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アリス婆さんが、レールガン・シップを米国に貸し出せば、交換条件として核兵器をレンタルすると言い出した。無論相手は日本政府である。核兵器を国家以外の手に渡すことなど、できるはずがないからね。
ステファニィは「賢明ではない」と否定的だ。理由は「そんな物、使えないでしょう」という、いかにも彼女らしい論拠で、現実的でもある。
米国のマンハッタン計画により最初の原爆が一九四五年七月に完成して以降、核兵器が実戦で使用されたのは日本の広島・長崎への二回だけ。それも非戦闘員の居住する都市を標的とした攻撃であった。
その後冷戦時代に確立された相互確証破壊(Mutually Assured Destruction)戦略により、『核による先制攻撃を使って相手国に致命的な打撃を与え戦争に勝利する』ことを不可能にする努力が進められる。
現在の核保有国は、米国、中共、英国、仏国、露国の国際連合常任理事国と、インド、パキスタン、北朝鮮を加えた八ヶ国。この他に保有している可能性があるのが、イスラエル(ほぼ確実)、イラン、シリア、ミャンマーの四ヶ国だ。
二〇二一年の統計によれば、露国は四千五百から六千発以上、米国は三千八百発から五千五百発以上、中共は三百五十発以上、仏国は三百発程度、英国が二百発程度の核弾頭を保有しているとされる。
この内、軍用配備されているのは戦略核として露国約千六百発、米国約千七百発、中共約三百五十発、仏国約二百八十発、英国約百二十発と推定されている。戦術核については、どの国も明らかにせずほぼ不明だ。
ただし核兵器についてはどの国においても最高の軍事機密とされているから、いずれにしてもどれも確定情報とは言えない。
この他、イスラエル、パキスタン、インドは概ね百から百五十発の核弾頭を保有しているとされ、北朝鮮については四十発分の核分裂物質を保有している可能性がある。
実は日米は過去何度か、米国から核弾頭を提供される形で核の共同保有を検討した経過がある。しかし日本国内の根強い反核世論によって、結局は挫折してきた。
東西冷戦時、米国はNATOに対して核シェアリングという形で戦術核爆弾を提供し、加盟国内に配備するという手法を取った。平時には駐留する米軍基地内で核弾頭が管理され、有事に加盟国の攻撃機に搭載されて敵地攻撃目標に対し投入される。
ただ核兵器を起動する暗号コードは米国の管理下にあり、核使用時の最終判断はあくまで提供国の米側にあるのだから、これらは核兵器を同盟国内に配備するための方便に過ぎないと見ることも可能だ。旧ソ連がN A T Oに隣接するソ連側の同盟国に核を配備していたことを考えると、こちらの方が真相だろう。
NATO圏内で現在でも核弾頭が置かれていると確実視されているのは、ドイツ国内にある米軍基地だけだ。
さて仮にどこかの国が日本に対し、核による恫喝を行ってきたとしよう。日本が核シェアリングの協定を米国と交わしていたとして、それを対抗措置として利用できるかと言うと、これは先ず現実性が無い。
相手が中露のような核の大量保有国(現在中共は、保有する核の数をかなりのペースで増やしつつある)であった場合、核戦争に巻き込まれることを怖れる米国は、日本が核カードを切ることを許さないだろう。
そこから考えるとステファニィの言う通り、アリス婆さんの示した核シェアリングの提案は、それ自体では意味の無いものなのである。
「交換条件という、表面を繕うためか……」
「そうよ。結局、何の利益にもならない。許せることではないわ」
うん。企業家としてのステファニィの信条に反するという訳だ。「あくまでギブアンドテイクでなければならない」とは、何とも律儀なことである。まあ俺は彼女の“お友だち”だし、仕事上でも繋がりがあるからな。
「アリス、彼にとって何のメリットも無い提案なら、私は協力できないわ。いくら米国のためでもね」
「つまり、日本にとってでなく、彼に対してのメリットを示せと言うことですね」
婆さんが、チェシア猫みたいに歯を見せて笑った。可能なら飼い主の公爵夫人と一緒に首を刎ねてやりたいところだ。
