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俺は今後の計画で、この日本という国家だけを特に優遇するつもりは最初から無かった。この国の政治や経済のあり方、そして教育のシステム等には、正直あまり良い印象を持っていないからね。ただ自分の母国語が日本語であり、物事の考え方がこの国の文化に基づいているという点では、今後直面するであろういろいろな問題を解決する上で、使い勝手が良いとは思っている。
現時点ではこの日本が、どん亀の地球征服計画の拠点だ。でも俺がこの国に生まれたという過去の事実だけで、いつまでもこの特別扱いを続けられるはずはない。何故なら人類を動かして今の方向に向かわせようと考えているのはどん亀であり、俺ではないからだ。
俺の望みと言えば、どん亀の稼ぎ出す富のおこぼれに与り、楽して生きていくことだけである。世界の帝王になろうとか、いやそれより表立たずに陰から支配していこうとか、そういう思惑は一切持っていない。
その俺の願いとは裏腹に、気弱な俺の人生はリスクに満ち満ちた毎日に変わり、富と権力が意図せぬ内に身近なものとなりつつあった。
俺の代理人である君嶋は、俺が伝えろと言ったことを全て話し終え、秘書官に見送られエレベーターに乗り込む。壁に背を預けて脱力する身体を支えた彼に、俺は話しかけた。
”おい、エレベーター内にもカメラがあるんだぞ。警備室でチェックしているかもしれない。シャンとしろ、シャンと!”
”やれやれ”と身体を起こした君嶋は、ハンカチを取り出して頬に当てる。汗を拭うよりも、口の動きを隠すつもりだろう。
”途中で松田が一時席を外しました。電話しに行ったようです。この後、俺に尾行が着くと思いますか?”
”多分、公安だな。お前の正体を確認するためだけじゃなく、護衛のためにもな”
”さっきの一幕だけでも十年は寿命が縮んだのに、まだ終わらないんですか! 自分としては、うちの奴を巻き込みたくないんですが……”
”今のところ、むこうにとって君嶋がキーマンだから仕方ない。そこを出たら新宿へ行け。TKYホテルに部屋を取ってあるから、ほとぼりが冷めるまでそこに泊まるんだ”
”えっ、家へ帰れないんですか? 着替え持ってきてませんよ”
”経費で買っていい。領収証を忘れずにな”
”おー、豪儀ですね。一千万円で買い物か……”
急に浮き浮きした声になったが、無視することにした。いくら着道楽でも、一千万は使い切れないだろう。
そろそろ鈴佳が帰ってくるはずなので、タブレットを仕舞い、スマホに切り替える。相手は松田をモニターし続けているはずのどん亀だ。
「どうなっている?」
「大市ト松田ハ、今晩会食スルヨウデス。引キ続キ、もにたーシマス」
「大田区の工場は整理し終わったんだよな」
「囮トシテ、駐車場ニ、四十ふぃーと・こんてなガ、とれーらー・しゃーしニ載セテ置イテアルダケデス。こんてなニハ、不活性状態ノかーぼん素材ガ入ッテイマス。市場価格ハ、三百万程度デスネ」
「俺だったら、コンテナにGPS追跡装置を付けるな。設備を撤去した業者から工場が移転するという情報が流れるように、お前がしたんだろう。だったら移転先を見つける方が先だ。いくら今工場に誰もいないからと言って、コンテナごと盗むなんて大胆なことはしないはずだ」
「松田ノ電話ヲ盗ミ聞キシタ、牧山副大臣ノ個人秘書ガ、中華貿易公司ニ、六角産業ノ所在地ガ、大田区ダトりーくシマシタ。予想通リデス」
「中華貿易公司?」
どん亀の盗聴により、その個人秘書があの国に絡め取られ、情報を漏らしていることは分かっていた。だが、その会社の名前は初耳だ。
「上海ニ本社ノアル、普通ノ貿易会社デス。外事課ノでーた・べーすニヨルト、日本支社ノ従業員ノ内、二人ダケガ中共ノ工作員デシタ。実働部隊ハ別組織ヘノ外注デスガ、コノ連中ノ海外デノ遣リ口ハ、誘拐、脅迫、暴行、殺人、強奪ト、カナリ強引ナモノバカリデス。短絡的デ粗暴ナ人間ガ多イ組織ノヨウデス」
「もう警察庁のPCをクラックしたのか。指紋とか網膜の認証だってあるはずだろうに」
「ソレハ、はーどうぇあヲ使用時ノちぇっくデス。昆虫ぼっとガ、内部ねっとノ回線ニ物理的侵襲ヲ行イ、ばいぱすヲ形成シタ後ハ、ぱすわーどトIDノちぇっくダケデ、くりあデキマス」
所詮人間の作ったシステムでは、どん亀のパワーに抵抗できる訳ないか。
「あれ、電話中?」
鈴佳が帰ってきた。スパ三昧のせいか、この頃随分といい女風になってきた。まあ元々二十歳そこそこだし、これからの成長に期待することにしよう。
「亀甲さんだよ。留守番をたのんどいたろう」
「えーっ、あそこに泥棒なんて入る?」
「そりゃあ、最近の収入を考えれば、用心しないとな」
「ねえねえ、どの位のお金が入るの?」
「うん、数十億は確定かな」
「ええーっ、さすがアメリカの一流企業を相手にするだけあるよねぇ」
こいつ驚いた顔をして見せているが、単位が「円」じゃなくて「ドル」だってことには、まだ気付いていないな。円にすりゃ、だいたい百倍だぞ。
「間違えんなよ、あくまで六角産業という会社の収入だからな。」
「分かってるって。でもでも、英次さんがオーナーなんでしょ」
「いや俺の持ち分は四割だ。社員は代表取締役の亀甲さんと俺の二人だけだよ」
「二人って……? だって何か作っているんでしょう?」と、鈴佳が不審そうな顔をする。
「有限会社の社員というのは有限責任の出資者という意味で、従業員とは違うよ。普通の会社の株主みたいなもんさ」
「なーんだ。工場に二人だけしかいないのかと思った」
実際に製造現場で働いているのは、どん亀の操るボットたちだけだけどな。現在はバーチャルオフィス・サービスと契約社員によるテレワークを利用している連絡窓口と事務処理の部分は、製造部門と完全に分離したオフィスを準備中だ。
あと君嶋は、渉外部部長と言っても単なる従業員である。
「俺は監査役で、役員は俺と亀甲さんだけだよ」
「つまり英次さんは偉いのね」と、嬉しそうに言う鈴佳。
「名前だけだよ、名前だけ」
「じゃあ、ボーナスとかは?」
「まあ、今回の契約ではいろいろ働いたから、少しはな」
「ねぇ、いくら貰えそう?」
「それは、亀甲さんと相談だ」
「沢山貰えるといいね」
こいつにはどん亀が俺に、何でも好きなだけ贅沢をしろと言ったことは、絶対秘密にしておこう。事態を理解していないから、余計に厄介なことを言い出しかねない。