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ハウスキーパーが作り置きしてくれた夕食をダイニングで摂り終え、鈴佳の様子を見に行った。今晩の献立は和食で、肉じゃがとグリーン・サラダ、それに鰤の西京漬けの焼き物だった。
精神年齢は生後四ヶ月半の赤ん坊だが、肉体的には二十代の女性である鈴佳は、もう座ることも、立って、つたい歩きをすることもできる。
まだ筋力が弱っているし、身体のバランスや動かし方を学び直している途中なので、移動速度は遅い。だが視力聴力はほとんど成人並みだし、興味を惹かれる物があれば、突然そっちの方向へ動こうとする。だから二十四時間の看護が必要だ。
足腰がまだ定かでは無く、ぶつかったり転んだりすれば怪我をする可能性があるのに、その危険さを全く意識していない点が問題なのである。
普通の人間が持っているはずの痛い思いをした記憶が、他の記憶と一緒に一切合切失われてしまっているので、仕方ない事なのだが。
俺が鈴佳のために高給を支払って雇っている看護師は、いずれも二十代後半から三十代前半の女性であった。
成人の女性並みの身長体重と少し弱くなっているが大人に近い筋力を持ち、当たり前のバランス感覚が全く欠如しているのが、今の鈴佳である。ケアするのにはかなりの体力が必要だ。
雇用に当たっては、大人並みの身体を持つこの赤ん坊の面倒を見て貰うため、看護師としての能力だけでなく、筋力も条件に含めざるを得なかった。
それでも今はまだ、鈴佳の行動能力が低いレベルに留まっているので大きな問題となっていない。だが筋力が回復し、精神年齢が二・三歳に達した頃が、一番危険ではないかと俺は思っている。そうなったら暫く、看護師は二人体制を組んで貰うことが、必要になるだろう。
あるいはその頃までに、鈴佳の面倒を見るためのナース・ボットをどん亀に作って貰う方が良いかもしれない。鈴佳に元の人格を“刷り込む”ことを考えれば、必須だろうとも思える。今からナースたちの行動パターンを、どん亀に研究させておくことにしよう。
あれ、ナースで良いのかな? どっちかというと、乳母だよな。
鈴佳の続き部屋に行くと、午後十時から午前五時まで担当の安藤という看護師がもう来ていて、午後三時半から午後十時半を担当する樋田と話をしていた。その側では鈴佳が手掴みで、ブロッコリーやら人参やらを食べている。
「あれ、安藤さん、まだ八時だよ。こんなに早くどうしたの?」
「鈴佳さんの口内炎の様子が気になりまして」
最初から大人の歯が生えている鈴佳は、固形物を食べ出すとよく頬の内側や舌を噛んだ。するとその傷が口内炎になり易い。食事の後の口腔管理をきちんとしないと、ひどいことになる。
「うーん、排泄の意思表示ができるようになったと思ったら、そういう所はまだ上手くできないか……」
「お年寄りでもよく見られることですよ。口腔の衛生管理というのは、結構重要な課題です。鈴佳さんの歯の状態は良好ですから、私たちがしっかりケアさせて貰います」
「ありがとう。よろしくお願いします。でも、あと三ヶ月では、自分で管理できるようにはならないだろうな」
「三ヶ月ですか?」
安藤看護師が怪訝な顔をして、俺を見る。
「実は九月になったら、鈴佳を元住んでいた家に連れて行きたいと思っているんだ。あそこへ行けば、記憶を取り戻す切っ掛けになるんじゃないかと思ってね……」
「それは……神山先生は何と?」
神山とは鈴佳を担当している女医さんだ。看護師たちは神山医師が属している病院とは直接関係が無く、退院のための準備として、俺が個人的に雇用した人間ばかりだ。そのため神山医師との関係は、互いに微妙なものがある。
「あまり期待しない方が良いとね。いわゆる解離性健忘に該当するのかさえ怪しいそうだ。全般性健忘の症例でも、ここまで逆行した障害は見当たらない。検査では検出されなかったが、誘拐犯たちが薬物を投与して記憶野を損傷させた可能性は否定できなくて、その場合、元の記憶の回復は困難だろうとまで言われた」
「私たちの受けた説明でも、同じことを……だとしたら、あまり急がない方が良いのではないでしょうか」
二人の看護師が顔を見合わせ、安藤の方がそう言った。あんまり強く言わないのは、多分俺が毎月支払っている鈴佳の介護費用を考えてだろう。
きっちり七時間勤務で残業無しなのに、同等キャリアの常勤看護師に比べても五割増しの報酬を、彼女たちは受け取っていた。神山医師の往診や他の経費を含めれば、毎月俺が数百万の支払いをしていると、安藤看護師たちも分かっているはずだ。
「そうだねぇ、あなたたちが一緒に来てくれれば嬉しいんだが、そうもいかないだろうし……」
