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今夜は少し話し合いを持った後、懇親を深めるためディナーの予定だった。勘定はこっち持ちで、一つ星のフレンチだ。
相手は最初『コーネリン』だけの予定だったが、当日になって彼女に同伴者が加わった。
もっともこれは予想の範囲内で、条件交渉の場合一人だけでやって来る可能性は無いと見ていた。言った言わないの問題が起こった時、複数でないと不利になりかねないからだ。
話し合いの結果をその場で文書にすることができるほど、まだお互いの立場がはっきりしていないしね。
トライデントは当然、むこうの日本支社での話し合いを望んだが、俺は拒否した。相手有利な戦場で戦うことを承諾するほど、俺たちが物知らずだと見做される訳にはいかない。
ただ同席するというのが、米国本社の副社長であるランドグレンになるとは思わなかった。どん亀の分析によると、先進国による宇宙軌道エレベーターの実証実験が始まり、その成果から特に合衆国での投資意欲が高まっていることが理由だと思われる。
トライデントはフランス革命時にヨーロッパから北米へと移住してきた一家が創立した企業である。南北戦争時に北軍のため黒色火薬を製造する工場を建設し、高品質な製品を提供することで連邦政府の信頼を受け、巨利を得た。
二十世紀に入ってからは化学産業分野に力を注ぎ、合成ゴム、合成樹脂・繊維、農薬・肥料、塗料などの分野に手を広げる。二度の世界大戦では、世界の軍事火薬工場として莫大な利益を得ている。
近年は医薬品事業、産業用バイオサイエンスなどで欧州の企業との合併吸収を通じて、更に多角的な経営を行っていた。連結総資産五兆二千億ドル、従業員七万人にも及ぶ大企業である。本社所在地は合衆国にあり、会長兼CEOの国籍も合衆国にあるとは言え、すでに多国籍企業というべきだろう。
ただ、社風と言うか、ビジネスの進め方は合衆国基準のようだけどね。まあこれは、現在のこの世界の『グローバル・スタンダード』というやつなんだろう。
現在トライデントのCEOを務めるダニエル・グリーンは、幾つもの大企業の経営者を務めてきた男で、企業合併や分割・再編の専門家だ。製造関係に軸足を置く人物では無い。現に彼は欧州の合併相手から二千七百万ドルの代価を受け取って五年前に一度CEOを退任している。それがどういう訳か三年前に返り咲き、再び今の地位に就いていた。
世界的な超大企業の経営というのは、本当に摩訶不思議と言うしかない。
これに対してランドグレンは製造部門への関わりが強い。ただし前に言ったようにトライデントは化学に関する多角的な製品を生産している。炭素素材だけに関心を持つ企業ではないのだ。副社長であるランドグレンがわざわざ日本まで足を運ぶからには、それだけの何かがあるはずである。
部屋に戻った後、俺は予約したレストランに電話を入れ、席の追加をたのんだ。予めその可能性は伝えてあるから問題無い。午後六時から一寸した話し合いをする。万が一そこで話が決裂すれば、食事をするのは俺と鈴佳だけだ。料理の代金はどちらも同じ四人分だが、飲み物の量は減るだろう。まあ、ビジネスの成功を祈ってくれ。
様子を見に来た君嶋と、少し打ち合わせをする。それからホテルのレストランでランチを済ませて部屋に戻ると、鈴佳はエステとメイクに出かけた。俺はどん亀の連絡を待つ。
おっと、スマホに呼び出しだ。
マイクロ・マシンからインターネット回線経由で、コーネリンの周辺を盗聴した結果が報告された。
「こーねりんトらんどぐれんハぱわー・らんちデ打チ合ワセデシタ。アノ雌狐、『田舎者ノ小僧ト小娘』ト、ますたータチヲ呼ンデイマシタ」
「あの女から見れば妥当な表現なんだろう。だが当然、そんな小僧の背後にいるグループの正体を掴んでいないことも、報告したんだろうな」
「らんどぐれんモ、『そんなポッと出の若者が提供する提案物にしては、洗練されすぎている』ト、疑問ヲ口ニシテイマシタ」
「コーネリンはそこをどう説明したんだ?」
「追加デ渡シタ論文ノ中ニ、宮村ノ名ガアルコトヲ指摘シテイマシタ。タダ、宮村ノ経歴カラ、ドコマデノ情報ヤ人的資源ヲ抱エテイルノカ、探ル必要ガアルコトハ認メマシタ」
「今頃、宮村に探りを入れようとしているだろうな」
「アノ男ハ何モ知リマセンカラ、何モ言エマセン」
「かと言って、論文に名前が載っているから、否定することもできない。それをトライデントがどう解釈して、どう出るかだ」
「可能デアレバ相手ノ飲ミ物ニ用意シタなの・ましんヲ入レテ下サイ」
「俺と鈴佳が飲んでも問題無いなら、ワインの瓶に入れる。その方が疑われにくいだろう」
「大丈夫デス。タダシ目立タナイヨウ、デキレバしゃんぱーにゅノヨウナ発泡酒ヤ白わいんデハナク、赤ニシテクダサイ。零度カラ四〇度マデノ範囲ノ温度帯デアルコトガ、今回ノ『なの・ましん』ノ、液体中デノ移動機能発揮ニハ望マシイノデ、熱イ飲ミ物ハ避ケテクダサイ」
これで相手が「飲まない」なんて言い出したら……まあ、その時はその時のことだ。
ただし、金星の衛星軌道に設置した工場が稼働して生産物が運ばれてくるまで、どん亀の中の小さな工作室で作られた量しかナノ・マシンやマイクロ・マシンの在庫はない。どん亀によると、これらのマシンは元々トン単位の投入によってネットワークを成す『雰囲気』を構成することにより、効果が期待できる仕様なのだそうだ。
そう言う意味では、こんなコソコソした運用は、どん亀にとって不本意なのかも知れない。だが一方俺にしてみれば、その効果は魔法のようにしか見えないほど便利だから、困ったものだ。実際まだ、ナノ・マシンやマイクロ・マシンを利用して何ができるかの全貌は、俺にとっては謎のままである。
ただ今後、こういう個別の対象に投与するシークレット・エージェント的な活用法が多く見込まれることは、どん亀も承知している。だから鈴佳や宮村に対する投与以降もずっと、新たなバージョンの製品を開発中なのだそうだ。
「契約の締結はまだ必要ない、と言うかむしろ避けるべきなんだよな。お互いの関係を固定してしまうより、継続して関心を持たせる方が望ましいわけだ」
「ソウデス。何トカシテ二人ヲ『家』ヘ招待シテクダサイ」
「家じゃあなくて、『家の地下』へだろう。だが治安の良い日本国内とは言え、ランドグレンが躊躇するかもしれない。大企業の重役は、常に誘拐やテロに対し警戒しているものだ」
「ソノ場合ハ、目撃サレル可能性ノ低イ場所ニ誘導シテクダサイ。高速道路デ移動中ニ車ゴト拉致スルコトモデキマス」
何が『招待』だ! ランドグレンとコーネリンが『善意の第三者』かどうかは別として、やろうとしている事は『悪の組織』そのものの所行じゃないか。