◆215◆
いくらどん亀というチートな優位があっても、俺は行き当たりばったりの愚図で、言行不一致の間の抜けた人間だ。目の前にいる女を見て、つくづくそう思う。
ミズ・レイニィ・アリス・ハーマン、米国国務省副長官。三日前に俺自身が岡女史に、会うべきではないと言った人物だ。
場所はワシントンDCから車で一時間半程、チェサピークビーチの対岸にあるメリーランド州タルボットのオックスフォード、人口七百人弱の小さな町である。
海岸通り沿いにあった建物は、英国式コロニアル風三階建ての宿屋だ。壁は明るい黄色に塗装され、一階の正面には長いポーチがある。
ポーチの上の白い部分が二階客室の露台になっていた。三階部分は駒形切妻屋根に設けられた屋根裏部屋で、屋根付き窓が並んでいる。
この宿屋を今日貸し切ったのは、ステファニィだ。
二階の一番大きい客室を割り当てられた俺が一息ついているとノックがあり、彼女の声がした。
で、迂闊に信用して、無防備に入って良いと言った俺が悪いのだろうな。ステファニィは一人ではなかった。しかも彼女の連れは男じゃなかったから、俺もまさか悲鳴を上げて追い出すなんてことは、格好悪くってできなかった。
自己紹介が終わって、俺とハーマン副長官は煉瓦の暖炉があるリビングのローテーブルを挟んで腰を下ろし、向かい合っていた。副長官の側には、ステファニィがすました顔で座っている。
俺の表情が固く、愛想も何もなく黙り続けているのも仕方ないだろう。ステファニィが手配したリムジンで駐車場に着いた時、スレート葺きの屋根を見て、アメリカン・ノスタルジィだなあとか感じ入っていた俺を、蹴飛ばしてやりたい。
これがショート家の持つ豪邸のどれかに招待されたのだったら、俺だって少しは用心したはずだ。だがこんな鄙びたと言うか、ワシントンから百三十キロも離れた田舎宿に、政府の高官が(それも多分一人で)やって来るという発想は無かった。
ステファニィを、甘く見ていた俺が悪い。こいつの本性は、何気無くこういうことをやってのける生え抜きの性悪女だった。
俺が問い質せば、「あら、あなたのためにはそれが一番に良いと思ったのよ」と答えるに違いない。そしてきっとそれは、心底彼女自身信じ切っての言葉なのだ。
えっ、何を言ってるんだって? 俺にもよく、分からないよ。俺って、天然の抜け作だからな。それより問題は、目の前にいるこの婆さんだ。
「初めまして、ミスター・岡田」
「ああ確かに、初めましてでしたね、ミズ・ハーマン」
「アリスと呼んで下さい」
いや、それは辞退申し上げる。俺はあんたと、仲良しになりたい訳じゃないんだ。
「ミズ・ハーマン。あなたと親しく話すつもりは、ありませんよ。俺の時間は、とっても貴重なんでね」
「あら、ミズ・ショートの話では、今日お仕事の予定は入っていないとか?」
鈴佳のことを考え、ここでしばらくのんびり過ごすつもりだった。人の出入りの激しい都会に、いきなり連れて行くのを避けたくて、ステファニィに数日過ごす場所の選定を託したのだ。
過保護だって? いや違う。これから鈴佳に割り振る役割を考えると、彼女の精神的コンディションを整える必要があった。
間抜けなことに、ステファニィが俺の都合が良いように動いてくれる女だなんて思い込みが、俺にはあったのである。うん、自惚れるのもいい加減にしないとな。
どん亀に出会った頃の俺が、どんなにイケてない奴だったか思い出せ。ちょっとばかり金持ちになったと言う以外、俺のどこがマシになったというんだ!
困ったことに、この時点でステファニィを切り捨てるという選択肢が、俺には無かった。
「英次、彼女の話を聞く位の時間は取れるでしょう」と、ステファニィ。
「俺が誰と話すかは、俺が決める。アポイントを取るなら、秘書を通してもらいたい」
俺はあえてステファニィの言葉を無視して、そう告げた。いや、イラつくなよ。不本意なのは俺の方だ。この期に及んで意地を張っているだけなのは、自分でも判っている。
「英次、自分のスタイルを守るのは大事だと思うけど、今回は頑なにならないで。時には妥協も必要よ」
胸の前に組んでいる俺の腕に手を掛け、側に来たステファニィがそう言う。俺よりも一枚上手だ。もう一度言うが、今こいつと全面的に喧嘩するわけにはいかない。どうしたら良い?
