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「“誓約”は元々行動を縛るものだ。そしてその人間の属する集団への忠誠心を要求するものでもある。だからそれが何を要求するのかは、そいつが属する集団の性質によって決まる。その集団が“結社”だ」
「岡田社長の言う通りです。ですから“誓約”は単に人を拘束するばかりのものではありません。集団の一員であることを認め、その者を守り助けるためのものでもあるのです」
そう断言する上田の眼には、一欠片の逡巡も迷いも無い。“洗脳”を経験してから一年近く、もう完全に安定した姿がこれだ。
「私は議会で、政治の世界で頑張りますから、あなた方には官僚の世界をお任せしたいのです」
画面の中で身を乗り出すようにしてそう告げる上田の迫力に、田中も甲斐も圧倒され、頷くばかりだった。
「クックックッ、上田先生。それじゃあ説明が足りません。この二人は何にも分かっていないですよ。特に何故“秘密”の結社なのかとかね」
双弓がそう指摘すると、改めて自分の気負いに気付いたらしく顔を赤らめた上田が、肩を振るわす。
「ハハハ、仕切り直しですねこれは。いや、私も仲間ができるというので、ついついですね……」
上田は言わばテストケースだ。ランドグレンのように初めから大企業の重役であった訳ではないし、元々高い能力を持っていた上に特殊な訓練を受けた山城智音とも違う。本来であれば周囲に埋もれ、一生うだつが上がらないまま終わったであろう平凡な人間である。
そういう人間でも“洗脳”によって役割を与え、さらにどん亀による最適化のアシストがあれば、飛び抜けた力を発揮することができる。その分、普通以上に早く“燃え尽きてしまう”可能性は否定できないが、今は優しく声を掛けてやることにしよう。
「上田議員の気持ちは分かりますから、恥ずかしがらなくても良いですよ。何と言ってもあなたは、孤立無援で秘密を抱え、議会内で頑張って来た訳ですし。それで仲間に入るよう“説得”できたのは何人ぐらいになりましたか?」
「当選一・二回の若手議員ばかり七・八名と、その取り巻きの中で有望な人間一・二名ずつといったところです。一応、与野党関わらず若手の勉強会をしようという名目で声を掛けています」
「すると“誓約”を受けさせて秘密結社に取り込めたのは?」
「まだ二十名くらいにしかなりません。岡田社長の準備してくれた、三回の食事会に参加した連中です。その節は君嶋さんにも、お世話になりまして」
「今後とも遠慮なさらずに相談して下さい。金沢に言って下されば、直ぐ手配させます。大きく見れば、うちの会社にも利があることですので、費用などは全部見させて頂きます」
「いやしかし、規正法のことも配慮しないと……」
「何をおっしゃいます。六角産業の主催した食事会に、議員の先生方やその事務所の方々がそれぞれ参加して下さり、そこで偶々上田先生と顔を会わせられる。それの何処が政治資金規正法に引っかかるんですか?」
「あー、社長、茶番はその位にしてもらえますかな?」
双弓から制止が入ったので、俺も真面目な顔に戻った。どうやら顔がニヤついていたらしいと、気を引き締め直す。双弓が続けた。
「今の社長と上田議員の最後の遣り取りは、表向きの顔です。秘密結社に入って“試用期間”が終わった相手とは“本音”で話すこともできるでしょう。ただし、どこに結社外の人間の耳があるか分からないのですから、余程セキュリティが確保できている場以外では、“本音モード”は出さない方が賢明です」
「“秘密”というのは、例の防衛問題に限らないのですか?」
田中が真剣な顔でそう聞いた。多分、ずっと考え続けていたのだろう。俺は頷いて念を押す。
「そうだ。だいたいこの“秘密結社”の存在自体が“秘密”だ」
「それで、この結社というのは、あの中世から続くという組合なのですか?」
