◆01◆
新規連載始めました。ジャンルとしては『ゆるゆるチート』物と考えております。先行して連載中の『俺は暁の盗賊ブドリだ』も読んで下されば嬉しいです。
俺は宇宙船を拾った。
いや、逆に拾われたというのが正しいのか?
第四種接近遭遇という言葉がある。UFOによる人間の拉致やその後の人体実験の体験を語るときに使われる。
『abduction』は引っ張るとかいう意味なのかな?
まあいい、どうせ俺は語学が不得意だ。とにかく俺が体験したのはそれだ。というか、体験している最中だ。
俺は二十八歳、日本人、四流大学卒、現在無職、胴長短足、彼女無し、友達無し、イケてない男だ。一応今は健康だと思う。あ、花粉症あるけど、季節的なものだしね。まあ、呼吸器系に難ありか。
住んでいたのは北国の僻地。大卒で就職して、三年半頑張ったけどやっていけなくなって、失業した。あれから一年余り経って考えると、会社のせいと言うより、自分の資質による部分が大きいと思う。そんなに極端にブラックな職場じゃなかった。
同僚というか、先輩というか、同じ職場の人たちも、そう悪い人間はいなかったと思う。俺を虐めるような奴は、いなかったんじゃなくて、そもそも興味も持たれなかったんだ、実は。
あ、OJTでチューターやってくれた先輩は、当時相当親身になって面倒見てくれた。だけど、その期間が過ぎたら、関係は希薄になった。そうしたのは俺自身だ。
でまあ、結局人間関係を築くのが下手な俺は、仕事でヘマをしても取り繕うだけの技量も人脈も持たなかった。最後は『自己都合』の円満退職で身を引くこととなった。
それが気に入らなかった母親と気まずくなって、疎遠になった。親父が死んだ時、全財産を母親に継がせてくれるようにという遺言があり、兄姉と相談して遺留分も全部放棄した。
親父はあの女がどんな人間か理解していて、老後が心配だったんだろう。親父が稼いだせいで、ずっと『奥様』をやっていて変にプライドが高いだけで、結局は自立できない人間だった。
金が無くなれば、誰も『奥様』なんて奉ってくれない、魅力の無い人だ。かといって独りで生きていくこともできない、孤独に堪えることもできない女なのだ。
まあ俺と母親が疎遠になったのは、元々性格的に彼女に阿ることができなかったというせいもあるが、無職になった俺に金をせびられるのではないかと勘ぐられたことが大きいと思う。
俺自身はそんなつもりは無かったけど、後で姉に聞いたところによると、母親は俺をそう見ていたらしい。確かに、俺にはそう大した蓄えがあったわけではないので、世間的にそういうことを母親の耳に吹き込む人間がいてもおかしくはなかった。
で、俺は母親と縁を切ることにした。お互い関わらない方が、心の安寧のために良いと思ったからだ。その時いろいろ言われたせいで、兄姉とも絶縁することになってしまった。これは意固地な俺自身のせいだ。
俺はこういう人間だが、そんな俺を気にかけてくれた人もいた。それが親父の弟、叔父である誠次さんだ。この人には子どもが無く、去年亡くなった時全財産を俺に残した。俺と母親の確執や、最後にはそのせいで兄姉とも疎遠になったことを聞いて、気の毒に思ってくれたらしい。
兄や姉は結婚に際して、親父からいろいろと支援してもらった。母親も相手の家への面子からか、かなりの金額を出すことにも反対しなかったそうだ。それに比べて俺は……と、誠次さんの遺言には書かれていた。
まあ、親父が死んだのは俺が就職したばかりの頃で、おまけに俺の性格では結婚相手などいるはずがなかった。
ただし、彼が俺に残してくれた財産と言っても、それほど大したものではない。叔父自身が親族から受け継いだ僻地の山林と、七・八年前引退する際に彼がそこに建てた平屋の家、それから二百万ほどの預金だけである。
叔父は親父の血筋である俺たち兄弟以外の近親者はいなくて、兄も姉もバスが通る道路まで車で一時間もかかるような、そんな山奥の物件など欲しくもなかったのだろう。俺の相続について一応連絡したが、何の反応も無かった。
だがそれまで住んでいたアパートを引き払って、僅かな家財を軽自動車に積み込み、その家に引っ越してみると、俺にとっては全く不満のない住処だった。
引退するまで建材会社に勤めていた叔父が里山の高台に建てた家は、平凡な見かけにも関わらず高機能な建材を贅沢に使った、立派な建物だった。
水源は地下水を汲み上げ貯水して使っている。窓・壁・屋根・床の断熱や換気には贅沢なほど配慮した設計で、インターネットの光回線が引いてあった。凝り性の叔父は家の近くの傾斜地に太陽光発電のパネルを設置し、それで全ての電力を賄おうとまでしたらしい。
だが冬期間の積雪により、年間を通して十分な電力を得ることはできなかったようだ。結局近くの集落から電力線を引いて不足分を補うようになっていた。それらの分に費やされた資金を、現金で残してくれていたらという俺の気持ちはやっぱり贅沢なのだろう。
叔父が残してくれた預金は、二百万より少し多かったのだが、相続税や関連の諸費用に大分使われてしまった。それでもこれから住む場所の心配はしなくて済むことになったのだから、叔父に感謝しなくてはならないと俺は思う。
今思えば俺の幼い頃、俺を構ってくれる肉親と言ったら誠次さんだけだった。兄姉と十歳以上歳の離れた俺は、母親が四十近くなってからの、いわゆる『恥かきっ子』だった。
その母親と更に一廻りも歳の離れている父親は、仕事が忙しすぎて俺に関わる暇が無かった。母親の方は、年齢が高くなってから俺を産んだことで、自分の美貌が損なわれたと感じていて、それを思い起こさせる俺の存在を疎ましく感じていたらしい。
それで俺への授乳は本当に最初の頃のみで、後はほとんどが粉ミルクになり、それも当時まだ家にいた『ねえや』の手に委ねられたと聞いた。二十年以上前でいくら地方でも、『ねえや』なんてものは絶滅危惧種だったみたいだが、母親が親父に強請って手配させたという。
無論俺が物心ついた時には、『ねえや』はいなかった。かなり歳のいった『お手伝いさん』がいるのみだった。母親は兄姉の育児教育にはそれなりに手をかけたのだと思うが、俺については放置状態だった。
家のことも、口は出すが実務は『お手伝いさん』に丸投げしていた。だが自分より一廻り以上も若い連れ合いにまだべた惚れの親父は、文句を言わなかった。
兄姉も母親に無視されている俺を低く見ていて、「勉強も運動もできない馬鹿な奴」とはっきり口にしていた。
そんな中、誠次さんだけは俺のことをずいぶん気にかけてくれた。俺が自転車に乗れるようになったのだって、ある夏の日、一日かけて誠次さんが教えてくれたお陰だ。高校、大学への進学でも、学業が振るわない俺の相談に乗り、親父に『お願い』する勇気を持たせてくれたのは誠次さんだった。
だから今回のことが無くても、誠次さんとの記憶は俺にとって大事なものだった。
そうやって俺が田舎暮らしを始めて、二度目の夏を迎えた頃である。俺はUFOに掠われた。