◆132◆
「ねえ、それっておかしいと思わないの? どうして余計なリスクを冒すの?」
「逆に君に聞きたいんだが、どんなリスクがあると言うんだ?」
ステファニィと言い合いになった。彼女は合衆国の駆逐艦に守って貰えと言う。だが庇護下に入るということは、支配下に入ることに外ならない。
だいたいロシアの原潜がデルフィーナを攻撃する可能性は限りなく低い。そんなことをしても、ロシアにはメリットは無いからだ。せいぜい米国で試作されている兵器の制式化が遅れる程度だが、この状況下で攻撃した場合、北太平洋という海域からも、ロシアの原潜の仕業だと疑われる可能性は結構高い。
「デルフィーナが攻撃されるかもしれないじゃないの!」
「ロシアってのは、最近そんなに公海上で貨物船を沈めているのかい?」
第二次世界大戦や朝鮮戦争の時代でさえ、ロシアにはそんな「実績」は無いはずだ。あそこは本来陸軍国だから、太平洋の覇権を目指している中共と違って、海洋での示威活動にさえ、それほど意欲的ではない。
「じゃあ、なぜストーカーみたいに跡を付けてくるの?」
「君の国の海軍がやっているのと同じだ。何時でも沈めてやれるんだと、脅しを掛けているだけさ」
もっとも原潜は、俺たちが気付いているとは思っていないだろう。存在感を示したい相手があるとすれば、それは米海軍だ。居場所を知られてはならない潜水艦がそんなことをするなんて、本末転倒のような気もするが。
「合衆国はそんなことしない!」
「ミギー、歴史から目を背けるな。この百年ほどの間、そんなことを最も得意としたのが君の国だ」
「それは相手が……」
「相手の方が悪かった、なんて言うんじゃなかろうな? 君の国の“国益”に反する相手は、みんな悪者だなんて、ネイティブ・アメリカンから土地を奪った奴らの口にした“正義”そのものじゃあないか」
「……その時代は、生きるか死ぬかだったのよ」
「この時代も、そうさ。そして俺は、生き残るつもりだ」
スマホの向こうで、ステファニィの吐息が大きく聞こえた。いくら元“日本大好き少女(?)”とは言っても、所詮彼女は合衆国人だ。
「ねえ英次、あたしたちきっと分かり合えると思うの。あなたに、“愛してる”って言ったら、信じてくれる?」
いや、行き詰まったから話題を変更するにしても、それは極端だ。
まるで突然、「今夜は月がとっても蒼い」って言われたみたいだ。俺が驚いたのも無理ないだろう。えーと、もしかしてその“愛”って言うのは、スピリチュアルなものなのか?
“心”とか“魂”とか、どうもステファニィが俺に言っているのは、そういう系統のもののような気がした。
ただし彼女に、AIには“心”や“魂”があるとか言ったら、真っ向から反対すると思う。彼女の信仰が先験的に肯定している“霊魂”の概念を覆すものだからだ。
しかし“霊魂”などというものが実際にあったとしたら、全ての記憶を失った鈴佳のそれは、いったい“何処へ”行ってしまったのだろう?
そんな余計なことを考えた後、スマホの向こうにいる相手に、俺は真面目に答えようとした。
「君が嘘を言っているとは思わないよ。でも……」
「別に無理強いなんてするつもりは無いし、できるとも思わない。でも知っておいて欲しかったの。言っておくけど、あなたが鈴佳を忘れるなんて、期待していない」
押し被せるように言われた。うん君は賢いから、桃花と競り合うことは考えられても、鈴佳とは無理だと知ってるってわけだ。その上でのその告白というか宣言は、どう受け取れば良いんだ?