比較的自由が利く派遣看護の業態とは言え、東京からあの僻地まで行って長期に働くとなれば、二の足を踏むだろう。
「私は構いませんよ」
突然、安藤がそう言い切ったので、俺は驚いた。
「いや、だって凄い山の中だよ。最寄りの新幹線の駅から、車で三時間だ。近くの町までだって一時間近くかかる。あ、もし来て貰えるんなら、乗用車を一台ずつ手配するけどね。何しろ、車が無いと何処にも行けない僻地だから」
「それなら大丈夫です。車の免許も持ってますし、この仕事で地方に行ったこともあるので」
あまりの意気込みにちょっと引いてしまった俺を見て、安藤も説明が必要だと思ったようだ。
「実は今日早く来たのは、樋田さんに相談に乗って貰おうと思ったからなんです。勤務中であることは重々承知していますが、何しろ勤務時間が丁度……」
「いや、それは今いいから」
なるほど。樋田看護師がずっと黙ってたのは、勤務中にも関わらず身の上相談などに現を抜かしていたと叱責される事を、心配してたのか。収入の面から言えば割の良い仕事だし、失職したくはないだろうな。
「それで私、今の夫と離婚に向けて、別居しようと思っているんです」
「うーん?」
「前からの事ではあるんですが、こちらで働かせて貰うようになって、私の収入が増えてから全く働かなくなって、昼間はパチスロばっかりで、しかもお金が無くなると、私に強請るようになって、お金は無いと言うと暴力を振るうんです。それで別れたいと言ったら、泣くは喚くはで、また腕力です。それで別居したいと言うか、逃げ出したいと思っても、お金は全部取られていて、どうにもならないんです。それで樋田さんに、良い方法は無いかと相談してた所なんです」
いや、そんなに一気にまくし立てられても、何と応えたら良いものか、分からんだろ? 何がどうなってるんだ?
今の鈴佳の状態をきちんと理解している看護師が、一緒に来てくれること自体は、俺としても都合が良い。ただ、家庭内の面倒事を抱えていて、それを持ち込まれると厄介なことになる。
良い弁護士を紹介してやる手もあるが、それで問題が解決してしまえば彼女が僻地へ逃げ出す理由も無くなるわけで、俺にとってのメリットが無い。
「でも、一人で鈴佳の面倒を見るのはさすがに無理だろう?」
俺はその辺を聞いてみることにした。
「そこで社長、この樋田さんも一緒に連れて行きませんか?」
「ちょっと!」
いきなり安藤に無茶ぶりされた樋田看護師が、あわてて遮る。しかし勢いのついた安藤は止まらない。
「だって、樋田さんだってバツイチだし、息子さん以外身寄りだって無いって言ってたでしょ。このまま社長と鈴佳さんが引っ越してしまったら、この割の良い仕事も無くなるのよ。できるだけ長く続けたいって言ってたのは、あなたでしょ」
むきになって怒鳴りつけるように叫んでいるのを見て、鈴佳が食事の手を止めた。だいたい「社長」って、俺は雇用主ではあるけれど、お前はうちの「社員」じゃないだろ。看護師たちは登録している人材会社から、俺個人に対して派遣されている立場だ。
「それはそうだけど、何もこんな時に急にそんなこと言わなくても!」
そう言った樋田看護師は、鈴佳に「ごめんね」と声を掛け、手を添えて食事を再開させる。しかし安藤の方は、説得を諦める気など無さそうだ。
「今だから良いのよ。きっと社長だって、今より良い条件を出して下さるわ。あなた子どもを全寮制の進学校に入れて、お金がかかっているから、今の仕事は助かるって、言ってたじゃない」
聞いていたらこの女、遠慮も何もあったものではない。おまけに安藤看護師の脳内で、雇用条件アップへの期待が、勝手に暴走しているようにも見えた。ここはブレーキを掛けよう。
「いや、元々あっちで派遣看護の会社を探して、当てをつける予定だったからね。まだ三ヶ月以上あるし。樋田さんも無理をしないで欲しい」
そう言った途端、樋田の方も何故か必死になった顔を俺に向けた。
「そんな、社長さん、あの、この仕事が無くなると困るんです。これのお陰で、何とか借金無しに子どもを学校にやれる目途がついたんです。何処へでも行きますから、ずっと雇って下さい。子どもはまだ、一年生で、これから二年半以上あるんです。卒業までには大学への進学費用も貯めなきゃならないんです」
はー、それぞれ事情があるのは分かるが、全部見境無く面倒を見るわけにもいかんしなぁ。でも、この二人は看護師としてそれなりに優秀だし、囲い込むか。
そんなことを考えていた俺を、皿にあった食べ物を食べ終えた鈴佳が、きょとんとした目で見る。そして問いかけるように口を開く。
「だぁ?」
うん、まだ一語文がせいぜいだ。でも「だぁ」ってのは何だ?
どう考えても「父さん」だな。俺もいつのまにかパパになってしまった。
そう言えば鈴佳、口内炎は大丈夫なのか?




