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現在、自衛隊では『九一式携帯地対空誘導弾』の再調達が進められていた。
こいつは略称SAM-2(部隊内では“スティンガー”と呼ばれているが、米軍のFIM-92とは別物で日本製)、一セットの重量十七キログラム(弾体九キログラム)の携帯式防空ミサイルである。
陸自では、一九九一年度から二〇〇六年度の間にSAM-2が二百七十九セット、二〇〇七年度から二〇一一年度の間には改良型のSAM-2Bが七十七セット、合計三百五十六セットが調達されていた。つまり二〇一二年度以降は調達が停止されていたわけだが、それを生産再開させたのである。
その理由は言わずもがなであるが、人民解放軍の無人機対策だった。
九州以南を担当する西部方面隊の高射特科大隊で、近距離防空ミサイル・システム(SAM-3)が配備されているのは、第四師団の第四高射特科隊の第一高射中隊と第八師団の第八高射特科大隊指揮情報中隊及び第四二即応機動連隊本部管理中隊高射小隊、即ち二つの中隊と一つの小隊に過ぎない。
全国の他の陸自各方面隊でも大同小異であり、これではとても日本全土に散らばる基地を、ドローンの攻撃から守ることはできないだろう。だからと言って、個人携帯式の対空誘導弾の大増産と大量調達という発想は、素人が考えても泥縄式の対処以外の何ものでもなかった。
もっともこの九一式携帯地対空誘導弾(SAM-2)と九三式近距離地対空誘導弾(SAM-3)の弾体は、ほぼ同じ物である。
SAM-3のシステムは、SAM-2の弾体を転用して四連装箱型ランチャーに収納し、そのランチャー二基を、レーザーレンジファインダー・可視光トラッカー・前方赤外線監視装置からなる発射誘導システムを挟むように取り付けて、高機動車に搭載した物だ。一台あたりの装填数は最大八発ということになる。
またこのSAM-2の転用型は、OH-1観測ヘリの自衛用空対空ミサイルとしても用いられていた。二連装ランチャー二基を胴体両側の短翼ハードポイントに装備し、一機あたり最大四発が搭載可能である。
量産によるコストの低減が可能であるという理由から選ばれたと考えるのが、妥当なところだろう。ただ射程が約五千メートルの“可視光誘導+赤外線受光誘導”というスペックでは、NBC兵器搭載の無人機が侵入して来たらそれまでだ。
それにSAM-2は誘導装置などの操作が難しく、短期間の訓練では習熟困難だと言われている。専門の訓練を受けた防空隊員と機材管理が行える運用要員が必要なのだ。
いっそのこと、あの三十五ミリ二連装高射機関砲(L-90)でも復活させた方が、分が良いのではないかと思えてくるのは、俺の見方が偏っているのだろうか?
もう一度言わせて貰うと、どう考えてもこの発想は、平時の防空意識に基づいている泥縄式対処である。日本政府は、中共の人民解放軍がルーツとする不正規戦争、ゲリラ・諜報・破壊工作・心理戦・テロなどを通じた“非古典的戦争”に、対応できていない。
まあそれは、米国を筆頭とする西側先進国と、その追従者である日本のような国々が、共通して抱える問題なのかもしれなかった。そして中共という“遅れてきた大国”は、彼らが作ったのとは別のルールで戦うことにより、先に優位を占められた盤面をひっくり返そうとしているのである。
「衆院の安全保障委員会と参院の外交防衛委員会で連続して叩かれそうになったんで、防衛事務次官の古畑さんが、あわてて製造ラインの復活を、メーカーに承諾させたようですよ」
