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ベトナム戦争時の合衆国海軍は、北ベトナムのハイフォン港封鎖のため、一万個以上の機雷を航空機から投下して敷設した。中共人民解放軍海軍掃海部隊は、北ベトナムに派遣され、多くの犠牲を払いながらその港湾の掃海を行ったという歴史を持つ。
ところがその後の文化大革命により、この貴重な経験の蓄積と、装備の更新・近代化に必要な研究への意欲が、失われてしまう。そして現在に至るまで、中共海軍の掃海能力は十分再建されているとは言えなかった。
東海艦隊には、〇八一型渦池級二隻、〇八二型渦掃級八隻、〇八二-Ⅰ型渦蔵級二隻と、計十二隻の掃海艦艇が配備されている。ただこの内、現代的な前駆式機雷処分装置に対応している対機雷戦艦艇は、渦蔵級掃海艇の二隻だけだ。
「つまり、東海艦隊の掃海能力は、それほど高くないんだ」
「だから、今回のような事故は避けられないというのよね」
「いや事故と言えるのかな? 被害は、遠隔操縦式の無人掃海艇が二隻沈んだだけだし、掃海作戦としては想定の範囲内だろう」
「でも、それがネットの動画として世界中に流れてしまえば、保険料の高止まりは解消しないでしょう?」
中共側の意図としては、海域の安全確保のため十分な対策を取っていると、アピールしたかったのだ。虎の子の最新型掃海艇二隻を派遣し、掃海作戦が実施されるという情報が、日時と作戦海域まで添えてリークされている。
だから彼らは、これを掴んだどこぞの国の記者がチャーターしたヘリが上空に侵入しても、あえて阻止することをしなかった。ところがそのヘリの眼下で触雷があり、機雷処分システムの一部を成す五二九型無人掃海艇が、文字通り爆沈する。
人的被害などが皆無であった事もあり、東海艦隊側としては、通常の機雷処理の実務で掃海具の一部が失われたという認識しかなかっただろう。
だがその轟爆で巨大な水柱が上がった場面を、編集者が好素材と捉えネットニュースの画面に流してしまった。あまりにも派手なそのシーンから、世界一般が受けた印象は、この海域の危険性がまだ大きいということだった。
「中共だけの問題じゃないけど、何か、やればやるほど深みにはまっていく感じねぇ」
ちなみに、ヘリが近づいたタイミングを見計らって機雷を爆発させたのは、どん亀の仕業である。
で、俺が話している相手は、桃花だ。ペントハウスの居室でワイングラスを手に、お互いラフな格好である。俺だって私的な会話を楽しむ権利ぐらい、あるはずだ。
「実際、尖閣の問題については、出口が見えないというのが、各国の認識だ。一番被害を被っているのは中共と日本、それにあの、半島国家だ。あと、ロシアもかな?」
機雷を提供したのがロシアで、中共が敷設した。まあ、身から出た錆というやつだな。
「中共とロシアは自業自得よ。隣のあの国は、大丈夫かしら? 陸路では、一番の貿易相手の中共との間に、半島の北半分が挟まっているでしょ」
「後は海か空しか貿易路がない。だが海路は、ロイズ保険組合を怒らせているからなぁ……」
「日本のマスコミは取り上げてないけど、本当のところ、どうなっているの?」
「少なくとも、クレーン船の所有者であるS重工の弁護士と、あの国の検察・海事当局が共謀して計画したことは、確かなようだな。ロイズの力を甘く見たんだろう」
「つまり一方的な被害者は、日本だけ? 日本はいい迷惑ね。流通は太平洋側の海運でカバーしてるとは言え、日本海側の港湾には大ダメージでしょう」
「あのな桃花、これは戦争なんだよ! ……いや、すまん」
桃花の言葉が脳天気な気がして、ちょっと声が粗くなった。でも、日本国内の認識なんて、ほとんどがこんなもんだ。
桃花との身体的距離は近い。でも、これって“私的会話”と言えるのか? どう考えても、仕事関連だろう。ただ、会話に感情が出るのは、お互いの精神的距離が近いからだ。
幸いと言うべきか、六角グループの取引相手に、日本海側の国々は含まれていなかったから、直接的な影響は出ていない。しかし世界経済全体へのマイナス要因であることは間違い無く、日本にとっても無視できない問題だった。
「それで、今度鈴佳を合衆国に連れて行くっていうのは、どういう理由なの?」
