◆214◆
シャワーを浴びて着替えた俺がラウンジに出てみると、誰もいない。パーティションを通ってサブ・ラウンジを見に行く。
そこでは珈琲カップを左手に、反対の右手にはハムとレタスを挟んだベーグルを持った岡女史が、鈴佳や千葉華子(千葉姉妹の妹の方)、そして田中と甲斐のコンビを相手に、大きな声で談笑していた。
「あら、社長。お昼、頂いているわよ」
言われないでも見りゃ分かるが、密航者にしては随分と図々しいじゃないか。
「岡さんのご希望で軽食を出しましたが……?」
華子が俺の顔色を見ながら、口を濁した。さすがに大学生になると、気配を読むようになるか。
「いや、良いんだ。招待したわけではないが、今は一応、お客様だからな。でも岡さん、入国時のトラブルまで、責任は負えませんよ」
華子を責める気はないが、岡女史には釘を刺しておく。
「その辺は大丈夫。話は通してあるから」
すると少なくとも公用旅券の発給は受けているわけだ。原則一往復有効なパスポートだから、前回の渡米分とは異なるはずである。外務省にいるという彼女の同期が、手を廻したのだろう。
「それで、向こうであなたが会う予定の相手というのは、誰なんです?」
「興味があるのね」
「いや、全然」
「じゃあ、どうして聞くの?」
「こちらの予定を、あなたに邪魔されるのは迷惑だからですよ。言っておきますが、その場合容赦をする気はありませんからね」
「おお怖い」
面の皮の厚いご婦人だ。言葉とは裏腹に、にらんでもたじろぐ気配さえない。
「で、あなたの相手は?」
「米国国務省の国務副長官、レイニィ・アリス・ハーマンよ」
「国務省のナンバー・ツーじゃないですか! 外交分野に限ってなら、副大統領より大統領に近い位置でアクセスできる人物だ。失礼だが、その……」
「そうねぇ、私のポストとは釣り合わない相手だわ。どうも相手が女性なので、男どもが忖度したというか、私に押しつけたらしいのよね。交渉が失敗した場合、どう評価されるかと考えて、尻込みしたんじゃないかと思うの」
「それは……何と言うか……」
「情けない話でしょう。でもって、彼女と会う時に同席してくれれば私としても、とっても助かるのよね」
ここまで押しが強いのには呆れるというか、感心する。それにしても霞ヶ関の男どもは、日頃米国には相当譲歩しているくせに、交渉相手の高官が女性だと言うだけで二の足を踏むのか。多分後で、「女に負けた」と言われるのが嫌なのだ。
「こちらにとってのメリットは?」
「むしろ、デメリットを避けるためと考えて欲しいわ」
「つまりあなたには、手持ちの説得材料が無いという訳ですか」
「そう断定的に言うとこ見ると、愛国心を持ち出しても無理そうよね」
「お役人に“愛国心”と言われてそれを鵜呑みにするほど、私が馬鹿に見えますか?」
「日本は良い国だと思わない? 米国なら絶対、愛国者であることを求められるもの」
移民によって建国され、現在でも多くの国からの移住者を受け容れ続けている合衆国は、『祖国愛』という契約によって束ねられた、人造国家である。つまり自国への忠誠心が、米国では国民の義務なのだ。逆に言えば岡女史は、「日本はそれと違う」と言っていることになる。
まあ中共では、愛国心が『現在の中国共産党とその支配体制を愛する』という形にまで変形されているけどね。最近では、“中国的民主”というスローガンさえ打ち出されている。「国民が間違いに気付いた時、自らそれを正せる手段を持っているのが、ほぼ唯一と言える民主主義の利点」だと思う俺には、これは意味不明としか言えない。
「官僚にとって『最大多数の最大幸福』という謳い文句は、使い勝手が良いでしょうね」
幸福 ・ 幸福 ・ 幸福 よ! 世界はお前の周囲を巡る! 何にしても、それに異議を申し立てるのは無謀というものだ。
「法の支配による政治には、良い法律を制定する良い議会が不可欠なの。“国家と政府は人々の同意・契約に基づくから、悪政には抵抗し暴力革命を起こして良い”なんていう思想は、悪夢以外の何者でもないでしょ」
ベンサムの最大幸福原理は、十八世紀末前後の選挙権拡大闘争(普通選挙運動)に理論的根拠を提供した。それは「政治の良否を判断する基準は、なるべく多くの人々の政治参加により制定された法律に従って統治されているかどうかだ」というものである。
ただこれって、官僚が倫理的責任を回避するのに便利使いされているようにも感じるんだよね。
「ミズ・ショートが何と言って来たかは知らないけど、米国はレールガンのデータを要求して来るはずよ」