「承諾ねえ……」
「まあ、ねじ込んだというか、無理強いみたいなもんですね」
今度の一件は、防衛装備庁を飛び越して直接メーカーに持ち込まれたらしく、田中と甲斐のコンビも、高みの見物というところである。本当は頭越しに進められた話に、腹を立てているんだと思うが、相手が事務次官では異論など出せるはずがない。
俺は渡米する下準備に、防衛省の内情を確認したくて、二人を呼んだのである。ただ二人は技官なので、事務畑の細かい様子はキャリア組の岡地方局長にでも聞いたら、という感じで、だらけて酒を飲んでいる。
「私らは接待なんて受ける身分じゃないのでよく分かりませんが、こりゃ良いワインですね」
“東京の旅籠”と銘打ったそのフレンチ・レストランは、フランスで星を獲得した賄い宿で修業したというシェフが、六本木に開いた支店である。正面から見ると玄関にポルティコ(柱列で支えられた屋根のあるポーチ)風の浮彫飾りがある、三階建ての白い建物だ。
メニューは定番の塩漬け肉煮込みから、小皿、冷たい前菜、温かい前菜、魚料理、肉料理、アヴァン・デセール(プレデザート)、グラン・デセール(デザート)、珈琲、プチケーキである。前菜の鴨肉燻製とホタテ貝のポワレ、主菜の焼甘鯛のシュクルート、そしてデザートには白トリュフが添えられていた。これでワインを含めると、支払いは一人当り十万を超える。
無論そんな金額は、時間当りに増える俺の可処分所得に比べれば、些細なものである。どん亀に尋ねれば直ぐに教えてくれるだろうが、一年以上前から俺は、自分が利用可能な資産について、考えることをやめていた。
アヴァン・デセールにチーズが載ったトレイが出てきた。赤ワインのボトルを見せられたが、俺は上の空だ。
「で、社長、私どものような下っ端の技術官僚を接待して、何を得ようと考えているんですか?」
ちょっと絡み酒っぽい口舌で、甲斐牧人が言った。こいつも既に三十路間際、十年前だったらそろそろ職場の上役が、結婚相手を紹介している歳である。だが公務員でもこの頃は、そんなこともなくなっている。いつの間にか一生独身でも、誰も何とも思わなくなっているのが、今の日本だ。
まあそう言う俺も、金と何とかがあり過ぎて、結婚なんて、到底無理だが。えっ、“何とか”って何だって? 秘密だよ、ヒ・ミ・ツ。
……だから、俺には“秘密”がありすぎて、一番の理解者であるはずの桃花とさえ、家庭を持つなんて無理だ。俺が愛する相手を作ることが、その相手にとってどれだけ危険なことになるか、鈴佳という実例から俺はよく知っている。
現にこの場にも、桃花は居合わせていない。それは別に、俺がジェンダー無視の男尊女卑野郎だからではないのだ。まあ、俺が古い偏見を持っていないかというと、それはそれで自信は無いのだが。
「たまには君たちと呑んでみたくなった……では、駄目か?」
「またまた。社長が無駄なことを嫌っているのは、よく知っています。我々と親交を深めるためにだけ招待して下さったなんて言われて、信じられると思いますか?」
背が高いのに少し猫背で、ドレスコードを気にして着てきたスーツにも関わらず、オタクっぽい雰囲気を滲ませている田中慎之介は、もう三十代に入っている。ちなみに先からワイングラスを離さない甲斐の方は、ジャケットにチノパンとニットタイという、官僚らしからぬ身なりであった。
「よく言うな。じゃあ何で、のこのことやって来たんだ?」
チーズは無視でワインばっかり見ている甲斐が首を振る。俺のやって来たことは、産まれた時から無駄のオンパレードだよ。こいつは、何を見ているんだ?
