◆193◆
俺とコーリー副大統領の間に何があるのかと追及しようとする岡女史を適当にあしらいながら、俺は内心かなり落ち込んでいた。いや、反省していたという方が正しい。
最近の俺は、どん亀と直接心話で意思疎通することを、怠っていたのである。それは奴のアバターを通しての会話の方が、能力不足の俺にとって明確で分かり易く感じていたからだ。
だがそれは、俺がそのリスクから目を逸らし続けてきたということである。どん亀の本心(?)を知ることより、自分の無力さから逃避することを優先していたのだ。そこから生じてくる問題への取り組みを、よく考えもせず先送りしてきたことに他ならない。
取りあえずは何の問題も無いように見えていたなどという弁解は、通用するはずもなかった。現に今、どん亀が俺の予想外の行動を取っているという現実が、目の前にある。
俺の知らないところでどん亀は今後の世界戦略に関する重大な意思決定を行い、俺の見ていないところでそれを実行に移していた。それが俺の今後にとって良かれとしてであるとか、結果としてオーライだろうとか、そんなことは関係ない。
「ねえ、岡田さん、どうしたの?」
おばちゃんが俺の顔を心配そうに覗き込んでいる。当然のことだが俺は、防衛省キャリアである彼女の心の内を、見掛け通りに受け取ったりはしない。このタイミングで副大統領に呼び出された俺から、何等かの情報を引きだそうという前提でのアプローチに違いないからだ。
「中共側は、どう動くと思いますか?」
「うーん、そうねぇ……あたしは外交の専門家じゃあないし、全くの個人的見解でしかないけど……」(嘘つけ! そんなわけ、あるか!)「取りあえずは、何にもできないんじゃない?」
「できない?」
俺はその言葉をどう受け取って良いのか、判断しかねて聞き返した。
「あの国も一枚岩というわけでは当然ないからね。あれだけ図体が大きければ、当たり前でしょう? いくらあの国のトップが、説明責任の無い専制指導者のように見えても、これだけのトラブルを抱えていて、フリーハンドが持てるはずないもの」
「軍部が、弾けて暴走するってことは?」
「あの国のトップが今、一番警戒しているのがそれね。全力で押さえ込みにかかっているはず……」
逆に言うと、かっての大日本帝国の関東軍のように、中央の方針を無視して事変を引き起こす可能性もあるわけだ。
「現在の主席の基盤である紅二代派は、必ずしも軍に十分な地位を築いているとは言えないのよ。まあ台湾と直接対峙している東部戦区、それに南部戦区には、特別の配慮をして優遇しているから、簡単に中央と対立するようなことはないと思うけどね。ただ、あそこの軍部は、上海閥と根強い繋がりがあるの。中共の軍部というのは、地域に根差した公営企業の側面もあるし」
「あー、“一つの中国”政策のせいで、最近は香港・マカオの経済的地位が低下し、南部も上海の方へすり寄っていると聞きます」
「上海閥は、歴史的に米の民主党との繋がりが深いから、香港は昔のままにしておきたかったのよ。経済的に見れば彼らにとって、どう考えてもその方が都合が良いでしょう?」
中共の財界にとって、経済的繁栄を継続し、更に成長するためには、平和の方が望ましい。だが急速に高齢化社会を迎えようとしているあの国で、慣例を破って現主席が最高指導者として三期目の続投を得るためには、『中国の夢』を語り国民の支持を取り付けなければならなかった。
だが、その『夢』のために求められる“国家”への奉仕と犠牲は、今日の繁栄をもたらした社会主義市場経済システムと、相反する側面を抱えている。彼が自らの神格化を進め、“皇帝”となることを目指しているという批判が生じる理由でもあった。
「とにかく日本が“そんなもの”に巻き込まれるのは避けたいもんです。あの国が持っている『皇帝』のイメージを考えると、目指しているのは、かなり“重い”帝国のようですからね」
中華の思想では、世界は中華皇帝の威徳に服する文明圏と、それ以外の夷狄(蛮族)の領域に分かたれ、最終的には全世界が中華文明の元に同化(浄化?)されることが“正しい”とされている。彼らが新疆・チベットで実行しているのが、この思想に基づく政策だ。
