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運用試験を経て、すでに実戦にも投入されている中で、様々な問題点が指摘され、一部からは欠陥機とするネガティブな声も聞かれるF-35戦闘機であるが、西側で製造され新規に配備される年間の機数では、現在圧倒的なシェアを占めている。
ロシアや中共といった旧共産圏以外で現在生産されている戦闘機(ロッキード・マーティン・F-35、F-16、ボーイング・F-15E、F/A-18E/F、ダッソー・ラファール、ユーロファイター・クレペンE)は、年間二百機余りが生産され、各国に引き渡されていた。
まだ低率初期生産段階にあるにも関わらず、今年度のF-35の予定生産数は百七十機を超えるという。世界各国からの受注済みの機数は既に三千機を突破し、最終的には五千機に達すると予測されている。
何が言いたいかというと、要するにF-35は人気商品なのだ。しかも今のところ生産数の半数以上が、合衆国の空軍・海軍・海兵隊に納入されており、発注済みの各国への分も目白押しである。
だから今年度中に二十機のF-35Bを日本が獲得するなどという話は、米国側にしてみればジョークの種としか受け取れない空理空論であり、無理難題なのである。
にも関わらず二十機分の購入予算二千八百億円、米ドルにすれば二百五十四億ドル余りが、補正予算案として日本の衆院を通過した。このことを聞いた、米国駐日大使が耳を疑ったのも無理はない。
何よりもこの件については、外務省からの事前の折衝が一切無かった。頭越しの交渉があったのかと、慌てて本国に問い合わせても、それらしい形跡は見当たらないと言う。
しかしである。米国側がこの商談を無視し、対外有償軍事援助によるF-35Bの譲渡など認められないと断ったとしよう。事前の打診さえない一方的な案件なのであるから、道義的にも米国が日本の要求に応じる必要などありはしない。
万が一そうなったら、この二百五十四億ドルの予算は宙に浮かざるを得ない。米国の重要な(?)同盟国である日本の与党政権の足元が揺らぎかねない事態である。
正直言ってこの国は今まで、世界で最も素直に米国の言うことを聞いてくれる、優等生の同盟国だった。
欧州の第二次世界大戦敗戦国である独伊と比較しても、かなり不平等な在日米軍との地位協定にも文句を言わないし、駐留経費も約七十五パーセントを負担している。しかも負担率が米国の駐留している各国の中で一位というだけでなく、金額も五十六億ドルと二位のドイツの三倍近い。
日米安全保障条約に一方的に依存し、ずっと自主外交に消極的だったばかりでなく、米国主導のいくつかの戦争で国内米軍基地からの出撃を黙って認めるという、都合の良いゆるゆるの“おともだち”なのだ。
しばらく前まで“専守防衛”とかいうお題目を唱え、自国の軍隊を自国領内に引き籠もらせていた手前、軍事面でそういう扱いになるのも、致し方ないことだろうと大使も見なしていた。
経済面では多少の駆け引きを仕掛けて来る場合があるにしろ、それも二国間のルールに則った当たり前の綱引きであり、米日関係が決定的に拗れることが無いよう、官僚同士の事前の調整で落とし所を見つける配慮が常になされてきた。
というわけで、半年前に赴任した駐日米国大使ウィリアム・ライオネル・アガティは、突然突き付けられたこの難問を前に、どんな解答を書き込んで良いのかと、困惑するばかりだったのである。
「日本は、一九九〇年代初頭の湾岸戦争での海自の掃海作戦、陸自のカンボジアへの国連平和維持活動参加以降は、陸海空の自衛隊が海外にも派遣されるようになってきたが、直接の戦闘は現在に至るまで経験していない。そんな国が空母を実戦配備したとして、何ができるんだ?」
アガティ大使が画面越しに話しているのは、横田基地にある在日米軍司令官のケルビン・サンダース中将と沖縄の海兵隊太平洋基地司令官アーサー・パワーズ准将である。
専用の衛星回線で繋がれ暗号化されているこのビデオ会議システムは、本来覗き見などできないことになっている。しかし日本国内にある以上、当然どん亀の監視下にあった。
「大使も最近の世論動向はご承知のはずです。尖閣で中共はやり過ぎました。日本の議会が民意に突き上げられ、こう動くのは不思議ではありません」
サンダース中将が冷静な声でそう応えると、海兵隊のパワーズ准将も同意するように頷き付け加える。
「尖閣の動きに、米海軍が十分な対応を示して来なかった。その結果がこの暴走を引き起こしたと言って良いでしょう」
