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俺が助かったのは、緊急医療用のナノマシンを、どん亀が投入したからだ。出血を止めるため組織の再生が優先され、俺は意識を失った。
コーリーはまだ、あれが狂言だったのではないかと疑っている。ただ、それを追及することは賢明ではないと判断しているに違いない。この件が下手に炎上した場合、彼にとって何のメリットも無いどころか、藪蛇になりかねない。
どん亀が干渉したせいで、SNSでの評価は揺れていた。「#神の光」や「#奇蹟の再生」「#血塗れのラザロ」「#聖女様」等々が飛び交い、訳が分からなくなっている。
一見していかにも胡散臭い内容で、二度見ても三度見ても、やっぱり胡散臭いのだから、これは仕方ない。
曰く「撃たれて死んだはずの男が蘇った」、曰く「聖女が手を添えると、聖なる光がその男の顔を包んだ」、曰く「血の海の中から、亡霊が罪人を告発した」、等々。
やむを得ないことだが、あの場に居合わせた人間から、いくつかの動画や静止画がネットに流出した。ただしそれらの一次資料から俺を特定できるような部分は、どん亀の干渉によって、巧妙に明瞭度を落とされたり削除されたりしている。
つまり、多くの人間が目撃したというこの事件の“被害者”を探そうとすると、見えない壁に突き当たるのだ。その内メディア関係者の中からは、本当に“亡霊”なのではないかと言い出す人間まで出てきた。
だから数日後にコーリー副大統領から、副大統領府のあるアイゼンハワー行政府ビルに、招待という名の召喚を受けた時、俺は首を傾げざるを得なかった。彼が今更蒸し返す気になった理由が、思い当たらなかったからである。
それで俺は、あの岡寛美女史にあえて声を掛け、このご招待に応じることにした。
ちなみに彼女はあのスプラッターな体験の後、副大統領のスタッフから個人的に口を噤んでいるよう、要請され、肩をすくめて受け容れたそうである。そこにどういう取引、あるいは貸し借りがあったのか、俺は知らない。あの体験が彼女には刺激が強すぎたせいで弱腰になったのかと、その時は思った。
俺は退院後に桃華たち三人に、心配かけたからと散々に責められ、病み上がりだといくら言っても、許して貰えなかったのである。女性陣にとっては、相当ショックだったということだろう。
ところがどっこい、この五十四歳のおばちゃんは、俺が考えていた以上に強かだった。流石はT大法学部卒の、在米大使館での駐在経験もある国際派、遣り手の防衛省官僚だけある。俺に対しても借りを取り立てる気満々で、直ぐさま「ご一緒します」との返事が返ってきた。
しかしコーリーの方は、絶対に彼女の同席を認める気が無かった。俺が彼女を紹介した途端、彼は国防担当の補佐官を呼び、別室で話し合ってくれと言い渡す。つまり体良く追い出された訳だ。
まあ、副大統領に紹介するという約束は果たしたからな。俺の彼女に対する義理は果たした。それにしても自国民(俺のことだ)の保護を口実に同席しようとする相手国の役人を、断固として拒否する彼の態度には驚かされる。
「それで副大統領、私に何の御用です?」
「君には説明する義務があると思うが」
いや訳も分からず、そんな不機嫌な顔を見せられてもね。
「何のことです?」
「あれだけの大騒ぎを起こして、弁解する気は無いのかな?」
「大騒ぎ、ですか? 生憎、シークレットサービスのダイブで下敷きになった後のことは、記憶があやふやなのです。多分、意識を失ったせいだと思います」
あいつに押し潰されなければ、あれほど出血することもなく、ちょっとした軽傷で収まったはずだ。
「私は、FBIを通じてあの事件の法医学分析を秘密裏に依頼した。あそこに残っていた大量の血痕からは、君が運ばれた病院で採血した君の血液と同じDNAが検出されたそうだ。現場を調査した鑑識官から、失血死しても不思議は無い量の血液が流されていたという報告もある」
「ほー、そうですか?」
やっぱり俺は死にかけたらしい。それで責められるのは、理不尽だろう。
