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実はどん亀が利用しているナノ・マシンやマイクロ・マシンの素材には、カーボン・ナノ・チューブが多用されている。それは偶然でも何でもなく、炭素がこの近辺の宇宙では、水素・ヘリウム・酸素に次いで、最もありふれた素材だからだ。
当然、ナノ・チューブだけでなく、炭素の正六角形の単層平面構造体であるグラフェンや球状に近い立体のフラーレンなども使われている。これらの材料からは、強度・軽量性・柔軟性・微細性・導電性・熱伝導性・耐熱性・寸法安定性・摺動性・耐摩耗性・耐薬品性など多様な面で、既存の(人類が使っている)材料よりはるかに優れたものを作ることができるからだ。
例えば、カーボン・ナノ・チューブの比重はアルミニュウムの半分で、強度は鋼鉄の二十倍ある。特に繊維方向での引っ張り強度はアルミ合金や真鍮の百倍以上であるのに、大きな弾力性を持つ。将来に構想されている軌道エレベーターの軸索の材料として採用するための実験が、合衆国では既に始まっていた。
ただ、現状では長尺と言っても産業規模で生産されているのはせいぜいミリ単位の範囲で、あんざい新素材研の提案が実現化すれば、一気に千倍の長さの製品が生まれるわけである。
そうなれば、現在は主に複合材の添加物として使われているこの材料の利用法が、別次元の広がりを見せることになる。しかも安西は『制御された構造を持つ』という表現を付け加えた。
これの意味するところが俺の想像通りだとすると、それは初歩的なナノ・マシンの製造にも繋がりかねない技術である。その話が本当ならば、数十億ドルの投資話と言うのも、現実味を帯びてくる内容であった。
ただし、このナノ・チューブは一定の濃度以上でマウスの体内に取り込まれた場合、アスベストと類似の発癌性を持つという実験データが報告されており、製造・使用・廃棄サイクルのコントロールが必要な素材でもある。
えっ、俺も癌になるんじゃないかって? どん亀には、六百年以上にわたる生体に対する地球での実験データがあるんだよ。利用後にはきちんと回収するシステムも組み込まれているそうだ。
で、気付いた方も多いだろうが、今回の俺の上京はこのカーボン・ナノ・チューブを中心としたナノ素材がらみである。
トライデントが急にあんざい素材研に冷たくなったのも、俺が(と言うよりどん亀が)送りつけた素材サンプルと、アウトラインを示した論文及びデータを見て、乗り換える気になっているからだろう。
何の実績もない一私人からのアプローチなんか、普通なら鼻も引っかけないと思うんだが、どん亀のやつ、どうやったのかね?
「ねえ、安西さん」
「はい」
「俺が今言えることはありませんが、今後もしかしたら声を掛けさせて頂くことがあるかもしれません。そうなったら、話を聞いて貰えますか?」
「うーん、そりゃあ……」と、多分この男には珍しいことなのだろうが、返事をためらう様子があった。
「その場合には無論、安西さんのご損になる話では無いと思います」
「分かりました!」と、思い切った様子で、「まだ、うちにも可能性があるってことですな。まあ、メインでなくても参加できるなら、うちの研究所の才能を腐らせずに済みます。その節は、どうぞよしなにお願い申します」
なるほどこの人は、まず技術畑の人だ。第一に、研究・開発ありきなんだろう。しかも状況を見て、スタックしても腐らず、次につなげる戦略を立てる。部下として抱える人材を、長い目でどう生かすか考えることも忘れないし、その為には汗も流すし頭を下げもする。
成功するはずだよなぁ、この人。押し時と引き際の切り替えも上手い。リスペクトされて当然だ。
俺は東京に出てくる前に、あの熊を倒しておいて良かったと思う。あの経験が無く、こういう人物に相対したら、圧倒されいいように扱われてしまったろう。
俺たちは「ごちそうさま」を言って、安西たちと分かれた。優奈が安西に、その後どんな接待をしたか、俺は知らない。
優奈は身長一六八センチ、上から八八・六三・九一のFカップ(情報提供者 どん亀)だから、おっぱい星人らしい安西所長にはタイプだと思うんだが、そこまでやるかねぇ?
「あのおじさん、迫力あったね。でもご馳走して貰っちゃったんでしょう、いいの?」
「遠慮もなしに飲み食いしてたくせに、どの口が言うんだ!」
ほろ酔いの鈴佳が、身体を預けてきた。まあ、何とか切り抜けた。こいつにも、良い練習になったろう。
「あの女と、どんな話をした?」
「えーっ、何にも。家で何をしているかとか……普通に畑仕事とか、掃除とかって答えたよ。え、英次のことは、何も話してないよ」
「英次さんだ! 人前ではそう呼べ。でも本当は『マスター』だからな」
「はーい」
まあ、いろいろと物欲とかを満たしてやったせいか、表立っていちゃもんをつけてくることは無くなった。自分の居場所を確保したと感じて、落ち着いたこともあると思う。でもこれから、鈴佳にはいろいろ俺を『補助』して貰わなければならない。
どん亀の計画では、『補助』の内容に俺の後継者を産むことまで含まれているようだが、無論それだけでは終わらない。
どん亀の『地球征服計画』で鈴佳の果たす役割は、決して少なくないはずだ。でなければ、あんな人体改造までこいつに施す理由が見当たらないじゃないか。
自分の意思とは関係無くどん亀の計画に巻き込まれた鈴佳を、不憫だと思わないことも無いが、それは俺だって同じことだ。
何も知らないこいつの方が、俺よりまだ幸せなんじゃなかろうか?
「英次さん」
「ん、何だ?」
「えへっ、ちょっと呼んでみただけ」