ああ、こいつが気にしているのは、陰謀論などでよく出てくるコンパスと定規のあれだな。田中が悩んでいたとは思ったが、こういう話になると、どうしてもそっちに行ってしまうか。
「いやそれに、神殿騎士団とか光叡修道会とかでも、ユダヤの何とかでもない」
「じゃあ何なんです?」
“洗脳”というのはつまり、人間の人格を構成している巨大な記憶の累積を編集し直すことが主な作業になる。実は人間は、自分の記憶の構造体を、常に編集しつつ毎日を過ごしているものなので、それ自体は何も特別なことではない。
ただ人格の外部から、特定の目的に従って人格全体の方向性を変えるというような大きな改定では、それに伴う記憶の編集は大規模なものなので、改訂後の人格が安定した状態になるようにするのは大変な作業になる。しかも改造後の人格が、周囲の知人や縁故の人間から見て違和感が無いように、表面を整える必要もあるのだ。
そういう表側を支えるのが、実は裏のカバーストーリーだったりする。これは神に対する信仰と同じで、中核となる神が実在するかどうかではなく、その人間が何を信じているかが結果を決めるのだ。
「それはまだ教えられない」
「何ですって! それじゃあ……」
「まあ待ちたまえ。私は今まだと言ったはずだ」
「じゃあ、いつ教えて貰えるのです?」
この田中という男は生真面目で、目の前に納得できないことがあると、どうにも前へ進めない奴だ。それに対して甲斐は、与えられた課題に取り組む能力はそれなりにあるが、目の前のこと以外はほとんど何も考えていないお気楽な人間なのだろう。同じ技術系公務員でも、いろいろなタイプがあるものである。
「君たちが実績を上げ、信頼を得てからだ。それぐらい分かるだろう」
そう告げると、田中の目には悔しげな陰が浮かんだ。その辺の自由さ、個性まで残しているのは、どん亀の今回の“洗脳”に対する匙加減である。
マイクロマシンによる常時監視下にあるとは言え、元の本人らしさを残すことにリスクが無いわけではない。勝手な判断により、全体の計画から逸脱する行動を取ってしまうことだってあり得るからだ。
人間の人格というものは、それだけ複雑な動的構造体であり、環境から予期せぬ刺激を受けた場合に起こす反応のスペクトラム全体をカバーすることは、どん亀にも不可能である。
「結社の中にはより高い地位があるのだ。君たちが深い秘密に関与するには、業績を積み重ねて“内側の存在”に認められる必要がある。君たちはまだ第一歩を踏み出したばかりだ」
「えーと、これから何をすれば良いんですか?」
甲斐が尋ねた。流石にいつものようにお気楽な態度は、取れないらしく、恐る恐るの質問である。双弓が後は自分がというように、説明を始めた。
「あなたたちには、防衛省の中で秘密裏に同志を募って貰います」
「あのー、初任研修で教えられた内容から考えると、そういうことは難しいと思います。一般にはあまり知られていませんが、自衛隊ができてから何度かクーデター未遂事件があって、警務隊も思想問題には敏感です。警察庁の中にも、自衛隊を監視している部署があるそうですし」
「警察庁の方は、もう押さえてありますから心配しなくて良いです。問題は警務隊ですが、まず警務隊本部を何とかしましょう」
「何とかって、私たちがですか?」
「そうです。まず、やることはですね……」
双弓は田中と甲斐に、海自内で私的な戦術研究を行っているグループがあるという密告情報を持って、警務隊に入り込むように指示した。
そこでナノマシンを投入し、本部全体を二人の影響下に置くという話を聞いて、田中も甲斐も驚きの表情になった。
「いや無理です」「いくら何でもそれは無理では……」と、完全に及び腰である。
「まず“グループ”を一網打尽にするためと言って、密告の件はまだ表沙汰にしないよう求めます」
「まあ、それは」
「そして警務隊の幹部を集め、我々の傘下に入るよう説得して欲しいのです」
※末尾の双弓の台詞を、一部書き換えました。2021.01. 23:23 野乃