「あなたはそのロシアの原潜が、デルフィーナに手出しするとは思っていないのよね」
「ああ」
「じゃあ、あたしは信じるわ。あなたの考えを、いえあなたを。だからデルフィーナがサンフランシスコに着いたら、鈴佳をあそこに連れて来て。会わせたい人がいるの」
「鈴佳を誰かに会わせると言うのか?」
「そう。デルフィーナのことは、お祖父ちゃんに話しておく。危険は無いというあなたの判断も」
ステファニィが通話を切ったので、俺は溜め息をついてスマホを置く。桃花が途中からステファニィとのやり取りを立ち聞きしていることには、気付いていた。だから俺は背後にいる彼女に尋ねる。
「どう思う?」
「何がですか、社長?」
「ステファニィのやつ、何を企んでいる?」
「さあ? また善意の何とか、ではないでしょうか」
電話口で俺が言ったことは聞こえても、ステファニィの言葉は聞き取れなかったはずだ。それでいてその返答か。桃花が賢いと賞賛すべきなのか、単に俺が読まれ易いだけなのか。
「“その悩みを共にし、共にその重荷を担う”つもりか。“善きサマリア人”てやつだな。しかし善意に基づくとしても、その行為と結果の全てが許されるわけじゃあない。ステファニィには、少なくとも結果にだけは責任を取って貰おうじゃないか」
「社長のおっしゃっていることの意味が、私には分かりません」
無理もない。中華の人間の、縁故・人脈を全てに優先する価値観も日本人には理不尽だと感じられるが、特定の神への信仰のみが善という基準で全宇宙への認識を押し切ろうとするあの福音主義だって、同じく日本人には理解できない。
理解できるなんて言う日本人がいれば、それは自己欺瞞と言うべきだ。
日本人にも福音主義者はいるだろうって? うん、ただあの信仰に身を捧げるには、日本人であることを一旦辞めなければならない。日本人の生き方はいい加減だが、あちらは中途半端を許さない苛烈な神様だからな。
福音主義者は、どんなにその行いの内容(行動)が善いことでも、神への信仰が無ければ、義であるとは認めない。逆に結果はどうあれ、信仰に基づいた選択であれば否定すべきではないとする。
日本的な基準から見れば、どう見てもこれは傲慢だと思うだろう。だが、彼らから見れば正しいのだ。合衆国はこういう理念に基づいて成立した国であることを、忘れるわけにはいかない。
俺がデスクに戻ってディスプレイに表示されたデータを見ると、デルフィーナは三十二ノットまで増速していた。
USSマスティンも数時間追従してきていたが、しばらくしてあきらめた。高速で航行すれば燃料消費が激しくなる。マスティンは、途中でより大型の他の船から燃料補給を受けながらでなければ、こんな速度で太平洋を横断することなどできない。単独でデルフィーナと同航し続けるのは無理だと判断したのだろう。
ロシアの原潜は水中で三十ノット超の速力が出せるようだった。ただ、無理をしているのは間違いないようで、相当な騒音を撒き散らしている。マスティンが離れた後に深度を上げ、百メートル程度の深さで追従してきていた。
合衆国の方は、デルフィーナが北米大陸に接近したら再度アプローチを仕掛けてくるだろうが、今の時点では偵察衛星からの監視しかできない。それも燃料を消費して衛星寿命を縮める軌道変更無しには、直ぐにというわけにはいかないはずだ。
『更に増速します』
オボチカ船長から連絡があった。その報告によると、原潜はベストコンディションとは言えないらしい。ソ連崩壊後、海軍に十分な予算が廻ってきていないため、必要なメンテナンスが十分行われていないのだろう。
ТОФ(ロシア海軍太平洋艦隊)のウラジオストク基地には、沿岸作戦用通常動力のキロ級潜水艦しか配置されていないはずだ。カムチャッカ半島にあるヴィリュチンスク基地の原潜か? だが、あそこのアクラ級原潜の就役は、最新のものでも四半世紀も昔である。
三十三ノットに達した時点で、ついに原潜も諦めた。急速に減速し、脱落していく。無理が祟って不具合が生じる前に、賢い選択をしたというわけだろう。俺がそう思っていたら、どん亀から新たな連絡が来た。
「ろしあノ潜水艦ハ、完全ニ推進力ヲ失イ、浮上シマシタ」
「何だって?」
「何等カノとらぶるヲ起シタヨウデス。救助ヲ求メル信号ヲ発シテイマス」