俺としては、この政策は将来的に破綻すると思うが、それまでに巻き込まれる国や民族にとっては、堪ったものではない。そういう意味でも、世界は甘くないのだ。
在米日本大使館は、ワシントンDCのマサチューセッツ通り二五二〇番にある。白っぽい御影石造りの建物で、インド大使館と大韓民国大使館に挟まれ、ロック川の河畔に位置していた。
本館と地域領事館の間にある駐車場にリムジンを入れると、岡女史が窓から顔を出して警備員に何か言った。何でも本来ここに駐めるには、予約が必要なのだそうである。
「岡田さん、できれば大使に紹介したいから、一緒に来てちょうだい」
「いや、そんな必要は……」
「いいから、急いで」
前に俺がこの国に来て、ランフ大統領から圧力をかけられた時、この国に駐在していた外務官僚たちは、自国民であり納税者であるはずの俺を守るため、指一本動かそうとはしなかった。だから俺は、彼らには良いイメージを持っていない。
現在の在米特命全権大使である佐々田邦彦は、東大法学部卒の外務省キャリアであり、英国への語学留学後に外務省内局勤務、欧州、中東、大韓民国の大使館勤務等を経て内局へ戻り、大臣官房で参事官、審議官を務めた後、三年前から現職に就いている。
外務省では、この駐米大使という地位を、他の省ではトップポストとされる事務次官経験者が務めるという慣行が、長く続いていた。つまりある意味外務省キャリアにとって、駐米大使は外務事務次官と同等以上の職ということになる。
二十一世紀初頭の外務省不祥事により、十年間ほどの間この慣行は崩れたが、それでも省内の主要ポスト経験者が就任するという状況は、依然として続いていた。
だから、現大使の佐々田は本国外務省主流派とズブズブの関係にある。あの件でも、本省からの指示で動けなかった等という可能性はないのだ。多分自分の経歴に傷を付けないよう、保身に走った結果なのだろうが、この人物に俺が好意を抱く理由など、無いわけである。
岡女史に半分拉致されるようにして俺が引っ張り込まれた大使公室には、見知った大河内技官の他に、数名の男たちがいて、何やら話し合っている最中だった。
黒っぽいスーツを着た一番年嵩らしい男が、佐々田大使のはずである。恰幅が良く、髪には白いものが混じっている。ここ数時間で何があったのか、その表情には疲労の色が濃かった。
金のダブルボタンで袖にモールを縫い付けてある黒の軍服を着ているのは、海自の防衛駐在官。その隣で、上着を脱いでネクタイを緩め、テーブルの上の書類に目を通しているのが、岡女史と共に防衛大臣から米国に派遣されてきた、防衛政策局長の益田という男である。
「やっと来たな! 岡くん、君から一報があった通り、南シナ海で核爆発があったというのは本当らしい。さっき、本省からも連絡が入った。それで、コーリーは君に、何と言ってきたんだ?」
「副大統領と話したのは、この人です。あたしは、オーツ補佐官から聞いただけです」
「ん?」
大使は不審げな眼で俺を見る。それから周りを見廻し、正体不明の俺にこんな外交上の機密事項を知らせて良いのか、確認を取ろうとした。こいつは空気を読むのを先ず優先する、典型的な官僚だな。
「岡田さんは六角グループの総帥ですよ」大河内が、簡単に俺を紹介した。
俺は世間に顔を出すのは極力避けている。だから佐々田が俺のことを、「こんな若造が?」という眼で見たのは仕方なかった。おまけに最近は、マスコミに巣喰うとある連中のせいで、六角の評判はあまりよろしくない。
六角産業は国内業界でも、新世代の工業材料メーカーとして、次第に名前を知られるようになってきていた。だが、うちの生産物はあくまで生産基礎素材であり、一般消費者の眼に直接触れるような製品ではない。だから取引が世界規模に大きくなっていても、六角産業がどんな企業なのかについては、世間にあまり認識されていなかった。
ところが海外との取引が拡大し収益が上がるに従い、財界やマスコミに尻尾を振る底の浅い“いわゆる有識者”の中に、六角産業を「必要以上に利益を貪る悪徳企業」呼ばわりするものが出てきていた。彼らに言わせれば、「原材料費から計算して、六角産業の製品価格は、暴利以外の何ものでもない」のだそうである。