「そうよ。レールガン・シップに台湾海峡をカバーして欲しいなら、上院の公聴会に召喚するなんて脅しは止めるべきね」
ステファニィは俺に味方しているつもりだろうが、これではレールガン・シップが俺の支配下にあることが、既成事実化されてしまう。
「ステファニィ、君はまるで俺が、そのレールガン・シップとかいう物を、どうにかできるという前提で話しているようだね」
「あら、違うの?」
つまらなそうな表情になったステファニィから、目を逸らす。可愛い子ぶって不機嫌な顔になって見せても、騙されるものか。
「それに君も言ったじゃないか。核シェアリングなんて意味無いと」
「話が逸れていますよ、二人とも」と、アリス婆さん。
「さて、何も逸れてなんかいないと思いますがね。そもそもあなた方が交渉すべき相手は、日本政府でしょう」
「そんな話が通用するとでも? 六角グループは、我々を敵に廻すつもりなのですか?」
戦争が起こった時政府が私企業に協力を求めることは、珍しくない。それどころか世界的な規模とネットワークを持つこれらの大企業の影響力は、下手をすると中規模の国家以上に戦況を左右すると考えなくてはならないから、戦争前から国家間の綱引きの対象となる。
「日本には現在、核の運搬手段も無ければ、それを操作する訓練された人材も無い。例えば核運搬用の弾道ミサイルを開発し実戦化するには五年以上、いや十年近くの期間と、最低でも数千億の予算を投入することが必要だろう。まさか米国が、核ミサイルその物を丸ごと売ってくれるとは思えないしね」
「……それは、核拡散防止条約の根本理念に抵触します」
「つまり米国の方から日米安全保障条約を廃棄することは無い。例えそれが有名無実化したとしても、と言うことですよね」
「条約に署名するに当たって、自国の利益を危うくする事態に至った時、日本が脱退する権利を保留するとしたことは、米国も留意しています」
やはりアリス婆さんは、外交官の立ち位置で話している。駆け引きの中でも、見えない所で一線を引き、そこは譲らない。
二年前なら俺は、こういう人間を洗脳するなりギアスで縛ったりして浸食し、俺の支配下に入れていくことを検討したろう。だが俺と接触した人間の誰も彼もがそんな風に変化したりすれば、その異常さ(俺の他人への影響力の強さ)に気付く人間や組織が出てくる。
そんな危険は冒せない。何故なら、俺は普通の(?)独裁者以上に絶対少数であり、そのことで脆弱だからだ。俺がボトルネックであること自体が、俺の卑怯さの裏返しなのである。世界は広く、俺は孤独だ。
「さて、今日は有益な話ができました。今度お会いできる機会を、楽しみにしております」
「えっ、帰るの? それで良いの?」
「ステファニィ、この人は商売人じゃないんだ。あくまで、国務省のお役人だよ」
俺は拍子抜けした表情のステファニィに、そう言った。彼女にはアリス婆さんが何の成果も上げずに引き下がるとしか、見えなかったのだろう。だが経済人と違い、外交官には冒せないリスクがある。国の方針を転換する権限は、彼女に与えられてはいない。
「私は最初から、「今日は交渉を始めるつもりはない」と申しました」
「そうね」
一瞬だけ固い表情になるステファニィ。目論見が外れたな。
つまりアリス婆さんが今日ここへ来た理由は、当たりを付け俺の腹を探る、できれば情報を搾り取りたい、そんなところだろう。良いように利用された形のステファニィが、後で荒れそうだ。
「車を待たしているので、これで帰ります」
アリス婆さんはそう言って、鮮やかに退場する。ステファニィは後ろめたそうに、俺の腕に手を掛けた。
「見送りをしないで、良いのか?」
「ええ、お祖父ちゃんの紹介だけど、ちょっと考え直さなくちゃね」
「そうか」
「私たちの関係も、考え直さない?」
「君のお祖父ちゃんに、結婚する気が無いなら手を出すなって、釘を刺されているんだが」
「知ってる」
「俺には桃花がいる」
「それも知ってる」
「じゃあ?」
「私のことは私が決める」
ステファニィが寄り添ってきた。いくらお祖父ちゃんに「ダメ」って言われていても、こいつも二十代後半だしな。
ん? これって、ハーレムの始まりなのか?
いや、どう考えても、違うな。




