9話:メイドと先生
シオン視点
眠れずに迎えた早朝、部屋の外にもはや聞き慣れた足音を聞いた。
「シオンさま、洗顔の水をお持ちいたしました」
「入れ」
眠る時間でもないと諦めて、私、シオン=イル=フォルラインはベッドを降りる。
シュピーリエは手慣れた動きで、洗面器に水を張った。
「昨夜のマリーさまへの非礼は、ご報告いたしません」
「…………助かる」
シュピーリエはあくまで父の使用人だ。
私の命令は聞かないし、報告する先も父が優先される。
家を出た後の五男など、本家の使用人からすれば大した重要性はないのだから。
水を掬って顔を洗うと、普段は無駄口など叩かないシュピーリエが声を発した。
「ようやく自覚なさいましたか?」
「ごっふ…………!? げほ!」
突然のことに、洗面器の水が気道に入る。
咽ながら横目にシュピーリエを見れば、訝しげな表情を浮かべていた。
「まさか、あれで無自覚なのですか?」
「いや、違…………! い、いつから、お前は…………」
あまりに当たり前のように言うため、私も改めて自分の気持ちを口にするのが躊躇われる。
「シオンさまが、マリーさまにいつから惚れていたかということでしょうか?」
「ぐぅあぁぁぁあ…………」
改めて言われると、一晩私を苛んだ羞恥心が再燃した。
冷たい水を顔いっぱいに叩きつけても、顔の熱が取れない。
「水を撒き散らさないでください」
そう言いながら、シュピーリエはタオルを差しだしてきた。
受け取り水気を拭うと、少し冷静になれる。
とは言え、自ら自覚していなかった感情を、傍から気づかれていたと言われることに抵抗がなくなるわけではない。
「…………いつからだ?」
「ほぼこちらに来て直ぐです」
「ぐぅ…………」
本当に? いや、シュピーリエは嘘や冗談を言う手合いじゃない。
というか、おべっかすら言えない正直者すぎて、家を出た私にも困ったメイドがいると聞こえるほどだったんだ。
「まさか、惚れ薬を口にして、効果がなかったために意中の相手が目の前にいることに気づくとは思いませんでした」
「そ、それを…………マリーさまには…………?」
「申し上げておりません」
安堵するような、いっそ言っていてくれれば開き直れるのにと惜しむような、そんな狡い考えが過る。
昨日、私は確かに惚れ薬の入ったチョコレートを食べた。
けれど効果はなかったのだ。つまり、私には意中の相手がいる。
いないと仮定するならば、最初に目を合わせたのはマリーで、マリーに惚れなければおかしい。
けれどマリーが最初から意中の相手だったからこそ、私のその後の行動になんら支障がなかったと言える。
という考えに至り、昨日、私は父の手違いで召喚してしまった少女に恋をしていることを自覚した。
「指輪をお渡しになった時点で、どうして気づかなかったのですか? マリーさまがおっしゃるには、迷わず右手の薬指にお付けしたのでしょう?」
「今日は、よく喋るな…………」
「マリーさまの今後に関わりますので」
つまり、私が自覚してマリーに不埒なことをしないようにという牽制か?
さすがにそこまで自制の利かない人間じゃない。
「…………言い訳になるが、本当に指輪は、マリーさまを煩わせることのないよう、考えてのことだった。かつての聖女さまの中には、異性関係で窮地に陥る方もいらっしゃった例が幾つもある」
「そこまで無自覚だとは、あなたはもっと賢い方かと思っておりました」
「何?」
嘘が吐けないにしても、もっと言い方はあるんじゃないだろうか?
その、当たり前のことを言ったみたいな雰囲気出すのをやめてほしい。
五男じゃまともに相手をするのも面倒がられる立場だとわかってはいるけれど、もう少し仕える者の息子であることを覚えておいてほしいものだ。
「まず、こちらに移ってからのご自身の献身ぶりをなんだと思っておいでだったのですか? 次に、必要とは言え指輪を自作なさった意図が本当にマリーさまの為だけだとは思えません。また、イベントごとに無関心だと学校関係者からも言われるあなたが、マリーさまの気を引くように参加なさっています」
「い、一気に言わないでくれ。…………頼む」
「この程度でですか? なんと脆いことでしょう」
「ほ、本当に無自覚にしていたんだ」
また顔が熱くなってきた。
確かに言われるとそうだとしか思えない。
私は、マリーの気を引こうとずいぶん時間を作っていた。
最初は、天の国の話を聞けることを喜んでいたんだ。七属性という、初めて見る魔法の才に興味も引かれた。
才能に驕ることなく、現状を悲観するでもなく、日々を笑顔で過ごすマリーから、いつの間にか目が離せなくなっていたように思う。
私とは、まるで正反対の、眩しい存在だと。
「シオンさま、そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか?」
「まだ何か言うつもりか!」
「マリーさまはご就寝中です。お静かに」
う、よく考えたら意中の相手が隣の部屋で無防備に寝ているのか。
考えると落ち着かない気分になる。
そんな私の様子に気づいたのか、シュピーリエは目に殺気を宿した。
「たとえフォルライン卿のご子息と言えど、マリーさまのご許可なく寝室への立ち入りは、その命をもって贖っていただくこととなりますので、覚えおきください」
魔法の腕は確実に私のほうが上だ。
だというのに、何故かこの瞬間、私はシュピーリエに勝てないと確信した。
私が神妙に頷くと、シュピーリエは本題に入る。
「マリーさまを落とす覚悟はおありですか?」
「ちょっと待て!」
急すぎる! 全ての話の持って行き方が急すぎる!
