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「簡単におっしゃいますが、とても上手くいくとは思えません。市ヶ谷に防衛省のどれだけの機関が集中しているか分かっていますか? 大きな庁舎だけでもA棟からF棟まで、それに厚生棟、敷地内で起居する自衛官の隊舎、記念館と、八つもあるんです。防衛大臣官房を筆頭に、統幕、陸海空の幕僚監部以下、自衛隊の中枢が集まっていますし、出入りしている人間を含めれば万単位ですよ」
「そう言えば、防衛装備庁があるのはD棟でしたっけ?」
「ええ、もっとも防衛装備庁は千八百余りの人員の内、自衛官が四百人ちょっとという外局ですけどね。ただ同じ敷地内に同居しているだけ、双弓先生の言われる計画は無謀だとしか思えません」
モニター画面の向こう側でニコニコ笑っている双弓の態度が、どう考えても真剣でないと田中は受け取っているのだろう。怒鳴りこそしないが、不機嫌な表情になっている。
約半世紀前、現在は防衛省庁舎A棟のある場所に在った旧一号館の陸上自衛隊東部方面総監室に、日本人としては世界的にも著名であった作家Mが同志四名と立てこもり、自衛隊員にクーデターを呼びかけた。だが結局は呼応を得られず、最後には割腹自殺している。
その建物は解体後、同じ敷地内に市ヶ谷記念館として移設復元されているから、二十代とは言え市ヶ谷で働いている田中が、そのことを知っていても不思議ではない。総監室の扉には当時の刀傷が残っており、見学者には今でも事件のことが紹介されているそうだ。
自衛隊員にどれだけ働きかけようと、政府の意向に反する行動をとる決起など実現するはずが無いと、彼は思っているのだろう。どん亀の能力を知らず、冷静に判断しようとすれば当然である。今回の“洗脳”は、状況を考えずにこちらの求めに応じて暴走するような、盲信的なパターンにはしていない。
「一部のグループの“私的研究”となれば、情報保全隊が動く案件だと思いますが」
「保全隊は成立時に“調査第二部”の構想が潰されたでしょう。隊員の外国籍の配偶者に関する情報なども「各自衛隊がそれぞれ把握済みだから」と、陸海空からほとんど提供されていないと聞いています」
自衛隊情報保全隊とは、二〇〇九年に創設され防衛大臣直轄の元に置かれる、陸・海・空自衛隊共同の防諜部隊である。防衛省の情報体系の一元化を行い、情報本部と協働することで防衛庁全体の情報収集(諜報)及び保全(防諜)能力を強化する目的で編成された。
調査第二部は保全隊部隊編成時、隊員やその家族の個人情報を収集して適格性を調べる「身上調査」を担当することになっていた部局である。ところが一部制服組からの反発が根強かったため、この部署は編成案の組織図に明記されていない。
一方設立時同じく組織図に入れられなかった“調査第一部”は、対外防諜担当の部署となるはずであったが、国会での審議の過程で「近隣国への配慮」を声高に求める当時の野党とマスコミの圧力によって、潰されている。
つまり設立目的から考えて保全隊が握っているべき内外への対人防諜の部分が、組織として機能していない状態なのだ。「日本に防諜無し」と諸外国にけなされても、仕方ないだろう。
「地方情報を押さえている警務隊を説得する方が優先事項です」
口を噤んだ田中に、双弓は更に言葉を重ねる。この場合の“地方”というのは、“現場”とか“中央以外”というような意味である。
「我々は何も、孤立無援であなた方にこの仕事を任せると言っているわけではありません」
「ではどんな支援が得られるのでしょうか?」
「取りあえず、敷地内の全ての通信回線・通信機器等をモニターし、必要があれば遮断又は偽装できるようにしてあります」
「はああ?」
まあ普通、意味がわからないよな。防衛省全体が盗聴されていると言われても。
「市ヶ谷でのナノマシン運搬と投与は、昆虫や小動物型のボットが担うので、あなた方が直接手を下す必要はありません」
「昆虫? 小動物型ボット……ですか?」
益々、理解不能だろう。田中と甲斐の二人は、自分たちに投与されたマイクロマシンについてさえ、漠然とした認識しか持ってはいない。