「犯人の持っていたポケットモデルM一九〇六の線条痕は、発見された弾丸の線条痕と一致した。だから実弾の発砲があったことは間違い無い。パワーの無い小口径の銃弾が貫通し、しかも大量に出血した理由は、たまたま当たり所が悪かったのだろう。そういうことは、時々あるそうだ」
「なるほど」
「当局が押収した君のズボンを調べた鑑識官は、直ぐ死ななかった所を見ると、弾丸が大きく縦に大腿静脈を傷つけたのではないかと言っていた。いずれにしても、大怪我のはずだ。にもかかわらず、私の目の前にいる君はピンピンしている」
この数日間連絡が無かったのは、あの状況を徹底的に調べるのに時間が必要だったからか。防弾ジャケットについては、六角の正社員なら全員共有している知識だ。だからあの騒ぎの後、桃華がさり気なく回収してくれていた。
だが血塗れになり、現場に駆けつけた救命士によって斬り刻まれたズボンまでは、流石の彼女も持ち帰る気にならなかったのだろう。
「救急車に乗っていた救命士は、外傷性失血によるショック症状という判断で輸液を行い、搬送先の医師に引き渡した。傷が小さい場合極希に、傷口が一時的に塞がるケースがあるので、それだと思ったそうだ」
「ああ、じゃあ、それじゃないかな? 偶然、傷が塞がって、そのまま治った」
無理も無いことだが、この答えは、コーリーのお気に召さなかったようだ。又もや眉を顰められてしまう。俺も無理があるのは承知の上だが、他にどう言える?
「不自然だとは思わないのかね? “たまたま”だとか、“極希に”が多すぎる」
「それが俺の責任だとでも?」
こうなったら、開き直るしか無い。まさか、どん亀に助けられたとは、言えないからな。
「君が、手の込んだ騙しの手口で私を陥れようとしているとしか、私には思えない」
「ジョー、あなたが何を疑おうと、それはあなたの自由だ。だが、あなたを騙して、俺にどんな利益があるんだ?」
ジョーと呼んでも良いよね。何と言っても俺は、あんたの命の恩人だ。
「それが見つからないから、今ここに君を呼んでいる。全くの、プライベートにな」
「プライベート? 合衆国のナンバー・ツーにそんなものがあるとは、驚きだ! この部屋が盗聴されていることに、百対一で賭けても良い」
「盗聴には裁判所の許可が必要だ。私は合衆国の市民権を持っているからね」
それは合衆国民であるあんたの合意があれば、外国籍の俺の了承は必要ないって事じゃないか。こいつ、ロースクール出の法務博士様だったな。つまり、嘘はつかなくても騙すのはありという訳だ。
「この場の遣り取りが盗聴されたり記録されたりしていないと、神掛けて誓えますか?」
「神の名は、みだりに口にすべきではない」
「ジョー!」
俺はコーリーと睨み合った。奴は目を逸らさず、黙っている。
「ジョー、命懸けで暗殺者の前に立ち塞がった者への報酬が、これですか?」
しばらくして、副大統領は視線を落とした。それから内線で誰かを呼び出し言った。
「ケビン、これから私が次に指示を出すまでの間、モニターすることも録音することもするな。いいか、盗み聞きしたりするんじゃないぞ!」
「しかし、副大統領!」
「私の指示は理解したな!」
「……分かりました」
ケビンという男は絶対納得していないだろうが、その辺はどん亀が何とかするだろう。俺はコーリーのデスクから離れ、四つのアームチェアに囲まれたテーブルの方へ移動した。
「座っても?」
「ああ」
「何故そんなに俺に突っかかるんですか? 詐欺師だと思うなら、関わらないのが賢いと思いますがね?」
またしばらく黙った後、コーリーは溜め息をついて話し出した。
「今の大統領には敵が多い。と言うより、敵を作りまくって生きてきたような人物だ。まあその分、有権者のある層には人気のあるキャラクターで、単なる企業家としては問題無いと言えるかもしれないが……」
合衆国大統領としては、非常に非常に問題のある人物だな。だが、共和党は民主党から政権を奪うために、あえて彼を選んだ。側近を堅実なベテランで固めることで、彼をコントロールできると考えたのだろう。