今までの経緯から、そんなに年の差があるわけでは無いのに、桃花は鈴佳に対し保護者的な立ち位置を持っている。鈴佳の自意識は中学生程度にまで育っているので、最近ではそれを“ウザい”と感じ、反発している面もあるようだ。
まあ鈴佳はいまだに自立しているとは言い難い。持って生まれたものなのか、それとも記憶喪失による、零歳レベルからの二度目の人生で育まれたものなのか、鈴佳には他人に依存する傾向が見られる。
「顔つなぎというのかな、あっちの政財界への、梃子の支点として使うんだよ」
「へー、あの子も利用する気になったというわけ?」
「いつまでも、乳母日傘というわけにはいかんだろう?」
桃花がフッと笑い、「あなたが、それを言うとはね」と付け加えた。まあ、最初の頃過保護だったのは俺も認める。ただ、外見は大人だったとしても、出生直後の零歳児と違わない能力しか持っていなかった鈴佳を世間にそのまま曝すほど、俺は無慈悲でも無謀でもなかったというだけだ。
「ステファニィに婚約を迫られたそうだけど、そっちへの牽制?」
「まあ……、幾分かはな」
「彼女と寝たの?」
「桃花、ステファニィがお堅い女なのは、知っているだろう」
「合衆国人なのに?」
「それは間違った先入観だ。あの国のクリスチャンには、“結婚まで貞潔を守る”という考え方の持ち主が、かなりの割合でいるんだ。二十世紀後半からの、信仰復興運動の影響だよ」
ステファニィの祖父は熱心なカトリック教徒で、七十年代から始まったカリスマ運動の影響を受けている。彼がスペインで巡礼の旅に何年もの月日を費やしたのも、多分そのせいだ。
まあ要するに、私生活での彼女の身持ちはかなり堅く、色仕掛けで俺に迫るなんてことをするはずもなかった。
「ふうーん」
それとは真逆の女が目の前にいる。自分の欲望に忠実で、望むことを実現するためなら何でもする、とまでは言わないが、かなりの無茶なら許容するだろう。ただし用心深い性格でもあるので、本当に危険だと思う領域に踏み込む際には、念入りな下準備を怠らない。
「ねえ、君嶋さんが、“サテライト・オフィスで動かしている無人機は、単なる作戦補助機じゃあない”って言ってたけど、本当はどうなの?」
「どうって?」
「偵察や中継、補給のためだけの船にしては、出口さんたちの入れ込みようが納得できないのよね。それに、うちが実際に投入している資金も、先行投資では片付けられない規模だわ」
「なるほど、キャッシュフローを調べて、不審に思ったのか」
「不審なんて、それを言ったら、六角グループの事業なんて、不審なことだらけでしょう? 辻褄を合わせるのに、私がどれだけ苦労していると思うの!」
国内の表向きの事業では、桃花の言う通りだ。会計事務所や官庁との遣り取りは、ほぼすべて彼女を経由していた。
ただしそこも、裏ではどん亀がリスク管理を行い、手落ちが無いようにしている。ダブルチェックして危険な兆候が現れれば、非合法な手段を活用してもみ消すこともあった。
看板である六角グループは氷山の一角でしかなく、どん亀の動かす組織の実態を隠し、世界に働きかけるためのアウトプット=インターフェイスに過ぎない。
「六角さんて、工場長だそうだけど、その“工場”って、どこにあるのかしら? あ、私が言っているのは、山梨にあるアレのことじゃ、ないわよ」
「ふーん、山梨のことはどこで知った? それに何で、今まで聞かなかった?」
「場所は、トライデント社の資料から。少なくとも、あそこが出荷場所の一つであることは、トライデントも確認している。でも、どう考えてもフェイクでしょ。今まで聞かなかったのは、命が惜しかったから。これで良い?」
じゃあ、命が要らなくなったのか、とは俺も尋ねなかった。きっと鈴佳の件から、直ぐに処分してしまわない程度には、俺が桃花に情を抱くようになっていると踏んだんだろう。
危ない綱渡りだとは考えなかったのか? それとも、命を賭けて俺を試す気なのだろうか? 女は分からん。
「それを含めての、桃花の今のポストだ。分かっているだろう?」
「ええ。でも私、今の関係では、満足できなくなったの」
革製のカウチソファーの上の俺に、のし掛かるようにして迫りながらそう言う桃花には、ある種の迫力があった。だが内心は、どうなんだろう?
ひょっとして、ステファニィからの婚約話が、切っ掛けになったか? 桃花からのアプローチの方が俺には好みだが、それにしても俺って、甘くみられているのかなあ?