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俺の元上司の橘(旧姓 篠田)優奈と『あんざい新素材研究所』の所長である安西匠という男に、鈴佳を連れて行ったレストランの入り口で再会した。
同じホテルに宿泊していて、そこのコンシェルジュお勧めの一つ星だから、不思議ではない。
ところが相手の安西所長が、何故か俺に興味を持ってしまった。押しの強いところを発揮し、彼らが予約していた個室に俺たちも入れるよう店にねじ込んだ。
「いや、わしの我が儘です。ここの支払いは全部こちらでさせて貰います。その代わり優奈はん、改めてご主人との席を設けて貰えませんか。せっかくこっちに来たのに、橘さんと話せないまま関西に帰るのは、心残りですさかい」
と、そうまで言われては、優奈も拒否するわけにもいかなかった。
「それで岡田さん、週明けにステイツの人間と会う、言うとりましたな」
ああ、安西所長、さすが関西人だ。部屋に入って席に着いた途端に切り出した。タダで食事を奢るなんてことは、なかったね。
「ええ、まあ。……あ、鈴佳にはノンアルコールで。まだ二十歳前なので」
いつもだったらぶータレる鈴佳も、空気を読んだのか文句を言わない。
「おー、それはうらやましいですな。失礼ですが、彼女さんで?」
「まあ、それは……」
優奈が眉をしかめて俺を見る。ん? 俺を変質者扱いしようというなら、お前に不倫疑惑をかけてやろうか。そんな無言のやり取りが一瞬あった。……この場では俺の勝ちだな。お前は鈴佳の正体を知らないが、俺はお前もお前の夫も知っている。情報戦でどちらが優位に立っているか、明らかだ。
「あーら、岡田くん、教えてくれても良いでしょう。そちらのお嬢さん、さっき『すずか』って呼んでましたよね。馴れ初めとか、聞きたいわ」
「はい、その……」
「いやあ、こいつとの出会いなんて、お話したいような内容じゃあありませんよ。なあ鈴佳」
優奈の振ろうとする話題を、俺は遮った。まあ鈴佳も、行き場が無くて、ほとんど無一物で俺の家に転がり込んできた、なんて話をしたくはないだろうが、念のためだ。
「そうですか。まあ残念ですが、その辺の話はまたの機会ということにしましょうかな。それでトライデントの人間って、実際には誰が来るんでっしゃろ?」
まあ、安西所長の方が剛速球で真っ向勝負だね。
「さあて、ご存じか分かりませんが、クーネリンって言う女性です」
「ふーん、あの雌狐ですかぁ」
「どんな女なんです、所長?」
優奈も興味をひかれたようだ。
「優奈はん、知りませんのか? あそこの研究部門のシニア・マネージャーで、きっつい女子でっせぇ。わしよりは何歳か下のはずですが、あれに手痛い目にあわされた所は、ぎょーさんあるはずや」
「ご面識がおありですか?」
「まあ、あそことは何度か交渉がありましたからなぁ。会ってみるとこれが、えらい骨張った体つきの女でなぁ。おっぱいなんか、あるのか無いのか……」
いや所長、話はそっちの方にいくのかい? 早過ぎない? まだ料理もワインも来てないんだけど。
食前酒にシャンパンが出され、呑兵衛の鈴佳がジト目で俺を見た。溜め息をついた俺は小声で「一杯だけだぞ」っと囁く。ニマッと笑った顔が満足げになる。
「じゃあ、乾杯ですな。何にしますかなぁ?」
「では、今晩の出会いと今後の健康に」
「ああ、それでいきましょ。では、乾杯!」
所長も適当だ。俺にはシャンパンの銘柄とか分からんけど、美味かったから高いやつなんだろう。だけど所長がどんどん注ぐように言うので、鈴佳が飲み過ぎないように制止するのが大変だった。
料理はトマト・小玉葱・セロリ・パプリカ・アスパラ・大根・カリフラワー・小人参・ヤングコーンを白ワイン・ビネガー・バルサミコでピクルスに仕立てた前菜から始まった。
次に冷製の馬鈴薯ポタージュ、ぶつ切りにした桜鱒、焼き色を付けた鮑と付け合わせ、ホワイトアスパラとロブスターの串焼きと進む。
生雲丹とトリュフのスクランブル・エッグの後、主菜が和牛フィレ肉のステーキ。
季節のデザートは洋梨と秋栗の砂糖煮にチーズ、この後に珈琲と小型の焼き菓子数種類が出た。
コースの途中で、白それから赤のボトルワインも出る。所長がたのんだワインは、白はシャンパーニュの後だったので少し辛口、赤は重めだった。
しかもデザートに食後酒の希望を聞くんだよね。優奈はシェリーをたのんで、鈴佳にも勧めたが、俺が炭酸水にするよう言って邪魔した。勿論俺も炭酸水だ。
勧め上手の安西所長は紳士的で、決して野暮な無理強いはしなかったが、自分ではコニャックを飲んでた。多分俺たちがいなけりゃ、葉巻も嗜むんだろ。
でも食事中の会話の進め方が上手く、俺は寡黙に頷くか首を振るのに徹して、防戦するのに手一杯だった。デザートの前までで七品、さすがの鈴佳も腹一杯のようである。
「実はトライデントとはある提携話が進んでましてね」
安西が横目で、鈴佳に話しかけている優奈の方を見ながら、俺に話しかけてきた。
「ほお?」
「ところが、それが最近急に滞りだしたんですわ」
「と言うと?」
「それまで乗り気だった先方が、話し合いを先延ばしにし始めたということです」
「なるほど」
「現在うちが開発中の物に目を付けてアプローチしてきたのは、あちらさんの方からだったのに……となると、どういうことですかなぁ?」
「いや、それを俺のような部外者に尋ねられても」
それまで和やかに笑っていた所長の眼が、突然ギョロッと見開き、俺をにらみ付けた。
「部外者じゃありゃしませんでっしゃろ! 向こうの担当者はあの雌狐、ジェニファー・リン・クーネリンです。岡田さん、あんた、何か知ってはるやろ!」
さすがに大声は出さないが、眼力はたいしたものだ。この迫力で、今まで多くの相手をねじ伏せてきたのだろう。しかも計画的に飲み食いさせて、俺に相当酔いが回った頃合いと見定めての豹変だ。大概の者なら、ここで動揺して何かを漏らす場面だ。
「さてさて。俺が今、所長さんに言えることは、何もありませんよ」
「うーん」と唸った安西所長は、もう一度俺をにらんだ。それから、「岡田さん、あんた大した玉ですなぁ。目的は何ですか? 金ですか? それとも他の何かですか?」と、真顔になって尋ねる。
まさか「世界征服です」と素直に答える訳にはいかないよ。まあ、『我々』の代理人としてだけど。それで俺は尋ねた。
「安西所長、トライデントとの交渉事項ってのは何ですか?」
「ぶっちゃけて言うと、制御された構造を持つ超長尺の単層カーボン・ナノ・チューブの製造過程確立ですわ。ブレークスルーのために、数十億単位の研究資金が必要です。それの投資団にトライデントが一枚噛む話だったんですが……」
「数十億?」
「ああ、ドルですわ」
「超長尺と言うと?」
「軌道に乗れば、メートル単位、のつもりです」




