◆202◆
俺は桃花の誘惑を、辛うじて退けた。どうも俺の膝頭フェチを見破っているらしい。俺の秘かな楽しみが……、まあ付き合い出してから二年以上続いているんだから、知らないわけないよな。とは言うものの、俺だって昼間っからのべつ幕なしに盛っているわけではないから、何とか抵抗することができた。
しかし桃花は勘というか、地頭が良すぎる。俺には大城は切り捨てられても、桃花は切れないと見定めて、心理戦を仕掛けてきた。俺を惑わし、翻弄しようとする。桃花の心は、どん亀にも読み切れないだろう。
どん亀が例の少佐を始末したのは、二子玉川にオフィスを構えた頃だ。俺が桃花を秘書室長に据えた時点で、過去に向かって身辺調査を行い、予防的措置として将来の危険要因を排除した。俺が知ったのは、事後報告によってである。両者の関係は、桃花が専門学校を卒業して就職する前に解消していたが、リスクを潰しておくことを重要視したのだろう。
これはまあ、言うなればマフィアのボスの愛人になったようなものだ。自分に関わった人間が、うっかり漏らした一言で、いつの間にか処分されてしまいかねない。普通の感覚の人間なら、そんなことがあれば、やがて耐えられなくなるだろう。
だが桃花は図太いというか、鈍感というか、よく分からないが平気に見える。それどころか、俺を試して、どこまで言うことを聞いてくれるか探ろうとしているのだ。
現代のこの世界は、男性支配の社会構造が続いているため見失われがちな事がある。いや、見えていても無意識に考えるのを避けていると言った方が正しいかもしれない。
それなりに見えている男でも、「女というものは、どう考えても理不尽だと思える要求を、時としてしてくる」という程度にしか認識していないことがほとんどだ。ここに“男女平等”という概念への誤認識がある。
ほとんど同じとは言え、男女は“同質”ではない。むしろ異なるからこそ、そこから生まれる多様性に価値があるのである。生物学的あるいは歴史的・社会学的な理由から、女というものは入力からして男とは異なるのであるから、出力が違ってくるのは当然なのだ。
ただこの世界での男女の力関係から戦略的に、女は無意識に己の真の判断の表出を控える傾向が強い。近年政界に進出しつつある女性政治家たちでさえも、表向きは“男性の論理”に従っている。政治の構造の中にいるからには、“女性の論理”を振りかざすことで、虎の尾を踏む結果になることを怖れているからだ。
だがそれを躊躇わない人間を、どう評価するべきなのだろうか? “この組織”での権力は、俺の圧倒的有利であるかのように見える。そもそもどん亀の存在自体、“何かある”としか知っていない桃花には、支配権を握ることなど不可能なのだから。
もしかすると彼女は、猛獣使いのつもりなのかも知れない。俺が“まともな人間”ではないと承知の上で、絡んで来るのだから。しかしそれは、目隠しをしたまま虎の背に乗るようなものだ。
いやどう考えても、操ろうとしているのだろう。昨日の大城由唯と王佳麗の一件だって、どの部分についてどれだけ本気なのか、俺には桃花の心を読み切れなかった。
本人は綱渡りをしながら、自分の目指すゴールに向かって進んでいるつもりなのだ。しかし俺には、そのゴールの持つ姿自体が時々刻々と変化し、桃花自身にも見定められていないように感じられた。
俺は大城を呼んで、王佳麗を亡命させるつもりがあるかどうかを確認した。俺にとって無理筋だと思えても、桃花が検討すべきと言うなら考えなければならない。
「亡命って、日本にですか?」
「日本じゃ中共に近過ぎるというんなら、米国でも良い。どうだ、彼女はその気になると思うか?」
