◆221◆
あの後、桃花の部屋に謝りに行った。後でだと、どう考えてもステファニィの態度からバレるに決まっているから、その前にだ。
「ミギィと結婚するんですか?」と聞かれた。
「いや、俺と結婚するなんて、危険過ぎるだろう。それはしないと伝えてある」
桃花はフンと鼻を鳴らした。俺の裏の活動について直接知らされていなくとも、まともなやり方で今の六角グループが出来上がるはずがない。相当危険なことに手を染めているだろう事ぐらい、承知しているはずだと言いたいのだ。
「じゃあ、何故謝りに来たんです?」
「桃花に詫びるのは当然だと思った」
「まさか“浮気をした”から謝っている訳じゃないですよね。お互い、何の約束もした覚えは無いし、縛ったり縛られたりは無いはずです」
「桃花も居るこの宿で、彼女を抱いた」
「あー、それはまあ、もう少し節操を持って欲しかったとは思いますが」
いつもより素っ気ないのは仕方ない。うん、女主人の風格というところだな。
「今後気を付ける」
「もうしないとは言わないんですよね?」
念を押された。
「うん、それは無理だ」
桃花は俺を見て、それから頷く。
「そうですね。ミギィが我慢できるとは思えません」
俺もそう思う。彼女の本質はその……結構情熱的な女だ。
「できるだけ礼節を守るよう心掛けるよ」
礼儀は平和を保つために、必要な手立てである。
「私たちの関係に変更は無いと考えて良いんですよね」
確認された。
「ああ、俺には桃花が必要だ」
「彼女が、嫉妬するとは考えないんですか?」
「それは、嫉妬することが許されるとしたら、君の方だろう」
「こういうのは、順番じゃないんです」
なるほど。
「そうか。刺されたりしないように、十分気を付けよう」
「そうして下さい。恋する乙女というのは怖いんです。特にミギィにとっては、初恋でしょうから」
「えっ?」
「彼女、初めてだったでしょう?」
「あっ、ああ」
間の抜けた、声が出てしまった。
「こじらせている女には用心すべきです。特に結婚するつもりが無いなら」
「?」
一瞬の俺の躊躇いを、桃花は別の意味に取ったようだ。
「将来的に、あるんですか?」
「分からん」
ただしするとしたら、桃花の方のような気がする。俺の秘密を共有できる人間がいるとしたら、それは彼女だ。ただ、それは今じゃない。あるとしても、ずっと先のことだろう。
「その気になったら、早めに知らせて下さい。社長の立場では、どうしたってプライベートだけに納まりませんから」
桃花は俺がプロポーズしたら、どういう態度を取るだろうか? こいつの下す判断はその時の状況次第だとは分かっているが、考えずにはいられなかった。
それに結婚となれば、どん亀が干渉してくる可能性がある。あいつにはあいつの計画があり、それに支障を来さない相手でなければ排除されるだろう。あいつの計画の全貌が掴みきれないでいる俺としては、リスクを冒したくはない。
「ああ分かった。桃花が居てくれて、本当に助かるよ」
本人自身も分かっているだろうが、彼女は俺の周りで一番有用な人間である。彼女無しでは、俺の表の仕事は立ち行かない。
「仕事ですから」と言って一度間を置いてから、「それより、ちょっと厄介事です」と桃花は続けた。
「厄介事?」
「王佳麗が、大城由唯の恋人が、上海で死んだらしいです。転落死だそうですが、事故か、自殺か、あるいは謀殺か、分からないそうです」
それは中共国内の政財界に関する情報収集のため、エージェントとして大城が抱えていた人物である。彼女とほぼ同年代で、女同士として親密な関係にあった。
「何か、事故じゃないと疑う理由があるのか?」
「そのことで由唯がこちらに向かっています。明日の昼までには着くでしょう」
「おい?」
「私の判断で呼び寄せました」
「リモートでは話せない内容なのか?」
「はい」
次の日の夕方、俺たちが泊まっている宿に姿を現した大城は、相当消耗していた。眼の下に隈があり、コートの中はニットのワンピースを着ていたがアクセサリーは無く、ハンドバック以外の荷物も無かった。
「死の前日に微信(WeChat)でメッセージが届きました」
そう言って大城は、俺にPadの画面を示した。
『美麗的夜晚,愛的夜晚
對我們的醉酒微笑
夜晚比白天更甜蜜
哦,美麗的愛之夜!
時光荏苒 沒有回頭
帶走我們的愛!
遠離這愉快的逗留
時光荏苒 不歸』
「何だ、これは? 遺書なのか?」
「最初いつもの私信だと思ったんです。でもその後に、飾りのように三十個の七桁の数字が並んでいました。それで去年最後に会った日、一緒に観劇したオペレッタと、その後買った本のことを思い出したんです」
「本? オペレッタ?」
「ええ、上海にある上音歌劇院でケイ&ケック版の『ホフマン物語』を観ました。佳麗が送ってきたのは、その中の『巴卡羅萊』、最初の二節です。その後近くの書店で、同じ本を二人で一冊ずつ買いました」
「同じ本を?」
「中文版の『ホフマン作品集』を」
それはまた、亡くなった人間が関わっているから言いづらいが、一昔以上前の女子高生の、ロマンティック趣味みたいだな。劇を観た後に原作者の本をお揃いで買うなんて、こんな時じゃなければ何だか惚気のように聞こえる。
「ちょっとしたゲーム気分でした。麗佳と私の間のプライベートを公安部に覗き見されるのが嫌だったので、遊び半分で考えた暗号です。同じ本をコードブックとして、始めの三桁がページ数、次の二桁がページ始めからの行数、次の二桁が行頭からの文字数です」
「暗号だなんて、「秘密があります!」と大声で叫んでいるようなものじゃないか」
「そうです。だからお互い、一度も使いませんでした。今回までは」
「つまりその数字の列は、彼女の最後の伝言と言う訳か」
「ええ」
「それで、暗号は解読済みなんだろう? だから君は桃花に、連絡を取ったはずだ」
大城由唯は無言で自分のスマホを取り出し、開いた画面をこちらに向けた。
『謹防俄羅斯刺客 (ロシアの暗殺者に注意して)
俄羅斯與中國結成同盟 (ロシアは中国と同盟を組んだ)
俄羅斯承擔了六角高管的殺戮 (ロシアが六角幹部の謀殺を請け負った)』
「なるほど。やはり彼女は殺されたんだな」
「そうだと思います。私に警告を残して」