考えれば、ステファニィは日本アニメの熱烈なファンではあるが、紛れもなく愛国者である。その愛国心の対象は、言うまでもなくアメリカ合衆国だ。
世界的な巨大企業トライデント・マテリアル・インダストリィ・アメリカCEOの腹心(と言うか、実の孫)であり、現在は祖父を手助けする形で経営の中枢に関わっている。性格は多少アレだけれど、若くして地位があり、容姿も悪くない。当然、親密になりたいとアプローチしてくる人間(男とは限らない)も結構いるはずだ。
日本人の持つ「オタク」のイメージとは随分違う。むしろ彼女は、どちらかと言うと「リア充」の方じゃないか? あらゆる意味で、格差社会である米国の上澄みの部分にいるのだ。
感性的にステファニィは、米国の舵取りに関与する人間のほとんどが属する、『新上流階級』の一員である。
この『新上流階級』の人間というのは、「世界にとって何が最善かを決める場合、自分たちの特殊な(他から見たら贅沢な)生活を基準として判断してしまう」という、深刻な欠点を抱えていた。
恵まれたエリートである「自分たち」以外の境遇に無関心なまま、国の舵取りを委ねられている彼らの下す判断は、実はしばしば的外れである。時として問題を改善しないどころか、更なる厄介事を産み出す結果になることが多い。
今回ステファニィが、このハーマンという婆さんを引き入れたのは、彼女の『善意』に基づいてのことだろう。
しかし俺にとってその無邪気さは、迷惑を増幅するものでしかなかった。そして俺に対して良かれという思いが強いほど、彼女に翻意を促すことは余計難しくなる。これって、無理筋じゃね?
「日本で岡さんをプライベート・ジェットに乗り込ませたのも、君の手引きか?」
「彼女がアリスのカウンター・パートだって聞いたから、連絡を取っただけよ」
「まさか岡さんまで、ここに連れて来ているのか?」
ここでステファニィの隣に座る婆さんが、口を挟んだ。
「彼女だったら、今はワシントンDCの日本大使館にいるはずです」
レイニィ・アリス・ハーマンは五十八歳。両親はポーランド系、東西冷戦末期に西ドイツから米国に移り住んだ。つまり移民の娘である。米国で生まれた彼女自身は、ニュージャージー州にあるプリンストン大で物理学を学び、その後ニューヨーク州のフォーダム大で法学修士号を得ている。
同州で弁護士資格を取って、中堅の弁護士事務所に勤務し、ヨアヒム・ハーマンと結婚、四年後に離婚。この間、ある下院議員の主席補佐官を務めた関係で、南アメリカ各国への外交団スタッフに加わっている。その後、短期間ではあるが駐仏領事を経験した。国務副長官になったのは十年近く前だから、前大統領の頃になる。
俺が目の前に座っている女について、心話で緊急に要求し、どん亀から得た情報は、そんなところだ。
銀髪混じりの茶髪で瞳は灰色。身長は百七十センチというが、肩にボリュームがあり猫背気味に見える。若い頃は陸上競技(円盤投げ)の選手だった。逞しい手やエネルギッシュな歩き方に、その片鱗が覗える。
男性ぽいパンツ・スーツ姿が意図的なファッション・ステートメントだったとしたら、この国ではあまり受けが良くないのじゃないかと思う。
ふーん、これが国務省の、ナンバー・ツーか。タフそうな女だ。日本の高級官僚たちが交渉相手にするのを避けたがるのも、分かる気がする。。
「私はあなた相手に、交渉を始めるつもりはありません。今、岡さんがこの場にいないのは、そういう意味だと受け取って下さい」
おや、じゃあ、あんたは何しに来たんだ?
「交渉を始める気はない?」
「ええ。今はまだありません」
「なるほど、……では、何を?」
「情報の擦り合わせです。あなた(たち?)については、不明なこと曖昧なことが多すぎる。大統領はあの通り思いつきでだけで動く人ですけれど、私たちとしては現状のまま放置することはできません」
この女は、米国の有能な官僚タイプだ。勘で動くとか、しない人種だ。大統領に対する露骨な物言いは驚きだが、身近であればあるほど、そうなるのかも知れない。周囲の迷惑を考えないで派手なパーフォーマンスを演じたがるあの大統領は、真面目な官僚には好かれないだろう。
問題は彼女が、俺が一番触れて欲しくない秘密に踏み込んで来ようとしていることである。俺がほとんど無一物な所から、これだけ短期間で巨万の富を築き上げた方法について、過去に多くの人間が興味を持ち調査に手を染めて来た。しかし当然、俺はその種の取材のオファーを全て断っている。
公の場にはほとんど姿を現さず、六角との取引をできるだけ独占したいトライデント社が世界に対するスクリーンの役目を買って出ていることもあり、俺はずっと謎に包まれた経営者とされていた。
必要があって過去に何度か要人(例えば米国の大統領のような)と会って話したことはあるが、その際も交わす会話の内容をコントロールすることで、俺は自分の秘密を守り続けて来たのである。
ただ、そういう相手は公人としての立場上、守らなければならないルールとマナーに縛られていた。
このレイニィ・アリス・ハーマンという人物も、米国国務省副長官という立ち位置があるはずなのである。しかしステファニィが同席することで私的な空間と変えられたこの部屋では、その常識が通用していない。
まったく、厄介な状況だった。