「いやいやいや、拒否できるわけ無いでしょう。社長は、我々の“上”なんですから」
どん亀は今まで何人かの人間に、脳髄膜の内側の大脳皮質部への侵襲を伴う施術を行っている。これを『洗脳』と表現して『脳改造』と呼んでいないのは、それが誕生以来脳に書き込まれてきた人格の一部を書き換えはするものの、人格そのものの形を変えるものではないからだ。
そうする理由は複層的なものだが、表面的な効果は元の人格を保ったまま、どん亀由来の指揮命令構造に適合させ、服従を受容にさせるというものである。ただこのメソッドが、人体実験の繰り返しによって逐次開発されてきた関係上、その成果は施術された時期や対象となった人物によりまちまちであった。
ただこの『洗脳』は、その他大勢に施される『ギアス』と異なり、どん亀と対象者の間に専用の情報回線が用意されていて、必要があればどん亀はそれを利用できる。一種の監視装置と位置情報付きの識別タグを兼ねる“何か”らしいが、実のところ俺にはよく分からない。
似たような物は俺にも付与されているが、どん亀によると俺のそれは情報回線が太く(?)、双方向性がある点で異なるという。面倒なのは、この技術が『心話』の際のタグ付けに利用されていても、『心話』とは別物だということである。『心話』はあくまで地球の人類由来のものであり、俺とどん亀との間のそれは、両者のハイブリッド・テクノロジィの産物なのだ。
話が逸れたが、詰まるところ俺は目の前の二人の意思や人格に、直接影響を与えることなどできない。そもそも俺とどん亀との間では、『洗脳』の対象となる人間の原人格の大幅な書き換えはしないことで、合意ができているのだ。
誤解を避けるために言っておくが、その理由は別に感傷的(人道的?)なものではない。俺が社会に対して働きかけるための人材として考えれば、キャラクターの変更は有害無益だからである。
人格が大きく変われば、対象者が折角それまで所属するコミュニティ内に築いてきた人間関係や信用を崩しかねないだけでなく、対象者自身の能力を損なう怖れさえあった。
ただ俺とこの二人の間には、重要度の違いというか序列があって、“全体の意思決定”においては俺の判断が優先される。言ってみれば軍隊や何かにおける、階級のようなものだ。甲斐が言った“上”というのは、そういう意味である。
「ふーん。じゃあ聞きたいんだが、ぶっちゃけ防衛省内部では、今後のことをどう考えているんだ?」
「えーっ、それこそ岡さんとか、防衛政策局長の益田さんとか、事務次官の畑中さんに聞いたらどうです? 社長なら、お偉いさんにも色々伝手があるでしょうに?」
田中が、白いテーブルクロスの上に置かれた珈琲カップを見詰めながら言った。こいつは素面だ。そう言えば、あんまり呑んでなかったな。
「あー、官僚の偉そうなところとか、制服組の桜星が並んでる連中とか、大臣や議員さんとかじゃなく、内部の一般職員とか、制服なら士から曹あたりのボリュームゾーンが考えていることを、知りたい」
仕方ないので俺は、甲斐の方に話を振った。
「一般職や曹士の一般兵ですか? いやあ、私らのような下々は、自分の職分の仕事を考えているだけですよ。だいたい困るでしょう、兵隊が政治に関わっちゃ。二・二六とか五・一五みたいな事になりますよ」
甲斐も田中も技官だから、とても兵隊とは言えない。それで実は、こいつも呑んだ割に、あんまり酔っていない。二人とも、相当身構えているな、こりゃ。
「一般国民が“落とし所”を考えていないのは分かる。ほとんどの日本人にとって、中国は直ぐ隣にあるのに、最近“世界の工場”となって経済成長が目覚ましく、世界第二の経済大国になったからと軍拡に励んでいる、わけの分からない国というイメージしか、無いだろうからな。だけど自衛隊員は、有事には矢面に立つことになるんだろう?」
答えたくないというように甲斐は、ケーキフォークでカラフルなプチケーキを突いて、白い皿の上で転がしていた。仕方ないという表情で、田中が口を切る。
「社長のところの平社員が、会社の経営方針について頭を悩ませながら、毎日の業務に従事していると思いますか? それより先ず、目の前の仕事でしょう。我々も同じ、いや命令に従うという面からは、それ以上です」
「じゃあ、何にも考えてないと言うのか?」
「考えたとして、それにどんな意味があるんです? それは解放軍の兵隊も、同じはずです。まあ、どのみち現代では、国家間の全面戦争なんてできはしませんしね」
「台湾は?」
中共は、台湾を国扱いしてない。あくまで自国の一部だと主張している。二〇〇八年の南オセチア戦争では、ロシア軍はグルジアに侵攻し、南オセチアとアブハジアを分離独立させた。他国領への侵略だって、二十一世紀に事例があるのだ。
「中共が台湾海峡を渡れば、次は南西諸島だろう? 違うか?」
八重山・宮古の列島と尖閣は台湾島に近過ぎる。ここを放置して先に中共が南下するとは思えない。それこそが、沖縄に米軍基地が集中している理由でもある。