おばちゃんの言う通り、現物の提供を拒否すれば、代わりにデーターを寄越せと言い出すだろう。それは想定済みだ。
「だから米政府側の人間とは会わない方が良いんです」
「それが通用する相手だと、思っているの。駄々こねないで」
あんたはどんな権利があって、俺のかーちゃんみたいな口を利くんだ。そもそも俺は、自分の母親が好きではない。だから、そういう口調が大嫌いなのだ。
先に姿を消した鈴佳や華子と違って、調理区画に逃げ込む訳にはいかなかった田中と甲斐は、それまでそこに居合わせて、黙って話を聞くばかりだった。しかしさすがに、感情的にエスカレートし過ぎだと思ったのだろう。田中が止めに入った。
「あの、岡局長」
「何?」
「ここは岡田社長のプライベート・ジェットの中です。言わば岡田さんのご自宅のようなものです。他人の家に押し掛けて、その言い方は拙いのでは……」
「あなた、そんなことだから駄目なのよ。このままでは米国は、F-35の供給を中止すると言い出しかねないわ」
怒鳴りつけるように言われて、田中が黙った。あー、一撃で撃破か。甲斐が代わりに口を開く。
「現在の対中情勢から見て、それは無いでしょう?」
「そうね。でも、供給が遅れる可能性を言い出すことはあり得る。あるいは黙ってそうして、こちらが問い合わせるのを待つかも」
「なるほど」
甲斐は溜め息をつき、俺に「こりゃあ、社長に妥協して頂くしか……」と言い出した。おい、そこで日和るな。俺は抵抗するぞ。
「それで私が、何故妥協しなければならないんです?」
「あなたのレールガン・シップに護衛が付けられなくなるけど、それで良いの? 言っておくけど、先制攻撃は許されませんからね」
つまり、レールガンによる超遠距離砲撃で、撃墜してしまう訳にはいかない。間に立ち塞がる迎撃機が無ければ、敵戦闘機の攻撃に直接さらされるぞ、という脅しであった。
「なるほど、それじゃあアレを飛ばすことは、できませんねえ」
「えっ?」
「だって、そうでしょう? 護衛もなくレールガン・シップを飛ばすなんて、自殺行為です。そんな危険を冒すことに、意味はありません」
俺が冷たく突き放したので、二の句が継げなかったね、岡女史。勘違いしているようだが、俺にはそこまでの義理は無い。俺の求める条件が満たされなければ、手を引くだけである。そういうことだ。彼女は、俺がレールガン・シップのために投資したであろう金額から、俺が退っ引きならない所まで、この計画にのめり込んでいると考えたのだろう。
多分まだ岡女史は、俺の言葉がブラフだと思っている。しかし彼女には、コールを掛けるだけの自信があるわけでもなかった。でなければ、こんなに回りくどいアプローチをしてくる訳がない。
「岡さん、あなた本当に、米国側の腹を読み切っていますか?」
「どういう意味?」
「あなた自身、彼らがレールガン・シップを持ちたがらないかも知れないと、言っていたじゃないですか」
「えーと、それはね、レールガンとレールガン・シップは違うの。短期的に見れば、彼らが実戦検証されていないレールガン・シップを、自分たちの軍事システムに組み込む姿勢を見せることは、主に自国内向けに望ましくない問題を抱えることになる。米国内の防衛産業にとって、多額の国防予算が他国の企業に流出するなんて、悪夢以外の何ものでもないわ」
「ああ、六角グループは、彼らが今直ぐ買収するには、大きすぎますからね」
「でも、レールガン自体については、米国内にも、それなりの実績がある。まだ試作段階ではあるにしろね」
「つまり、うちの研究成果やノウハウを利用できれば、米国の企業にも、実用的なレールガンを製造できる。いやいやいや、それとF-35の供給が等価交換? 随分チープに値付けされたものだ」
「そうじゃないのよ。これは、日本の安全保障、核の傘や駐留米軍による防衛全体とのバーターなの」
「つまり、「言うことを聞かなけりゃ守ってやらない」ということですか?」
「そうね」
「そうすると、六角にその補償をするのは、米国ではなく日本政府ということになる。しかし政府には、支払い能力がありますか? うちの失う“利益”に対する補償ですよ」
「無いわね。そもそも、そんな名目の予算を提出すること自体不可能だわ」
「なら六角は、レールガン・シップは無かったことにして、損切りせざるを得ませんね」
当然岡女史は、それを承知している。だからこそ彼女は、俺を米政府側との対話の場に引きずり出し、俺と米側との問題にしようとしているのだった。




