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橘優奈を発見したという報告が、どん亀からもたらされた。宮古島の中心部、平良にあるホテルに泊まっている。宮古空港にも平良港埠頭にも近い便利な場所だ。
俺がなぜ港に近いことを気にしているかと言うと、安西所長が那覇に寄港した船に乗ったという報せが、山城智音から入ったからだ。突然姿を現した二〇〇フィート級のスーパー・ヨットだというから、多分SASFの関係者だろう。
しかし、ラグジュアリー・ヨットとも呼ばれるこれらの船舶を所有・維持するには、膨大な資産が必要だ。まあ十億ドル単位の資産家でないと、享受できないライフスタイルである。プライベート・ジェットの所有の方が、まだお手軽だ。
それに十二月から二月の沖縄近海は西高東低の気圧配置で、北または北東の強い季節風が吹く。シベリア高気圧が東シナ海付近まで張り出し、沖縄付近の気圧の落差が大きくなるのだ。海上の天気も荒れ模様となり、プライベート・ヨットでやって来るには、あまり良い時期とは言えない。
俺はトライデントにヨットの持ち主について問い合わせたが、回答はなかなか返って来なかった。安西がそんな手段で沖縄本島を出るなんて、予想していなかったろうから無理はない。
ただ十中八九、目的地は宮古島だ。どん亀に連絡し、付近の海上を捜索させることにする。
「短艇ヲ派遣シ調査シマス。燕ぼっとタチニ、宮古島南方海域ヲすいーぷサセマス」
「優奈からも目を離すなよ」
「了解デス」
最近、どん亀は海軍調のやり取りにこだわっている。何かイケナイ物でも食べたのだろうか? まあ、どん亀が実際に物を食べるとは思えないから、これは比喩だ。最近は俺が調査対象として薦めた、ネットで買える電子書籍にはまっているようなので、海洋小説でも取り込んだのだと思う。
これまでどん亀は、虚構を含んだ小説のような文書や架空の存在を映像化した映画などを、信用度の低い情報として扱っていた。だがそれでは、宗教や政治のような人類の動向を大きく左右する要因を、解析することができないと俺は指摘した。
そして今後の『人類支配』のための計画立案に当たっては、人間たちの好む虚構についても十分考慮に入れるよう提案し、サンプルとしていくつかの小説を推薦したのだ。
その後凄い勢いで、ネット上にある文学作品などを吸い上げていることは知っていた。その対象の選択に、いささか偏りがあるとしたら、俺が自分の好みで選んだ最初のサンプルのせいかもしれない。
どん亀からは、ホテルの部屋でメールチェックをする橘優奈の画像が送られてきた。いやどん亀、優奈の下着姿なんてサービス・ショットは不要だから!
ベランダへの出口や窓が閉め切られているので、昆虫ボッドは部屋に侵入できず、メール内容を盗み見することはできなかったそうだ。埋め合わせのつもりなのか?
夕方近くになってどん亀から、疑わしい船を見つけたと報せがあった。外観についての第一報が届く。
船体に『ブルー・タンガロア』と船名が記された、全長約六〇メートル、全幅一一メートル、千トン以上もある大型のモーター・ヨットである。塗装は白、主船体の上に三段のデッキを載せ、操舵室のある一番上の後部にはヘリパッドが設置されていた。そこには露天で小型ヘリが繫止されている。
燕ボットからの情報はそれだけだった。現在、短艇がステルス状態で現場へ向かっている。到着したら、上空から昆虫ボットを投下し、船内を調べさせる予定だ。
俺は船名を山城智音に知らせ、追加情報を求める。しばらく待つと、トライデントの調査部を動かした智音から『ブルー・タンガロア』の所有者についての報告が来た。
全長約六〇メートルのこの船はイギリス領ケイマン諸島に船籍のあるプライベート・シップで、所有名義人はウー・リンミン。シンガポールに本拠のあるウーラム・グループの代表者である。
「ウーラムは潮州系華人の資本を原資として成立した財閥です。業種としては化学塗料の製造販売が主で、東南アジアと中国では六割のシェアを占めています。我が国の、GNペイントの株四十二パーセントを保有、傘下に収めたのが二年前です。現在のGNPホールディングは、社長こそ日本人の田哲治が務めていますが、会長はウー・リンミンの息子であるウー・シーレンで、完全にウーラムの支配下にあります」
「田って、あの経産省と喧嘩してNICをやめた?」
「あれは最初の方針を覆して官民ファンドを官僚の支配下に置こうとした、官の側の落ち度でしょう。高度成長期に成功した行政指導や補助金、税制での優遇なんて手法はもう通用しません。合衆国や中国のように、資本調達を官民ファンドで行う手法を取るなら、リスクやコスト、そして成功した場合の十分な報酬は当然許容されるべきです」
