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朝食後、リビングに移動して話し合いを始めた。書斎にはまだ入れない。なにしろ間仕切り無しで俺のベッドがあるスペースに続いているからね。鈴佳みたいに無断で入ってくる奴もいるけど。
家の中で上履きに履き替えるのが、ランドグレンにはまだ違和感があるらしく、しきりに足元を気にしている。
『郷に入れば郷に従え("Do in Rome as the Romans.")だろう』
『いっそローマ人みたいに、裸足になったらどうですか?』
『いや、気にしないことにする。それより、うちの護衛たちはどうしてる?』
俺と智音に言われ、ランドグレンは意地を張るように話題を切り替えた。
『俺の土地を歩き回っているよ。犬たちには近づかないように言ってあるがね』
『ドーベルマンか。躾はできてるんだろう』
『ハンス、あいつらは番犬だから、敵と見做せば熊にでも向かっていく』
『むむむ、後でもう一度注意しておくよ』
お前の犬どもの躾はしてあるのか、ハンス? 護衛とは言うけど、うちの敷地周辺に研究関連の建造物が無いか、嗅ぎ廻っているだろう。まあ地下に隠した施設は、そう簡単には見つからないはずだ。
実はあの後も、どん亀は地下壕を拡張し続けている。正確に言うと、二百メートルほど離れた裏山の地下に建設した空間と家の地下壕を、地下通路で連結した。もう完全に、秘密基地の建設だな。
基礎構造は『どん亀工法』ですでに完成している。今後は、内装用の資材を、主に海外で調達すると言っていた。輸送と搬入はどん亀がやるから、トレースされる可能性は無いそうだ。でも海を越えてくるってことは要するに密輸だろう。購入資金とか、どう動かしてるんだ?
その後俺は、地下のセラーのことを考えた。今回のために君嶋にたのんで手配して貰い、急遽送らせたワインを納めたのが一昨日だ。まだまだスカスカのそこの中身を充実させるには、時間も手間も掛かるだろう。今後いろんな分野の人間を、ここで接待しなければならない可能性があるから、そういう投資も必要だ。そうだな、日本酒も仕入れよう。
そんなことを考えていたら、ランドグレンがメモパッドを取り出し、何気ない表情で俺に話しかけてきた。
『垂直配向性が高い多層CNT配列から繊維列を引き出す乾式紡績については知っているだろう』
それまでのちょっとした雑談から、科学技術分野に話題変更だ。
『ファンデルワールスの力で配列から引っ張り出される多層CNTが順に繋がっていくあれだろう』
乾式紡績法は、製造基板上に垂直配向性が高い多層CNT配列を成長させ、そこから水平方向に引き出す過程で、結合体に変換されることを利用し、CNTの糸を造り出す手法だ。すでに、この方法で数十メートルの長さの糸やそれで作ったシートが製造され出荷されている。
『ああいう現象は君たちの製造工程でも期待できるのか?』
いきなりランドグレンが踏み込んだ質問を繰り出してきた。まともにこれに答えれば、こちらの単層CNT製造の手順について、かなりの情報を与えてしまう。
『俺たちが化学気相堆積法を利用しているって、何故思うんだ?』
『違うのか? 現在の所、多層でも単層でもチューブの成長速度が最も大きく、量産化可能な手法だからそう考えたんだ。すると基板上にCNT配列を三次元的に成長させる訳ではないのか? 我々は多層CNTの場合のような紡績性を期待していたんだが……まあ、そもそも単層CNTの径から考えて、触媒の配列を多層CNTの場合のように、相対的に密にすること自体が無理か……』
ランドグレンが自問自答の循環にはまったままブツブツ呟いているのを見ると、こいつは生粋の技術屋に見える。しかし、この男はまた冷徹で有能な企業人の側面も持っているし、兵士として命のやり取りをした戦闘経験もあるようだ。おまけに神まで信じているとくるんだから、本当に複雑な人間だよ。
『ハンス、おいハンス』
『ん、何だ?』
『鈴佳がびっくりしているじゃないか!』
まあ、驚いていると言うより呆れている顔だな。鈴佳は紅茶のポットを載せたワゴンを押して廊下からリビングに入ってきて、湯気の上がるカップを配ろうとしていた。
ランドグレンがカップを受け取らないで、わけの分からないことを呟いていれば、こりゃどうしたもんかと思っても無理はない。
ちなみに家の茶器セットは日本製のボーンチャイナで、カップの口に細い金線で縁取りがあるだけのシンプルモデルだ。納戸にまだ何セットも入っているこいつは、誠次叔父が結婚式の引き物にする予定で注文して、結局使われなかった品である。
『天気も良いし、ちょっと外を散歩してきたらどうだ? なんなら付き合うぞ』
『ん、ああ、いや……クールダウンするのに、一人で歩いてこよう』
『そうか。じゃあ、山の方には行かんでくれ。どうも最近、熊が出るようなんでね』
『グリズリーか?』
『いや、そいつがいるのは北海道だけだ。この辺はチベット熊だ。それでも雄の成獣なら百二十キロ以上あるからな。近づかん方がいい』
『銃は無いのか?』
『この国では、銃なんて持ってないのが普通なんだ』
『じゃあ、どうやって身を守るんだ?』
『あんたの護衛たちは銃を持っているのか?』
ランドグレンが黙って俺の目を見た。聞かなきゃ良かった! こりゃあ持ってる。多分拳銃だ。それともショットガンか? どんな銃だとしても護身用に使うとなると、当然この国では違法だ。もう、知らないふり、知らないふり。
ランドグレンの護衛たちは、何だか嵩張るスーツを着た、映画に出てくるボディ・ガードとかシークレット・サービスっぽい、ガタイの大きい奴らである。多分あのスーツの下には、防弾着みたいな物を着込んでいるんだろう。
何だか段々、ランドグレンがマフィアの親分に見えてきた。こいつ、手下を引き連れて、熊狩りとか始めたりしないだろな? そう言えば空手の有段者だった。「素手でもいける」とか思ってたりして……。
全く、物騒な奴を家に泊めてしまった。




