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「いやあ、お呼び立てして申し訳ありません。本来でしたら、こちらから出向かなければならない所なんですが、何分その……」
「心にも無いことを言わない方がいい。自分も暇ではないが、場所をこのオフィスにしたのにも理由があるんだろう?」
仏頂面の出口海将が、私服の袖口を気にしながら言う。濃紺に細く波打った白線のストライプ、濃い緋のネクタイ、白いシャツのカフスはテニスタイプで、シルバーのリンクスでとめられている。鏡面に磨かれ斜線が刻まれた幾何学的なデザインは、多分英国王室御用達のブランドだ。
「制服の将官が出入りされると目立ちますからね。最近この周辺も、正体不明の人間が歩き回っているようなんで」
「お前さん自身が動く方が、さらに目立つという訳か。大統領と会って顔を売ったりしたからな。だがそっちの方は、公安の連中が監視しているんじゃないのかね?」
海将にお願いして平服で来て貰ったが、制服でないのは落ち着かないらしく、ご機嫌斜めである。連れ合いが亡くなっており、家族もいないと言っていたが、この身支度は一人でしたのか? 意外と渋いセンスだ。
「フリーランスのジャーナリストにSNS経由で接触して記事を書かせ、独立系ニュースメディアに掲載するというプロパガンダ戦略は、冷戦時代からロシアの得意技です。記事一つ当たり一・二万が、即金でインターネット口座に振り込まれる。彼らにとっては、良い収入源でしょう」
「六角関連の情報は、マスメディアには載らないはずだろう。ずいぶん警戒しているようだが、その連中は、そんなに厄介なのか?」
近年の不安定な経済情勢の中で、従来の広告モデルに依存してきたメディアは、それ自身を支え続けるだけの収入を得られず、編集者や記者といった根幹の雇用が維持できなくなりつつある。しかしメディアやニュースに対する需要が無くなったわけではなかった。むしろこの激変する世界で、人々は独立して信頼性のある情報源を必要と感じていた。
こうした中で、メディアからの雇用を失った編集者や記者による独自の発信が生まれ、読者からの直接課金を対価として、ニュースレターやポッドキャスト等を舞台に、情報を提供するビジネスモデルが注目を集めるようになっている。
これら独立系のメディアは、既成のメディアほど大資本を必要とせず、少人数で提供できるコンテンツでも読者の興味をひく内容を継続して発信し続ける力があれば、支持され影響力を持つ存在として成長しつつあった。
ただ彼らは既成のメディアとは違い、また反骨精神を持つ者も多いため、こちらの望むようにコントロールするのが難しい。おまけに記事を書いているのは、玉石混合で半分素人のような連中も多いのだ。怖いもの知らずと言うか、馬鹿と言うか、「媚びるのは読者にだけ」と公言する者さえいる。
「フリーの人間が無意識の内に大げさな政治的な切り口で記事を書かされ、エージェントや活動家に仕立て上げられる。やつらにとってはコスパが良いし、こっちにはモグラ叩きみたいなもので、潰しても潰しても切りがない。自分のやっていることに自覚が無いから、逆ギレして暴走することも少なくありません」
テーブルに置かれた珈琲カップに手を伸ばした出口が、眉をしかめて俺に尋ねる。
「ふむ、KGBの亡霊かね? やっぱりロシアがちょっかいを出してきていると言う訳だ」
「西側の都合に合わせたルールを押しつけられようとしている中露が反発して、連携を取ろうとするのは避けられないでしょう。今回の件も、どちらかと言うとロシアの側から持ち掛けたとすれば、自衛隊の将官の動向に目を配っていないはずがありません」
珈琲を飲み終わったから本論に戻るというように、姿勢を正して出口が俺を見る。
「それで機雷の敷設自体は、中共の潜水艦が行ったで間違い無いんだな?」
「ですね。ロシアは機材を提供しただけです」
「何で向こうから意図的に情報が漏らされるまで、教えてくれなかった? そっちの無人潜水艇は、中共の潜水艦の行動をカバーしているはずだろう」
「教えてどうなります? 海自の艦艇や航空機を出して、大々的に対潜作戦をやるんですか? 爆雷や単魚雷をあの海域にバラ撒く? いや、ソノブイを投下するだけでも大事になるでしょう?」
表向きあそこで前線に立って向かい合っているのは、海上保安庁と海警局という、両国の武装警察部隊である。海自が海域に入っていくだけで、中共に軍事衝突の口実を与えてしまうだろう。海自の出動は、無理筋だ。
そしていくら出口が洗脳済みとは言え、彼を通して周辺の人間に伝わったその情報の波及効果までは制御できない。つまり今回は、伝える必要が無い場合は伝えないという原則に則っただけである。ただ出口は、知らされなかったことに気分を害しているようだ。彼に施された洗脳レベルでは、そういう感情の動きまで制限してはいない。