これは王佳麗の正体を探る手立てでもある。もし彼女が、単に自分の利益のためだけに大城を引っかけようとしたのであれば、この誘いに応じることはないだろう。
亡命して二重スパイを務めるというのは、かなり難易度が高いタスクだ。専門的な訓練を長期に渡って受け、国家への忠誠心を叩き込まれたエリートでなければ、困難な任務である。
大城由唯と出会った頃の王佳麗が、単なるオフィスワーカーだったことを考えると、彼女がそんな高度な教育を受けているとは思えなかった。だから最悪でも、自分の立身出世や富を得るために、大城を利用しようとしていたという以上のことは、ないはずである。
ただ俺が、意図的な情報を漏らすための窓口として、大城由唯=王佳麗のラインを利用することにしたせいで、王は危うい状況に置かれる羽目に陥ったのだろう。
「佳佳は、上海を離れたがらないと思います。血縁も向こうにいますし、何よりあちらで成功するのが彼女の夢ですから」
大城の病み具合は、上司との対話で恋人を愛称で呼んでしまうレベルのようだ。
「それで、彼女が出世できるように、どんな便宜を図ってやった?」
「裏のルートで六角の製品のサンプルを流しただけです。それは秘書室を通して、決裁を仰いであります」
大城は確認して欲しいというように、桃花の顔を見た。
「ええ、社長の指示で承認を与えました」
「ああ、知っている」
六角産業のハイエンド製品は、製造ばかりではなく運搬段階のノウハウのハードルが高い。現在も実質的な独占状態が続いているのは、そういう理由もあった。
考えて欲しい。太さ数センチ、長さ数百キロメートルのロープを、数万本まとめ、互いに絡まないように運ぶにはどうしたらよいかを。メートル長のカーボンナノチューブの輸送に当たっての難易度は、それ以上である。
この問題の解答は二種類あって、一つ目は“運ばない”、つまり製造したその場で利用してしまう(材料として消費してしまう)というもので、最善の手法だ。次善となる二つ目は、複数の手法を状況に合わせて駆使し、“できるだけ絡まないようにする”というもので、言うは易く実行は難しい。
これがうちのハイエンド製品を航空機で運べない理由として、利用者である相手側企業に伝えられている説明だ。それをまともに利用できる企業が、限定されている理由でもある。
運搬するべき製品自体よりも、運搬容器や中の懸濁液及びその他の方が、重量でも体積でも、はるかに大きい割合を占めていた。それに加えて保管状態管理のための装置類も、別に必要なのである。しかも二次製品への加工にも、うちのサポートが欠かせない。
それは、うちの製品を密輸することが、実質上無意味だということでもある。うちの管理下で運ばない限り、期待する製品の性能が急速に失われることになるからだ。大城が流出させた製品サンプルも、うちの管理下を離れた途端に、ハイエンド製品“だった物”に成り果てたのである。
「結果として相手は、役に立たない製品サンプルを手に入れただけだ。それに、あれを分析しても、うちの製造工程のヒントなど得られない」
「ええ、それで彼らはその後、うちが関わっている防衛省関係の情報を探るよう、佳佳に指示してきたそうです」
「当局者が、直接彼女に接触したのか?」
「国家安全保障局だと言ったそうですが、本当かどうかわかりません」
「二十二局じゃないの?」と、桃花が確認する。
「軍関係者のように見えたと、彼女は言っていました」
「軍事委員会の下部組織かも知れないな」
「どっちにしろ、佳麗が国に残るつもりなら、あなたにはどうしようもないでしょ、由唯」
口調は優しいが、大城を見る桃花の眼差しは厳しかった。女同士のことは、俺にはよく分からんが(考えるの放棄)、これ、どう落とし前を付けるつもりなんだ?