正直者というより、言いたいことしか言わないのか、このメイドは!
私の考えを肯定するように、シュピーリエは頭を抱える私を無視して喋り出した。
「マリーさまから聞くシオンさまの評価は総じて高いのです」
「何…………?」
「だというのにこの体たらくでは、いずれ幻滅されることでしょう」
上げて落とされた!
い、いや、だが確かにマリーからの評価が高いと言っていたな。
「見目が良いのはそのままですが、穏やかな教育姿勢や知的好奇心を持ち合わせる性格にも好感をお持ちのようです」
「そ、そうか」
ちょっと喜びそうになったが、シュピーリエが言うことなので警戒してしまう。
「フォルライン卿のご子息とは言え、五男では継げる財もなければ、魔術学園で大成できそうもない覇気のなさですが、それでもマリーさまはお気になさらないようです」
「やっぱり落としてきた…………」
「何か?」
「いや、なんでもない。それで、どうしていきなり私がマリーさまを落とすと言う話になるんだ? 君の目的は何処だ?」
それまで無表情だったシュピーリエは、薄氷が溶けるようにゆっくりと微笑みを浮かべた。
「私は、マリーさまに生涯お仕えしたく思います」
「生涯? だが、マリーさまは三年後には…………そういうことか」
三年後にマリーが帰りたくないと自ら言うように、誰かに心を移してしまえばいい。
それは、かつての聖女召喚を行った国々が企んだことと同じ。だが、もはや私にシュピーリエの考えを諌めることはできない。
マリーの残留を望むのは、私とて同じ思いなのだから。
「…………確かに、私を男として見ていただけなかったとしても、あの方に仕えられると言うなら、魅力的な話だ」
「だからあなたは駄目なのです」
「待て…………。君は私が嫌いか?」
「いえ。好悪の感情を特に抱いたことなどございません」
それでその言いようか?
実は口が悪いのではないだろうか、このメイド。
「私は、マリーさまを落とす覚悟を問うたのです」
そう言い放つシュピーリエの声には、有無を言わせない強さがあった。
きっと、シュピーリエはすでに覚悟を決めているのだ。
マリーと離れることがないよう、できる限りの手を打ち、望みを叶える覚悟を。それがたとえ、帰還を望むマリーの意志に反することだとしても。
主と定めた人間の意志を覆す、決意を。
「…………ここで時間をくれなどといっても、君は別の誰かを引き込むつもりなのだろうな、シュピーリエ?」
「はい。シオンさまにお声かけいたしましたのは、もっとも私に近く、私の貢献を汲んでマリーさまに仕え続けるよう配慮していただける方であるためです」
考えるに、これはシュピーリエの独断だ。父からの指図ではない。
ならば、マリーの残留に父は反対するだろうか? 初対面でずいぶんとマリーに罪悪感を刺激されていたらしいが。
「ないな」
「それは、私の申し出を蹴るということでよろしいでしょうか?」
「いや…………、この先の私の人生に、マリーさま以上の方が現れることはないだろうと思ったんだ」
「そのとおりかと存じます」
「全く、本当に正直者だ」
いや、いっそこれくらいあけすけに言われなければ、私はこの先、マリーが帰還する時まで、何かと理由をつけて覚悟を決められなかっただろう。
私に対する対外的評価は、シュピーリエの言うとおりだ。そのことは私が一番よく知っている。いい先生だなどと、家の名も気にせず言ってくれたのはマリーだけだった。
そう思えば、ここにシュピーリエがいてくれたのは、天の助けとも言える僥倖だ。
「覚悟を、決めてみようか」
冴えない五男で終わるには、私の人生まだ早い。
思いを寄せた女性と結ばれる。そんな花が添えられてもいいはずだ。
「そのような腑抜けた返事は受領いたしません」
ちょっと将来に希望を持った私の心を叩き折るように、シュピーリエは言い直しを要求してくる。
本当に遠慮がないな。
「私は、マリーと添い遂げる。帰還の願いを覆すからには、必ず幸せにすると誓おう。君にはそのための手助けをしてほしい」
「了承いたしました。今後は、遠慮なく口を挟ませていただきます」
う、ちょっと早まった気がする。
シュピーリエの眼光は獲物を狙う猛禽のように鋭くなっていた。
毎日更新、全十六話予定
次回:卒業パーティの二次会