確かに、六角産業の主要製品の原材料は、ほとんどカーボンであり、地球上で最もありふれた元素の一つだ。ぶっちゃけ、火力発電の排気から回収すれば、非常に安価に入手することができる。
ただし彼らの主張には、我が社が生産している“非常に高度な製品の研究開発費”については、全く考慮されていなかった。(この際、その“研究開発”がどん亀だよりだったことは無視する)
もう分かると思うが、この論説を垂れ流している連中は、知的財産権や特許権等の背景にある産業財の開発コストの問題をあえて無視していた。先行者の開発に費やした労苦や費用を顧みず、自己の利益を貪ろうとする剽窃者の一味なのである。
こういう連中には中共から各種の利益誘導が成されていた。世界の強国を自称しながら、自国に都合の良い場面でのみ発展途上国としての優遇を求めるあの国と彼らの相性は、間違い無く良いのだろうと思う。
六角産業のほとんどの製品は、今では経済産業省の安全保障貿易管理制度による規制リストに載せられ、旧共産圏やその他の“危険な”国及び団体に流れることがないように規制されていた。それがあの国の反感を買って、彼らの走狗たちの標的となっているという面もあると思う。
「六角さんねぇ……」と、胡散臭いものを見る眼で佐々田大使。こいつも、一般に流布されている六角産業のイメージに毒され、色眼鏡で俺を見ているのだろう。いや俺だって、こんな所にはいたくないよ。
「岡さん、大使はこの場に俺がいることを、迷惑がっているじゃありませんか。だから来たくないと言ったのに。じゃあ、失礼しますよ」
厄介なことに巻き込まれる前に、俺は尻をまくって退場することにする。
「困ります、岡田さん!」しかし、岡女史に回り込まれてしまった。「大使! この非常時に、何をボケたことを! しっかりして下さい!」
随分な言い様だが、大河内技官によると、岡女史は佐々田が前に在米日本大使館公使を務めていた十年ほど前、一等書記官として同じ職場にいたらしい。防衛駐在官ではない、防衛省からの出向である。二人がどういう関係にあったかは、想像するしかない。
「……しかし、岡君……」と、まだ煮え切らない大使を、ひと睨みで押し切った。おばちゃん、あんた何者?
俺が大河内と話している場所へ、袖に一等海佐の階級章を付けた男が近づいて来た。海自の防衛駐在官で、南シナ海の件で相談に乗れと、大使に呼ばれていたようである。
「岡田さんは副大統領と何を話されたのですか?」と、軍人らしく単刀直入に聞かれた。
「核爆発とは別件です。個人的に話された内容ですので、お話しするわけにはいきません」
合衆国の大統領が中共と個人的な利益のために通じているとか、副大統領と側近たちが彼を辞職に追い込もうとしているとか、危険過ぎてこの場で話せるわけがない。しかもそれに“聖女”や“奇蹟”が絡んでくると言ったら、正気を疑われるだろう。
「しかし岡さんも言ってましたが、これは非常事態です」と、大使に何か言い含めているおばちゃんをチラ見し、「そこを曲げて話して下さるべきでしょう」
「俺はたまたま副大統領との伝手があったので、岡さんを紹介しただけです。その個人的な信頼関係を失うようなことを、すると思いますか?」
俺は商売人だぞ、おい。利の無い話に乗るわけがないだろう。
「しかし、副大統領と直接話したのはあなたで、岡さんではない」
「顔を繋ぐ以上のことは約束していないし、できもしませんよ。結果としてオーツ補佐官から今回の情報を得られたのだから、それで十分ではないですか?」
「いや、ちょっと待って下さいよ、社長。F-35Bの件はどうなります? そのために来たんでしょう!」
ここで大河内が口を挟んできた。それは俺も気になる。そっちの案件は、今回の件で一層きな臭くなった日本周辺で、必要性が更に増している。
「いくら副大統領でも、二十機もの枠を、優先順位を崩して日本に廻すのは無理だろう」
益田局長までが側へ寄ってきたところで、俺のスマホがウィーンと振動する。ステファニィからだ。
『ねえ、英次。今メルと話しているんだけど、あなた、こっちへ来てくれない?』
『メル?』
『ハーイ、エース、メロディよ。トゥは元気?』
電話口に出たのは、メロディ・ランフ。夫と二十八歳差の、大統領夫人だった。