新千歳空港に降り立ち、予約してあったレンタカーに乗った。二百四馬力のSUV車を選んだのは、北海道だからという単純な理由である。都心でジーゼル車を乗り回すような雑な感性を、俺は持ち合わせない。
一度新千歳空港から三十六号線に出て、ぐるっと廻り、航空自衛隊千歳基地の正門から入る。ここは官民の共用飛行場となっており、千歳飛行場と新千歳空港は誘導路でつながり滑走路も並行しているが、基本的には別の施設なのだ。
ただし管制業務は両空港を航空自衛隊の管制塔が一体運用していて、新千歳発着の旅客機への指示も空自の管制隊員が行っている。日本政府専用機の格納庫も千歳基地内にあったが、そこから五百メートル程離れた位置に、同じ大きさの新しい格納庫が完成していた。
格納庫に入ると、ろくに寝ていないらしく、色濃い疲労を顔に浮かべた大河内技官がそこにいた。明るい照明に照らし出された内部には、二機並んで大型のジェット機が収容されている。
片方は標準の薄青いカラーリングデザインから、AJA(全日本空路)のボーイング777-300ERとしか見えないが、もう一機の方は外装を剥がされて、大幅に改造されつつあった。
「やあ、お疲れさま」
「まったくです。今まで色々と無茶振りはされてきましたが、今回のようなのは初めてです。私企業からの軍用機のレンタルなんて、どう考えてもあり得ないでしょう?」
「仕方ないだろう。今の国会で、777二機分の予算なんて、通るはずがないんだから。まず間違い無く、邪魔が入って阻止される」
「それにしたって、自衛隊の装備品の所有権が民間の企業にあるだなんて、許されることじゃありませんよ」
「だから、その辺は、採用するかどうか“試験運用して検証するため”ということで、問題無いはずだ。そうでなければ、ベースになる機体がAJAから退役した中古機ということ自体が、問題にされるだろう」
ここにある二機はいずれも二〇〇七年に全日本空路に導入され、退役まで一貫してそこで運用されていた。飛行時間はそれぞれ累計で約六万時間、六千五百サイクル程度である。電子フライトバッグが初期に導入された機体で、機齢は十五年未満に過ぎない。
全日本空路の長距離機材早期退役プランにより、まだまだ現役で十分運用できるにも関わらず、モハーヴェ空港へ送られようとしていた。それを六角グループが引き取ったのだ。
当然大幅な改造が前提とされていて、外見は777-300ERの改装版だが、実際には機体の連結・支持構造から根本的に手を入れられている。改装が進んだ機体の、F-15J/DJと似たコンパスゴーストグレイに塗装された外殻にも、六角産業製のNCT素材が大幅に採用されていた。
何より特徴的なのは、コックピットの両脇からやや上の位置から、前方に突き出した二本の丸棒である。最大径一メートル弱のそれは、直線状に機体に沿い平行に、尾翼の位置より少し後ろまで延びていた。
「あの二本の“砲身”の間にある前方上空観察用の涙滴型天蓋は必要だったんですか? 丁度、射撃管制室の真上ですが、肉眼で照準が付けられるような代物ではないでしょう?」
搬入されたパーツは積層材料を一体成形した大型の物が多く、まるでプラモデルを組み立てるような具合に、改装作業は進められていた。
設計図を見れば、機内の上部(旅客機では客席が設置される階層)には前方から、操縦室、通信室、射撃管制室、戦域情報管理室、会議室兼休憩室、ギャレー、仮眠室、ストックヤード、電磁飛翔体加速システム、一時蓄電体、直接発電式核融合炉、姿勢制御補助システムが配置されている。下部(旅客機では床下にあたる貨物室部分)のスペースは、弾体庫と増加の燃料タンクでほぼ占められていた。
この改造された機体の最大離陸重量は三百五十九トン、燃料を最大の二百四十キロリットル(増加燃料タンク分の六十キロリットルを含む)搭載した場合の航続距離は一万八千二百九十キロメートル、必要な離陸滑走距離は三千五十メートルだ。巡航速度のマッハ〇・八四は、ほぼ時速千キロだから、計算上は十八時間近く滞空できることになる。
「どう考えても、このレールガン・シップを日本が保有するなんてこと、合衆国が認めるとは思えません。何しろサンフランシスコあたりまでなら、十分往復できますし、レールガンが標的とするのは、艦船や地上目標ということもあり得るわけですから」
「合衆国は、核兵器も大陸間弾道ミサイルも原潜も持っているじゃないか。いやそもそも、日本国内に基地を置いている時点で、余裕だろう。だいたい音速も出せない機体なんか、米国にたどり着く前に迎撃できないのか? 合衆国の防空を担う第一空軍の存在意義が問われるだろう!」
ウエルカムな雰囲気で迎えられることまでは期待していなかったが、会った途端こんな口論になるとはな。だいぶお疲れなようだ。
「そんなこと言っても、米国側が納得するとは思えませんね。それに“音速も出せない”話をすれば、中共やロシアだって、こいつを真っ先に狙うはずですよ」
「そのためにもF35が必要なんだよ」
「二十機や三十機では、到底足りるはずがありません」
そう言いながら、機体の改造に骨身を削っている大河内も、自己矛盾に陥っている。多分、防衛技官の性というやつなんだろう。どの国の軍関係者も、軍事力の強化という呪縛からは、逃れることができないのだ。