「あそこで操業しようとしていた漁船が触雷した。そんなに大型の船じゃなかったから、一瞬で沈没したそうだ。乗組員は間違い無く全員即死だろう。爆発を目撃した僚船の船長によると、遺体どころか船体の破片も見つからないそうだ」
冷静を装っていた仮面が剥がれ、僅かに頬が震えているのが見えた。俺の責任か? 前もって出口が知っていたら、この犠牲は起こさなかったと言うのだろう。あそこには台中の漁船も入っているはずだが、沈んだのは日本の船なのだろうな。
「現在は漂流機雷情報を出し、同海域に入ることを禁止している。中共の軍事筋からの間接情報として、ダークウェブに“警告”が流されたのが、その後だ。海自が掃海に立ち入ろうとしたら、人民解放軍の艦艇が阻止するそうだ」
ダークウェブというのは、コンピューターネットワーク上に構築された特殊なネットワークに置かれた、ハイパーテキスト・コンテンツだ。アクセスするのには、特殊なソフトウェア及び設定と認証が必要である。多くは無害なものだが、いくつかの国が実施しているインターネット検閲を回避できる高度な匿名性を持つことから、反体制的あるいは反社会的な勢力にも利用されていた。
「巧妙な遣り口ですね。こちらの掃海艇は軍事衝突を回避しようとすれば動けない。ところが中共の艦艇は、自由に出入りできる。それを見たら、日本側の漁船だって安全だと思うでしょう。いくら政府が禁止しても、入漁して操業したいという漁師は出てくる」
「そうなったら、海保が“身体を張って触雷してみせる”ぐらいしか手が無い。本来だったら、それは我々の仕事なんだが! いずれにしても詳細情報が欲しい。こうなったら、渡して貰えるんだろうね?」
出口の“やる気”を削ぐわけにはいかないから、ここは素直に要求に従っておこう。いや別に、こいつが偉そうだからって、腹を立てている訳ではないよ。
「例の二隻の原潜が世界の注目を惹き付けている間に、キロ級と宋級の合計八隻が海域に入っていました。敷設した機雷は九十六個ですが、そのうち六個は敷設後に失われたようです。中共の担当部署は、流出した機雷を遠隔指令コードにより自爆させたという報告を上げています」
出口海将は俺の口から漏れ出た解放軍海軍の内部情報も、当然のことのように受け容れた。情報の出所などどうでも良いから、とにかく対処方法を見つけたいと言うのだろう。この際情報の信頼性も、問うつもりは無いようだった。
「すると残りは九十個か……常識的な機雷戦の規模から言うと決して多くはない。だが、向こうはGPSでの座標管理による正確な敷設位置を知っている。深度や信管の作動条件などの諸元も、握っているのは向こうだ。機動戦を主要ドクトリンとする米海軍にとっては、敷設された可能性でさえ、大きな心理的圧迫になる。だが少数でも現実に機雷が存在するとなると、海域での行動は完全にできなくなってしまうな」
「数が多くないのは、知性化された機雷のコストが、予想外に高かったせいですね。システム一式をロシアから導入するだけでも、相当な金額になったでしょう。そもそも機雷というのは消耗品で、攻撃対象となる艦艇との単価の非対称性が、キモですから」
機雷は空母の開発よりも目立たないし、財布にも優しい。『孫子の兵法』の伝統を引き継ぐ人民解放軍の超限戦争論に通底する、“兵は詭道であり、制約無く戦うべし”という伝統的用兵思想にも沿うことになるのだろう。
「人民解放軍は台湾封鎖用として一万五千個の機雷を備蓄しているはずだ。それでさえ全体のストックに比べれば、比較的小さな数値と言われているぞ。知性化された信管とやらが一式いくらするのか知らないが、百個程度で品切れということは無いだろう」
「機雷戦で特定海域を一定期間支配するには、補充が欠かせません。見積もり量は、その十倍というのが妥当な所です。ただ中共にはいろいろ前科があり、ロシアも代金の取りっぱぐれは避けたいでしょうから、全部が納品済みとは限らないですが」
中共って国は、輸入した兵器のパテントとか無視して良いと思ってるんだよ。過去にもロシアから輸入した戦闘機を勝手に改造したりコピーしたりして、怒らせているからな。模倣して作ったジェットエンジンの耐久時間が、百時間未満で実用にならなかったとかのポカもやっている。ロシアにとっては一筋縄ではゆかない、厄介な顧客だ。よく取り引きを続けているもんだと思う。
「半分としたって五百個だ。米軍はあの海域に艦艇を派遣することは避けるだろう。何しろ現代の船の装甲は、脆弱だからな」
前大戦の時代と違い現在の軍艦は、浸水対策の防水隔壁はそれなりに設置されているが、装甲を厚くして被弾時の熱衝撃や圧力などに耐えることよりも、重量を軽減して速度を上げたり操船を容易にして攻撃を避けることの方を、重要視している。だから相当の大型艦でもない限り、触雷は致命的な結果をもたらす可能性さえあった。
「で、どうするつもりだ?」
え、俺にそれを聞くの?