「その人気にあやかろうと、そんな人物を大統領候補にしたのは、あなた方共和党でしょう」
自分が一番大好きで目立ちたがり屋な強突く張りを大統領にまで押し上げたのだから、自業自得といったところだろう。
「それを否定しようとは思わない。ただ政府の中にも、彼に好意的でない人間は当然いる」
「ミスター・ランフは、単にアクが強いだけとは言えない人物ですからね。むしろ身近にいる者ほど、上手くいかないのではないですか?」
「ああ、彼はイエスマン以外は敵対者と見なし、徹底的に攻撃する。特にその相手が、彼にとって不都合な真実を指摘しようものなら……」
「その大統領に敵対視された人物というのは、ひょっとしてFBIの中の誰かですか?」
「そうだ。調査結果を彼に握り潰されそうになったので、私の所へ持ってきた。非常に拙いことに、中共が関わっている。だいたい私を暗殺しようとしたのなら、何故二五口径なんか使ったのかと、最初から疑問に思っていたんだ!」
「あなたが負傷しても、死なない方が都合が良かった。そして、中共が関わっていることが、知られても構わなかった」
コーリーが口を引き結び、頷いた。多分この話をするに当たって、冷静であろうと、何度も自分に言い聞かせていたのだろう。さぞ腹立たしいことだろうに。
「先月の会談で大統領は、穀物輸出に付随する陰のオプションとして、私が次期大統領候補としての指名を受けられないように中共が“工作”することに合意したそうだ」
現在の中共国家主席は、副主席だった十年余り前に欧州五ヶ国を公式訪問したことがある。当時は中共からの投資やこの巨大な市場の開放を期待する各国から厚い歓迎を受けたものだが、その後南シナ海への海洋侵出や海と陸の一体一路構想など、覇権国家を目指す中共の横暴な行動が露骨になり、両者の関係は悪化していた。
ところがこれを逆手に取ろうと考えたランフ大統領は、同盟国であるはずの欧州各国首脳の裏をかき、秘密裏に中共と接触している。いかにもスタンドプレイ好きの彼らしい判断だ。
先月の会談とコーリーが言うのは、インドネシアのフローレンス島で開催されたG20の期間中に電撃的に行われた、米中トップの話し合いに違いない。
ランフはそこで、中共から自国有利の条件での穀物輸出(中共にとっては輸入)契約をもぎ取ったことを、自分の票田である中西部の穀物地帯の有権者に対しアピールしていた。だがそれは表向きの内容で、さらに裏があったと言う訳である。
「そんなことが可能なんですか?」
「偶然その場には、こちら側の通訳が居合わせていなかった。短時間だったが、大統領と向こうの主席、それに中共側の通訳だけだった」
「ということは、それをリークできたのは中共側だけですね」
馬鹿なランフも、塡められたということだ。
「伝統的に、共和党は反共反中だ。これを知ったら多くの党員が、奴を大統領として認めない、いや弾劾しようとさえするだろう」
「だが、あなたはそれを望まない」
疑問符は無しだ。感嘆符をつけたいが、それも無しだ。俺はコーリーの心中を慮った。
「そんなことになったら、共和党はズタズタだ。それだけでは済まない。大統領が副大統領の暗殺に荷担したと言うことになれば、合衆国という国家自体がバラバラに分裂してしまいかねない。中共の思う壺になる」
昏い瞳で絞り出すように、独白半分の口調だった。
「だからあなたは不本意でも、自分の謀殺を示唆した人物を、あえて擁護しなければならないという訳か。巧妙だ! 実に中華の好みそうな遣り口ですね」
「あの男は目先の利益、自分の権力に眼が眩み、祖国を破滅の淵に追い遣ろうとした。この報いは必ずどこかで受けさせる」
「だが、それは今ではない?」
コーリーが俯いて頷く。どうやら、俺から尋ねなければならないようだ。
「それで、何で俺を呼んだんです?」
コーリーは一瞬口を噤み、俺を睨み付ける。それから苦しげな表情でその言葉を口にした。
「君の聖女様を、私に貸して欲しい」




