◆45◆
陽が落ちる前に雨は上がった。アスファルトの各所には、まだ薄らと水たまりが残っている。
俺は鈴佳を連れて、タクシーに乗り込んだ。今晩は歌舞伎町にあるビルの四階にある会席料理(『懐石』じゃないから酒は出しても『茶』は出ない)の店でしゃぶしゃぶだ。なんか、こっちへ来てから、食ってばかりいる気がする。気のせいだけど。一日普通に三回だから。
……あ、ボリュームが違うのか! 朝食はホテルのビュッフェで『食べ放題』だし、晩飯はルームサービスと一つ星のフレンチの違いはあっても両方フルコースだ。昼? 駅弁とファストフードだけど、容赦なく注文する鈴佳につられて俺も食ってる。地元にゃファストフードなんてあるわけ無いし、あっても車で二時間の距離だ。
それにしても、あの大量の食べ物、身長一五七センチしかない鈴佳の身体のどこに入るのかね? どん亀によると、体重だって五〇キロ未満をキープしているそうだ。若いせいか? うーん、俺はそろそろオジサンだしなあ……気を付けよう。
で、今日の店は相手のチョイスだ。支払いはこちらが持つから、密談のできる個室でと言ったら、一見和っぽい雰囲気のここになった。旅館の和室みたいだけど掘りごたつ式で、襖を閉めれば確かに密室と言える。
着いたら宮村はまだ来てなくて、店員に「一番高い松阪牛の、飲み放題コースでよろしかったですね」と、念押しされた。何でも予約を入れた宮村から、追加の肉皿やビールの銘柄まで指定されているそうだ。
宮村の奴、地位を失ったら接待されることも無くなったんだろう。こっちが下手に出たからって、様子を見ることぐらいしろよ。貧すれば鈍するってこと? ……元々の人間性かもしれない。
約束より丁度十五分遅れてきた宮村は、「いやあ、時間通りですな」って言いやがった。腹を減らした鈴佳は、その態度にムカついていたから、喋らせないように右手で抑える。
鈴佳の今晩の衣装は、ライトブラウンのウエストリボン・ブラウスと黒のストレッチパンツだ。
俺の方はインディゴ染めのカットデニム・スーツ。中はVネックの白いカットソーで、二四金のぶっとい喜平ネックレスをアクセにした。
鈴佳はあえてジュエリー無しだから、怪しい、若い(?)カップルだな。
「先生には、お忙しいところをご足労願いました」
「いやあ、貧乏暇無しだよ」
あんたが暇なのはどん亀に聞いて知ってるから! 安西がらみで、業界から声を掛けて貰えないんだろう。今まで若い連中を結構踏みつけにしてきたからなあ。自業自得さ。
「そっちのお嬢さんは?」
「秘書の風間です。これから先生に連絡させて頂く際に使うこともあると思いますので、連れて来ました。おい、ご挨拶しろ」
「風間鈴佳です。何かありましたら、お申し付け下さい」
と、名刺交換を済ませる。鈴佳は秘書と言うには若すぎる。俺だって二十代後半から、いいとこ三十代にしか見えない。ただそれにしては物怖じしない態度である。宮村は官民の企業人とは接点が多かったが、俺はその範疇の人種とはひと味違う。
「裏社会の人間か?」という疑問を抱いたようだ。そう誘導したんだけどね。
ビールで乾杯の後、先付けに箸をつけ椀物を待つ間に話を切り出す。
「お送りした資料は見て頂けましたか?」
「アレね、なかなか面白かった」
「どうご覧になりましたか?」
「アレが本当なら、現在日本の、いや世界のトップレベルをはるかに超える成果だね。最も、ペーパー上のデータだけでは信用されないだろうが」
「そうですか。世界のねえ」
「うん、日本のさる企業が研究中のものだって、アレよりは何桁も劣るからね」
『あんざい研』のことだ。あそこがどの程度のことをやっているか、業界ではそれなりに知れ渡っているんだろう。
「で、僕に何をして欲しいんだ?」
「そこです」
「そこと言うと?」
「先生がおっしゃったように、無名の研究者が出した紙の上のデータだけでは信用が望めません。そこで先生のお名前をお借りしたいのです」
「貸すと言ってもねぇ……」
鼈甲色の太縁眼鏡を外した宮村は、俺の顔をにらんで眉をしかめた。
「ご心配ありません。データやサンプルも揃っております。先生には論文の最終著者として名を連ねて頂ければと思います。論文の有意性は、持参した詳しい資料をご覧になれば納得なさるはずです。おい!」と、最後は鈴佳に。
渡されたプリントアウトに眼を通す宮村の、だいぶ後退した広い額に汗が浮かぶ。いや、しゃぶしゃぶ鍋の蒸気かな? 研究者としてのキャリアと言うか、さすがに要点を拾ってページをめくる手つきは確かだ。
「それとも第一著者として、筆頭にお名前を載せることもできますが、そうされますか?」
「それは僕が筆を入れるということか? 論文執筆者として……実験設備とか、事前にどこまで見せてくれるんだ?」
「週明けには論文とプロジェクトの概要書を相手に渡すことになりますので、現場にご案内するのは難しいと思います。今ご覧の内容からご判断下さい」
「相手?」
「経験豊かな先生ならご理解頂けるはずですが、今後一次研究だけでもかなりの資金調達が必要になります。月曜の晩に米国のトライデント・マテリアル・インダストリィと交渉を持つ予定です」
「それは本社から来るのかね? 誰が出てくるんだ?」
「研究部門のシニア・マネージャー、リン・クーネリンという方だと聞いています」
「あいつか!」
ジェニファーさん、相当有名人だね。宮村の腰が引けている。
「お知り合いですか?」
「いや、ハーバードでは同じ時期に居たことはない。学会で見かけたぐらいだが、その時は相当ネチっこく、発表者に噛みついていたな」
テーブルには、お作りも焼き物も運ばれてきて並んでいるが、宮村に手を着ける気配は無い。手酌でビールを注いであおっている。まあ鈴佳に期待する方が無理だね。自分で食うだけだ。
「まあ要するに、当方としては論文にお名前をお借りして『箔』を付けたいのです。勿論執筆料としてそれなりのお礼は考えておりますし、著者順については研究の権利関係に影響もありますから……」
宮村の顔に浮かんだのは欲の影だな。事は単に名誉の問題だけで無く、利害関係にも及ぶ。論文の著者順位というのは、本当であれば執筆者の間で十分時間をかけて合意を図るべきことなのだ。
当然迷いもある。ここで論文の著者として名を連ねてしまえば、その内容に責任を負うことにもなる。しかし先ほどの話から考えると、『今、ここで』承諾すれば、将来第一著者としての経済的権利を主張することも可能だ。
「トライデントは、どの位出資すると思うんだ?」
「最初は数億ドルからですかねぇ」
「……」




