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連立与党である公栄党の副幹事長の紹介ではあったが、君嶋の背後関係などについてまで十分な説明を受けている訳ではない。それなのに事前の根回しも無しに松田が電話した相手は警察庁警備局局長、つまりいわゆる『公安警察』のトップだった。
”大市警備局長ハ内閣官房参事官及ビ内閣総理大臣秘書官トシテ、松田ガ内閣府大臣政務官ヤ内閣府副大臣デアッタ時期ト一部重複シテ、内閣府ニ在籍シテイマス。二人ノ間ニハ個人的交流ガアリ、会食ヲ繰リ返シテイルコトガ知ラレテイマス”
どん亀がそう説明してくれたが、俺には現時点で松田がそこまで踏み込んだ行動を取る理由が理解できない。だから君嶋には、用心するよう伝えることにした。それとも、今直ぐ逃げ出せと言うべきなのだろうか?
”おかしい、展開が早すぎる。言質を取られるなよ君嶋。いざとなったら交渉を打ち切って逃げ出すんだ”
”そいつは無理だ、岡田さん。エレベーターに乗るためには、あの秘書官の前を通らなきゃならない。一階にはセキュリティ・ゲートもあるんだぞ。あんたがボスなんだ。何とかしてくれ!”
しばらくすると四十過ぎぐらいで、髪がバーコード状になっている男がノックして入ってきた。これがさっき呼ばれた技官とかなのだろう。やけに疲れた顔をして、猫背になっている。中央官庁に勤務する総合職にしては、ほんの僅かだが服装がくたびれているように見えた。
「副大臣、お呼びですか?」
「おう、蒲池君だったな。こいつに目を通して、意見を聞かせてくれ」
そいつは松田から手渡された資料を、立ったまま読み始めた。ページをめくるに従って、表情が難しいものになり、ブツブツ呟きだした。
「こいつは……何とも……いやまさか……でも……」
「どう思うね?」
松田の声にハッと顔を上げた蒲池は、君嶋の方をジロッと睨む。それから喉に絡んだような声で尋ねた。
「この資料はこの人が?」
「そうだ。君嶋君と言ってな、大田区にある町工場の人間だそうだ。その資料は彼が持ち込んだ物だ。君はそいつを、どう評価するね?」
蒲池と呼ばれた技官は、一度上唇をペロリと舐めてから口を切った。
「数ヶ月前だったら、こんな物は信じられない。ガセネタでしょうとお答えした所なのですが……」
「今は違うのか?」
「このところお祭り騒ぎになっているトライデントの炭素系高機能素材のことは、お聞き及びのことと思います。あれのせいで私たちは現在、寝る間も無い状態で……何しろ、今のところ一社独占で、競争相手になる可能性のあるとこは世界中どこを探しても見つからないでしょう。そうなると……」
「ああ、この前のブリーフィングで聞いた。これからはまた、米国に素材産業の首根っこを押さえられ、引きずり回される羽目になりかねん。いや、確実にそうなるだろうと言う話だったな」
「そうです。ただ、この資料の内容が本物だったら、可能性としては、あれに対抗できるかもしれません。無論直ぐにとはいかないかも知れませんが、取りあえず当て馬としてぶつけることができます。そうなれば、同じ交渉するにしても、他より有利な条件を引き出す鍵になるでしょう」
ひょっとしてこの技官、これが本物でなくても利用できると思ってないか? 「うーん」と、松田が腕を組んで考え込んだ。それから顔を上げて言う。
「君嶋君はこれに、中共が食指を動かしていると言うんだ」
「何ですって! 本当ですか?」
蒲池は目を剥いた。松田は頷いて説明を続ける。
「シンガポールのウーラム・グループが陰で策動している。日本で奴らの手先になっているのは、どこだか分かるな」
「GNペイントですか。あの売国奴たちめ! 金のためなら自分の国がどうなってもいいと思っている奴らです」
相当根に持っているらしく息巻いている蒲池の声を聞きながら、話が予想外の方向に進んでいくので俺は呆気にとられていた。君嶋は訳が分からず、声も出ないようだ。こんな展開になる原因と言えば、たった一つしか考えられない。
”どん亀! どうしてこうなったか説明しろ”
”経産省ニぼっとヲ侵入サセタノハ、情報収集ノタメダケデハアリマセン。複数ノ人間ヲ対象ニ、さぶりみなる・めっせーじヲ反復シテ投射シマシタ。意識下ニ、君嶋ノ話ヲ受ケ容レ易クナルヨウナ記憶ヲ埋メ込ンデアリマス”
”つまり洗脳済みってことか。俺も君嶋も必要無かったのか?”
”イイエ、さぶりみなる刺激ダケデハ、対象ノ動機ヅケハ完結セズ、行動化ニイタリマセン。君嶋ニヨル方向付ケガ、行動ヲ始動シ、ソノ完了後ニ納得ヲモタラシマス”
”納得? 何で納得なんかが必要なんだ?”
”君嶋ガ現レ、彼ラヲ説得シタトイウ『原因』ガ無イママ、彼ラガコチラノぷらんニ沿ッタ『行動』ヲトッタトスレバ、彼ラハ彼ラノ自己意識ニ違和感ヲ感ジ、ヤガテハぷらんノ破綻ヲモタラスコトニナリマス。コノ点ヲ考慮シ、ますたーノ指示ニヨル君嶋ノ交渉ヲ計画ノ一部トシテ組ミ込ミマシタ”
これを聞いて俺は、恐怖と諦めがない交ぜになった、ある種ほの暗い気分に囚われた。俺がどう足掻いても、全てどん亀の手の内でしかないということなのか……お前はお釈迦様で、俺は孫悟空か?
”まだ製品のサンプルさえ見ていないのに、この技官が君嶋の話を鵜呑みにしているのは、お前の洗脳のせいなのか?”
”ココシバラクノ間、コノ蒲池トイウ技官ハ、とらいでんと社ニヨル高機能素材供給ノ独占ニ対処スル方策ヲ求メテ、四苦八苦シテイマシタ。松田モ、ソノ報告ハ受ケテイマス。君嶋ノ提示シタ新素材ハ、今後ソノ解決策トナルハズデス。彼トシテハ、藁ニモスガル思イデイルニ違イアリマセン”
つまり求めていた対抗策が現実であって欲しいという願望が、この技官や松田副大臣の目を眩ませているわけか。
どのみち今後しばらくすれば、トライデントへの寡占を批判する声を抑えるため、他の企業からの供給を開始しなければならない。それが日本の町工場からであっても、一向に構わない。むしろ合衆国による一国独占の形を取らせないためにも、必要なことだと言えた。
3日間の連続投稿は本日で終了。次回は7月26日から、また隔日ペースで投稿します。