パワーズ准将は海軍の消極的な姿勢に批判的だ。あれだけの予算を得ているのに、単なる大食らいの木偶の坊かと言わんばかりだ。
「しかし彼らに、触雷のリスクを冒してあの海域に入れとは言えんだろう! 台湾海峡と同じとはいかん」
「むしろ台湾でできたことが、どうして尖閣ではできないのかと思いますが?」と、パワーズ。
「台湾の重要度に比べれば、たかが無人の岩礁だぞ!」
「大使は経済的な視点にウエイトを置かれているのだと思います。しかし軍事的には同等、あるいはそれ以上です。あそこが南沙のように基地化されれば、台湾や沖縄に対する軍時侵攻のリスクが跳ね上がります。日本本土が危険に晒されると言っても過言ではありません」
第五空軍の司令官でもあるサンダース中将は、前々代の大統領の時に経済顧問を勤めたとは言え、軍事には疎いと思われるアガティ大使に説明口調でそう話す。
「中共がそんなことするものか! デメリットばかりでメリットは無い!」
「日本の国民がどう感じるかが問題です。議会での動きは、日本国民の不安から出たものですよ」
在日米軍司令官として、特に軍事に関する日本の国情には気を配らざるを得ない。大使には事前に注意喚起の報告を送っていたのに今更だと思っている。
「しかし、F-35Bを二十機だぞ!」
「戦力とするには妥当な機数でしょう。メンテナンスのことを考えれば、稼働率は五十から六十パーセントの間ですから。それでも中共のJ-20よりマシですが」
パワーズの発言は純粋に軍事的な評価から出たものだろう。J-20はここ三年間で二百機余りが生産されたことになっているが、配備されたものの内で実際に飛んでいるのは六・七十機と言われていた。
「大統領には何と言えば良いんだ? 日本の要求に応えなければ、与党政権が崩壊して、親中に傾きかねないと訴えるのか? そんなことをしたら、“私は無能でした”と言うようなものじゃないか!」
パワーズの画像の下に「おいおい、そんなに頭を掻きむしると、お大事な黒い髪が抜けて、禿げるぞ」と、字幕が出た。どうやら読唇術で、パワーズの声に出ない呟きを、どん亀が読み取ったらしい。無駄にハイスペックな盗聴である。
「今年度のイタリアへの引き渡しを全て延期しても、二十機には足りません。英海軍と英空軍をキャンセルするとして……」
「海兵隊調達分から廻したらどうかね?」
遮るように口にされた大使の言葉に絶句したパワーズに代わり、サンダースが窘めるように言う。
「大使閣下、合衆国三軍の調達兵器を対外有償軍事援助に廻すことは、許されておりません」
「そんなことは承知している! だが、英国とイタリアの分全てを日本に廻すなんてことすれば、外交上どんな厄介なことになるか、君たちには分からんのか!」
「では単に、事前に合意のできていない調達は無理だと、断れば良いのではないですか?」
「断ればって、誰にだ? いや、そもそも大使館には、まだ打診すら無いんだぞ!」
「外務省からの連絡が無い? そりゃあ、……変ですね」
パワーズが指で唇を弾きながら考え込む。三人の間に、沈黙が続いた。
実は外務省内部は、降って湧いたこの事態に、大混乱の最中だった。そもそも普段は国内政治とは距離を取っている外務官僚たちは、上田率いる盾矛会の動きなど頭の片隅にも置いてはいなかったのである。与党のリーダーたちも、あんな予算案が通過するはずが無いと思い込んでいたのだから、それは仕方ないと言えた。
更に、自分たちの頭越しにどんな交渉が行われていたのだろうと疑心暗鬼になった彼らは、出世競争を旨とする官僚特有の猜疑心から、身内にも己の足元を掬おうとする人間がいる可能性に思い当たり、互いの調整や摺り合わせもできない一時の機能不全に陥っていたのである。
「ああ、日本の外務官僚なら保身のためにだけでも、何らかの接触をしてくるはずだ」
アガティ大使には、ボストンにある有名コンサルタント会社の上級駐在員として、東京に三年間駐在した経験があり、この国の官僚たちの特性についてもそれなりに知っていた。しかし彼は又、その外務官僚たちと共通の弱点を抱えている。即ち、外交を重要視する余り、その裏面である軍事と内政の関係についての知見が不足していたのだ。
「大使、本国にはどう報告するおつもりですか?」
「海兵隊としては、英伊より日本を優先すべきだと考えます。対中問題で今、日本の民意を無視すると、とんでもないことになります。第七艦隊も、横須賀を失うのは本意ではないはずです」
二人の将官に詰め寄られ、アガティには応える言葉を見つけることができなかった。