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山城智音がどん亀に捕らえられ、俺たちの味方になるようすでに『改造』されていることを、トライデント側は知らない。
彼女がランドグレンの秘書兼日本語通訳という建前で同伴者に選ばれたのは、俺の家の中での彼の身辺警護のためだろう。ゴツくてムサい野郎が護衛と称して交渉の場に立ち会おうとしたら、俺たちの反感を買いかねないという判断もあるはずだ。
日本語で智音のしてくれた説明によると、コーネリンはトライデント内の権力抗争に巻き込まれることを怖れ、この交渉に参加することを辞退した模様だ。どっちにしろもう無関係であることなどできないんだけどね。
ペーパーフィルタで落とした珈琲のカップを手渡しながら、念のために聞く。
『ハンス、ジェニファーがあなたをグリーンCEOに売り渡す可能性は無いのか?』
『銀貨三十枚で何が買えると言うんだ? せいぜい知らない奴らを埋葬するための陶工の土地だろう』
すまん、意味不明だ。俺は山城智音をたよることにした。
「山城さん、通訳をたのむ」
「聖書を読んでないんですか? あー、ランドグレンさんの言ったことの意味は、裏切ったらコーネリンさんは破滅するってことです」
「ハンスは科学者だと思っていたよ。いつもこの調子なのか? この前は極めて理性的だったが」
「信仰と科学技術は必ずしも相反するものではありません。少なくとも合衆国ではね」
『何を話している?』
俺と智音の日本語のやり取りが理解できないランドグレンが、眠そうな顔をして尋ねた。この二人と護衛たちが二台の車で着いたのは夜半過ぎで、今は朝の五時である。護衛の男たちの使う大型キャンピングカーが小一時間前に到着し、受け容れ場所を指示したりしていたら、二人も起きて来たのだ。
こいつの物言いがおかしく聞こえるのは寝不足のせいか? いや、俺じゃないよ。俺なら、いつもこの時刻には起きてる。
鈴佳はもう畑に行って、朝食に出すトマトを収穫していた。ジーンズとトレーナーとゴム長靴でね。
『お天気と株価の動きは、神様にしか予測できないって話しさ』
『ウォールストリートには自称預言者が沢山いるぞ』
『そいつらは海の水を左右に押し退けたりするのか?』
「なんだ! ちゃんと(聖書を)読んでるじゃないですか」
「いや、映画を見ただけさ。DVDでね」
多分ランドグレンが智音を連れて来たのは、鈴佳や俺だけでなく、これから紹介されるはずの研究者たちが、意図せず日本語で漏らすであろう内輪の情報をキャッチさせるためもあるはずだ。
東京でランドグレンとコーネリンに投与したナノ・マシンは、俺たちに敵対的な行動を取らせず、こちらに対する猜疑心を低減させる効果がある。だが、周囲に違和感を抱かせたり、異常だと感じたりさせずに、俺に絶対服従する人間に変えるような効果は望めない。
ナノ・マシンで無理にそんなことをしようとしたら、元の人格とは似ても似つかないゾンビのようなものが出来上がってしまうだろう。
元の人格との整合性を保ったままの人格改造は、非常に高度な技術と時間を必要とするプロジェクトである。かなり前に着手した鈴佳のそれでさえ、未だに完了していない現在進行中の工程なのだ。
いや人格というものが、周囲の状況と自己の調整を図りながら己の存続を目指していく機能である以上、生きている限り終わることなく続くものとなる。
どん亀の『人格改造』が、マイクロ・マシンの外科手術による投入というような、高コストの資源投資を必要とする理由も、ここにあった。
だからコーネリンも、俺に対してある程度は(根拠の無い)信頼感を抱き、余程のことが無ければ敵対しようとはしないと思う。だが彼女を全て思うとおりにコントロールできるわけではない以上、予測不能の行動を取る可能性は常に考慮しておかなくてはならない。
コーネリンはまだ、どん亀がマイクロ・マシンでモニターしているはずだ。奴に丸投げしよう。
当面のタスクは、俺たちにとってのランドグレンの信頼性を高めるための、人格改造だ。表向きは、彼を通してのトライデントとの契約内容の調整だけどね。
『で、君の仲間の研究者は、何時やって来るんだね?』
『今晩引き合わせるつもりだ。まずは、朝飯にしよう』
『鈴佳は牛の乳でも搾りに行ってるのか?』
『いや、家で飼ってるのは犬だけだ。番犬だよ』
『そう言えばそうだったな』
智音がドーベルマンたちのせいで家の中を調べられなかったことを思い出したんだろう、納得顔になった。
『ん、ハンス、この前会った時、家の犬のことを話したか?』
『聞いたような気がしたが……、それとも夜中に犬の声を聞いたのか……』
『家の犬は、不審者が近づいた時以外は吠えないように躾けてあるんだが』
『我々は不審者じゃないと、どうして分かるんだ?』
『俺が出迎えたからな』
俺はパンケーキを焼くために、ボゥルに卵を割り入れ、牛乳・砂糖・塩を加えてかき混ぜた。これに蕎麦粉と少しの薄力粉及びベーキング・パウダーをふるいながら加え、ダマが無くなり粘りが出るまで混ぜ合わせる。ここは一人だと大変なので、智音に手伝って貰った。
一度油を引いて熱し、なじませたフライパンを濡れ布巾で冷ます。さっき作ったパンケーキのタネを流し入れ、弱火に蓋をして焼く。様子を見て、表面に泡の穴が出てきたらフライ返しで裏返す。また蓋をして二分程焼けば、蕎麦粉のパンケーキのできあがりだ。
温めた皿に取って、ランドグレンに渡す。テーブルの上には、メイプルシロップに木苺のジャムにママレードの瓶、それにバターケースが置いてある。
鈴佳が戻ってきて、キッチンで野菜を切った。それからダイニングテーブルに、大きく乱切りにしたトマトと胡瓜、それに千切ったレタスを大盛りにした木鉢を運ぶ。
『珈琲はポットから自分で注いでくれ。サラダは塩でも胡椒でもお好みにまかせるが、そこの冷やしたドレッシングで食べるのが一番美味いと思うぞ。それから、そっちの陶器の鉢の中は全部茹で卵だ。家では、殻は自分で剥くことになっている』
かなり大きめの銅製のワインクーラーに、ドレッシングのガラス瓶が突っ込まれていた。説明したんだから、間違えて飲んだりするなよ。黄瀬戸の大鉢には二十個の固茹で卵だ。残ったら刻んでマヨネーズで和え、エッグ・サンドウィッチを作る。
Evangelium Secundum Mattheum 27:3-8
Wikipediaによると、『マタイによる福音書27:7の「異邦人のための埋葬地」を買うために、加害者からの賠償金を使ったという記述は、「イエスの死によって、異邦人(ここではユダヤ人から見た異邦人のこと)を含む世界の全ての人々に対する救いが可能になる」ことの暗示ではないか』と示唆する聖書学者もいるようです。いかようにも解釈できる聖書って便利! とか思ってしまう。(誰にとって便利?)