智音は何か官僚に恨みでもあるのか、辛辣な口調でそう言った。
「いや、それは分かるが、何で田が?」
「彼は合衆国にいた時代から、ウー・リンミンと親交があったそうです。まあウーにしてみれば、株式の四割以上を易々と彼の手に渡してしまうような、お人好しな前の経営陣など、我慢ができなかったんでしょう。役員全部を入れ替えたのです。今は田が日本人役員の筆頭です」
田は東大法学部を卒業し、四菱銀行に勤めた後、その傘下にあった米国のユニオン・バンクに出向、リーマン・ショック後のモルガン・スタージェスの役員などを歴任し、日本に戻って名称にユナイテッド・ファイナンスが付いた四菱の副社長になる。
その後、金融庁参与を経て、産業再生法に基づき設立された官民出資投資ファンドNICのCEOになった。だが三ヶ月もしないうちに官の側の経産省が最初の方針を掌返し、取り交わした文書も無視してファンド運営を牛耳ろうとする。
役員報酬が高額すぎると一部マスコミが騒いだことが切っ掛けだと言うが、あれは官邸から意図的にリークされたのだと思う。しかも成果報酬なのだから、「億単位」などということになるのは、単年度で数兆円の利益が上がるといったような、極端な成功を収めた場合だけだった。
これに対して田は、役員全員の辞表を取りまとめ経産省に叩き付けたのである。優秀ではあるが、中途半端を嫌う苛烈な性格の男なのだろう。その後のNICの業績不振を見れば、官僚のやった大ポカだったことが分かる。
あの時の大騒ぎはマスコミでも取り上げられ、経済人としては一般庶民とかわらない俺でも憶えていた。田はこの国の業界人には、余り居ないタイプだ。同じ日本人でも、一から叩き上げてシンガポールでも有数の財を成した華僑の、好みそうな人物である。
「ひょっとして、SASFはウーラム・グループと手を組んだのか?」
「十分考えられます。カーボン・ナノ素材の革新技術は、今の産業構造を根幹から変えてしまう可能性を抱えています。その根源がアジアから生まれたということになれば、欧州連合を拠点とするSASFではカバーしきれないと考えたかもしれません」
「だが実際には、第一回目の試験出荷が終わったばかりだろう」
「この業界の動きを甘く見ないで下さい。すでに世界中をトライデントの新製品情報が飛び交っています。信じられないほど高価値の製品が、リーズナブルな単価で手に入る。先が見えるものは皆、優先購入権を得ようと必死です。だいたい我が社が、どこでどうやってあれを造っているのかが分からない。製造法を探ろうにも場所が判明しなければやりようがありません。そう言う意味では、こちらにも工場の所在地を知らせないドクター亀甲のやり方が最善であったと、認めないわけにはいきませんね」
智音の話してる場所には、他の誰かも居るらしい。秘密が漏れるのを避けようと、言葉を選んでいるようだ。もっとも工場の所在がバレたところでそれが金星では、情報を盗ませるのに誰かをやるわけにもいかないだろう。
ウィーク・ポイントがあるとすれば製品を積んだ四〇フィート貨物コンテナの引き渡し時だが、これは指定された駐車場に牽引台車に載せたコンテナだけ留置し、そこにトラクター・ヘッドが出向いて受け取る形にしてある。その度に受け取り場所を変えれば、そこからトレースすることもできない。
まるでご禁制の品物を海上で瀬取りするようなものだ。俺たちゃマフィアか! だがこうなると、不必要な用心だとも言えなかった。
「その出所の情報が、安西から得られるとなれば、ウーラムの幹部が出向いてくるのも不思議ではないか……来るのは誰だ?」
「ウー・リンミンは七十二歳と、もう高齢です。動くなら息子のシェーレンでしょう。彼は豪州とニュージーランドで塗装材料業のシェア五割を持つ、DLX社に対するM&Aを成功させた後、長期休暇に入ったとされています」
「外洋クルーザーでクリスマス休暇か。豪勢な話だ」
沿岸・近海用のそれと違い、スーパー・ヨットとかメガ・ヨットとか呼ばれる大型のプレジャー・ボートは、少なくとも一億ドル近くするはずだ。そして維持費が毎年、購入価格の十分の一かかると言う。桁違いだな。
前に智音は、安西所長が秀吉タイプだと言ったが、ウー・シェーレンはどんなタイプなのだろうか、そして田は?
「潮流や風の影響もあるだろうが、こちらへの到着は早くとも四時間後だろうと見ている」
「それはどこからの情報ですか?」
俺の言葉に智音が疑問を口にした。洋上にある船の現在位置だけでなく到着時間までを予想する手段は、限られている。
「今はサテライト-AISというものがあるからな」
「マリン・トラフィックですか。でも、あの船自体を、最初にどうやって見つけたのです?」