まずナノマシンそれ自体の移動能力は、空気中では時速数ミリ程度であり、しかもそんな高速(!)で移動すればたちまちエネルギー切れに陥ってしまう。その千倍サイズのマイクロマシンでさえこの点に関しては大同小異で、運搬支援は不可欠なのだ。
「社長、彼らに見せてやって下さい」
「うん、これを見ろ」
そう言って俺は、小さなプラスチックケースをポケットから取り出した。その中に入った黒い甲虫と蝿や羽虫などの見本を、田中がのぞき込む。
「この、一番大きいのはカナブンみたいですが、標本か何かですか?」
「見るんだ」
おれがケースを開けた途端、中の昆虫が一斉に飛び出す。蝿が真っ直ぐ自分の方に飛んで来たのに驚き、甲斐が「ワワッ」とのけ反って、ひっくり返りそうになった。
「戻れ!」
俺がケースを持ち上げ、そう命ずる。部屋の中を飛び回っていた昆虫たちは、途端に一直線にその中に飛び込み、ピッタリ元の位置に止まった。俺はケースの蓋を閉じる。
「次は外だ」
俺はミーティングルームのガラス戸を開け放つ。スズメ、シジュウカラ、ツバメ、コゲラ、キジバト、ハシブトガラスが、一羽ずつ飛び込んで来る。スズメとシジュウカラは俺の両肩に、それ以外の四羽がテーブルの上に降り立った。
ポケットから今度は二つの小さなカプセルを出し、両掌に載せる。
「行け」
両肩に止まっていた二羽が飛び立った。掌の上からカプセルをすくい取ると、それを田中と甲斐の席の前のテーブルの面に向かって投下する。テーブルにぶつかったカプセルが砕け散り、中の白い粉が煙のように舞い上がった。
本物の昆虫や野鳥を今のように操るなんて、普通ではあり得ない。それは、二人にも理解できるだろう。
「今のは派手な爆撃というところだが、本番はもっと目立たないようにやる。昆虫型のボットをこいつらが建物の入り口まで運び、中は昆虫型に任せる。あるいは夜間、鼠型のボットに侵入させ、部屋の中にカプセルを留置するやり方でも良い。実際の作戦では即効性のガスを使い、対象者の警戒心を低下させ、その間にナノマシンを投与する」
そう説明すると、ややしばらく考えてから田中が言った。
「このボットとかがそこまでできるのであれば、私たちには何もやることが無いように思えますが」
画面の中の双弓が、首を振ってその言葉を遮る。
「さっきも言ったじゃあないですか。ナノマシーンを投与されただけの人間には、複雑な条件付けが成されていないと。彼らに、何をどうするべきか、導くのがあなた方の役割です」
「しかし自衛隊は階級で動いていますし、私たちは一介の技官でしかありませんよ」
「“ギアス”のナノマシーンを投与された人間は、あなた方指導力を持った使徒の言葉に対し、強い感受性を持ちますから、間違いなく耳を傾けてくれます。そして人間というのは、己の属する集団に強く影響を受けるのです。防衛省の中に“ギアス”を持つ者が増えれば、持たない人間もあなた方使徒の話を聞かざるを得なくなるでしょう」
「使徒ですか?」
そう呼ばれたことをどう受け取ったか分からないが、田中がさらに考え込み、溜め息をついた後でそう聞いた。使徒という名称は十年ほど前に人気があったアニメに登場したから、田中や甲斐の世代なら知っているはずである。
「自衛隊の中に秘密結社を作ります。本当の“秘密”結社で、その存在自体、外部には“秘密”にしなければなりません」
「そんなこと、できるんでしょうか?」
俺の実演を見た後、双弓の説明を受けても、田中はまだ懐疑的だった。慎重なのは悪くないが、今は前に進むことにしようじゃないか。
「国民に知らせずに我が国の防衛力を強化する、これは地政学と歴史の方向性を見れば、絶対必要ですね。ただこの国の民衆は、外圧を撥ね除けるだけの戦力を持ったと知った途端、勘違いして暴走する危険性を持っています。それに対して外国勢力は、疑心暗鬼になるか、あるいは利用しようと考えるでしょう。だから、国民にも他国にも、日本が強くなった事実を知らせたくありません」
「双弓先生、相手より優位に立てる軍事力を実際に行使するまで隠しておくというのは、現代の軍事理論では悪手だと私たちは教えられています。実際の戦闘で勝利するより、事前に相手に“勝てない”と判断させて軍事行動を控えさせる方が、何倍も効率的だと。先生のプランは、この原則に逆行しています」
あれ、全然説得できていない! どうしたら良いんだ?