。
でも本当は、どん亀による情報操作が原因だ。考えてみればSNSなどが存在するこの時代、警察による箝口令などで情報を完全に堰き止めることなど、できるわけがない。だがどん亀が派遣する昆虫ボットが運ぶマイクロ・マシンが島中の情報機器に取り付き、互いに伝え合う情報に対してフィルタリングを行い始めていた。
マイクロ・マシンは当然、島外に出る人間やそのスマホなどにも侵襲していく。そして使用しているスマホの内部にある電子回路を、顕微鏡レベルの綿密さでチェックしようとするような、偏執狂的な人間はいないだろう。いたとしても彼又は彼女は、周囲の人間に精神科の受診を勧められるに違いない。
どん亀の報告を聞き、俺はこいつが本気になって人類支配に取り組んだ場合出現するだろう『素晴らしき新世界』のイメージが浮かび、頭がクラクラする思いだった。
当面、資源の問題があり、どん亀が影響を及ぼしているのは宮古島とその周辺、それとこの領域に足を踏み込んだ人間がその時持っていた、情報機器に限られている。
しかし、どん亀が製造するマイクロ・マシンは、この手の製品としては驚異的な、二桁以上の耐用年数を持っていると言うから、今後全世界に浸透拡散していくのは避けられない。
「岡田さんは農家なの、それとも会社員なの?」
すっかり俺の主席尋問官と化したおばちゃん婦警が、桃花の運んできたアフタヌーン・ティーのスコーンにジャムを塗りながら聞いた。
「えっ、企業家との兼業ですけど? それが何か?」
「こんなに」と、宿泊棟の中を手で示して「お金を稼いでいるんだから、彼女さんを働かせなくても良いでしょうに」
マスコミに訴えると脅してから、少し当たりが柔らかくなったと思ったら、これだ。
「友人と起業した会社が利益を上げだしたのは最近のことだし、農家と言ってもほとんど自家消費ですからね。たいした仕事量じゃあ、ありませんよ」
「だって、収入があるんだから、男の甲斐性というもんじゃないの?」
犯人側からの接触が一向に無いので、警察から派遣されている人員も、やることが無い。こういう事件が起こった場合のマニュアルがあって、それに従っているらしいが、おざなりな態度が濃厚であった。
関わる人間を極力少なくしたいリゾート側の意向で、当面は桃花が、俺の宿泊棟に対するサービスを引き続き担当している。事件の処理が終わり次第、彼女は馘首されるだろうと、おばちゃん婦警が俺に言った。桃花の上司から聴取したことらしい。
そんな内部情報を俺にリークして良いのかと思うが、多分俺に揺さぶりを掛けているつもりなんだろう。この事件に対して、島外からの動きが全く無いことにそろそろ不審を抱いてもおかしくないんだが、そんな気配も無かった。
桃花が去り際に『連絡を求められました』と囁き、黄色いポストイットを俺の手に押し込む。
「彼女、何て言ったの?」
「えっ? お疲れ様です、とかじゃないかな……よく聞いていなかったけど」
おばちゃんの質問に、俺は上の空でそう答えた。
“On vous a demandé de contacter.”それとも“On m'a demandé de vous contacter.”か?
どっちにしても「お疲れ様」には聞こえない。