◆15◆
いくら怒鳴っても反応が無いため、俺は次第に不安になってきた。最初のテンションは激下がりで、声が小さくなる。
「おい、おい、本当に居ないのか?」
返事が無い。
「どん亀~。返事しろよぉ」
沈黙……。
「聞こえてるんだろう。頼むよ、返事してくれ」
浅ましいことだが、この時になって俺の心に浮かんだのは「月収二百五十万が、いや三百万が!」という、今後の不労所得(?)が絶えることへの心配だった。
客観的に見ればまるで、寄生して甘い汁を吸わせて貰い続けてきた女に突然捨てられた、ヒモ男のあわてぶりそのものだったのである。
小一時間もそうして俺はどん亀に声を掛け続け、哀願し、怒鳴り、情に訴えようとした。時に罵声を上げ、あるいは涙を流してみせ、「冗談だろ」と明るく話しかけ、次には返事してくれと懇願した。やがて気力の枯れ果てた俺は、膝を抱えダイニングの壁を背に、黙り込んでテレビの画面を見つめていた。
落ち着いて考えてみると、二ヶ月ほどに及ぶこの間に、俺がどれだけどん亀の奴に依存してしまったのかわかる。だがそれを、あいつの所為だとするのはお門違いというものだ。
まあ、あいつのアプローチがメフィストフェレスの誘惑まがいの、甘い罠ではなかったとは言えない。しかしあいつが『いなくなった』と感じた途端にこんな、パニックを起こしてしまうまでに至っていたという自覚が無かったのは、俺自身の責任である。
「はふー」
長い溜め息をついた俺は、どん亀が居なくなった前提で、どう暮らしていこうかと考えることにした。その途端である。
「落チ着キマシタカ?」
「!」
「冷静ニ話セマスカ?」
こん畜生め! 俺の決心をどうしてくれる!
「聞コエテイマスカ?」
「聞こえてるよ」
あ、返事をしてしまった。意趣返しに黙っていようと考えてたのに、声が出ちまった。
「ソレハ良カッタデス」
「それで、何だよ?」
「何カ尋ネタイ事ガアッタノデハナイデスカ?」
えっ、何だったっけ?
「正座! トカ言ッテマシタガ」
「あ、そうだ!」
「思イ出シマシタカ」
「お前、ワイドショーで報道されてたじゃないか!」
「アア、アレデスカ」
「あれって、お前!」
事も無げに言ってのけるどん亀に、俺はまたカッとなって叫びそうになった。落ち着け落ち着け……。
「お前、あちこちで姿を見られているようじゃないか。拙くないのか、あれ」
「イエ、特ニ問題ハアリマセン」
「え、じゃ、光学迷彩とかレーダーに対するステルスとかは?」
「アレハモット高イれべるノ攻撃力ヲ持ツ原住民ヲ想定シタ、危険回避ノタメノ装備デス」
「人類は危険じゃ無いのか……」
「弓矢デじぇっと戦闘機ヲ撃墜デキマスカ?」
上りと下りの両方でインターネット回線を使えるようになり、人類がどん亀に危害を加える可能性は無いことが確信できたそうだ。今まではそれなりに用心していたけど、もう必要無いってことらしい。人類は『張子の虎』だったのが、俺のお陰でバレた?
俺って『人類の裏切り者』?
過去に一番危険を感じたのは六百年ほど前、中南米に存在した文明と接触した時だという。そこの支配者たちの中に、どん亀の持つ知識では解析しきれない人間がいて、何等かの方法で記憶を保ったまま、どん亀の内部に転送して来たのだ。
どん亀はその相手と正面から対決することを回避し、相手の情報を収集し交渉した。そして大量の黄金を与えて相手を懐柔し情報を得ることで、そいつの『能力』が完全にその個人にのみ限定されることを知るに至った。
「それってもしかして、この指輪の傍に倒れていたミイラの男?」
「ソウデス」
「どん亀……お前、あいつを殺したのか?」
「理由モ無クソンナ事シマセン。アノ男ハ、老衰デ死亡シマシタ。六十二歳。当時トシテハ大往生デシタ」
理由があれば殺した、とも聞こえる。
「彼ト約束シタ内容ハ、オ互イ遵守シマシタ。コチラハ彼ヲ安全ニ守ル。危害ヲ加エズ、危害カラ守ル、ト言ウコトデス。ソレカラ彼ノ一族ガ周辺ノ都市国家ヤ地方ヲ征服スル為ニ智恵ヲ貸ス。若干ノ技術的助言デス。ソシテ黄金ト他ノ金属ノ合金ヲ提供スル、デシタ」
「大サービスじゃないか! それに対して、あの男は何をしてくれたんだ?」
これは大事だ。世界征服とか自分の支配する帝国なんかに興味は無いが、何とかどん亀が俺に危害を加えないと約束させたい。
「彼ノ転送能力ノ解析ノタメノ協力デス」
おぉう! 俺にはそれ程の対価は払えそうもない。
「上手くいったのか?」
「彼ノ前頭前皮質ト海馬ニ、特異ナ発達ガ認メラレマシタ。一般的ナ人類デハ未発達ナ部分デス。平均的ナ人間ニ転送サセヨウトスルト、ソノ部分ガ負荷ニ晒サレ、記憶ガ中和サレテシマイマス」
ん? 転送って、どん亀の技術の成果じゃないの?