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十環伝  作者: kiori
才獄城編
9/92

それはいつも神様のせい 〈後〉

 頭に布を巻き、端っこを首の後ろで縛った。異国の男性が、そんな風に布を頭に巻いているのを見かけた。更に斜木は、男の子のような穿き物を用意していて、それを十環に渡した。

 十環は他の少女と比べれば肉付きが良くないし、こういう格好をすれば少年に見えなくもない。何より、観察眼の優れているあの才でさえ、少年だと思ったのだから。


「これを着るんだ、ここにいる間は男の子として振る舞うんだぞ。名前も、本当の名前は言うな」

「……はい。でも、どうして」

「女の子は何かと危険だからな、そうした方がいい。それと、予定より早くこの町を出るぞ。思ったより、日当が少なかったんだ。また別の町で金を稼ごう」

「……分かりました」

「何かあったら、すぐに知らせるんだぞ」


 十環は何があったのかを問い詰めたい気持ちもあったが、その答えを聞くのが怖い気がして質問を飲み込んだ。



 昨日言われた通り、再び仙葉堂を尋ねると、昨日とは別の人が店に立っていた。

 十環が声を掛けると、きびきびしたその女の人『あぁ、話は聞いているよ』と店の奥へと連れて行ってくれた。


「いつもうちを贔屓にしてくれるお得意様だから、くれぐれも失礼のないようにね。亭主が、賢そうな子だから大丈夫だろうって言っていたけど。でも、女の子が来るって聞いていた気がしたんだけどね」


 連れていかれる廊下の途中で、そう言われたのに曖昧な返事をすると、それほど気に留めていなかったようで、そのまま話を続けた。


「獣の輸出入をしている方で、その仕事道具の掃除を頼みたいらしいわよ。難しい仕事じゃないから子どもでいいって言われていたから丁度良かったわ」


 獣の……。ここにはいろんな商人が集まると聞いていたけど、そんな珍しい商売をする人もいるのかと、十環は感心した。

 

「そうだ、あんた名前は?」

 

 しまった。おじさんに名乗らないと約束したのだった。

 何処か怯えた斜木の様子と、自分の中に鳴り響く警鐘のようなものに気を取られて考えていなかった。


「え、と、と……十季(とき)、です」


「十季ね。じゃあ、ここで待ってなさい」


「は、はい」


 案内されたのは、仙葉堂の裏にある広い倉庫のような場所だった。

 咄嗟に口から出た新たな名前を、ぶつぶつ唱えながら倉庫内を見回した。

 幾つもの大きな四角いものに布がかけられていて、中は見えないが錆びの匂いがにした。布に手を伸ばしかけた時、背後に人の気配を感じた。


「……お前が、仙葉堂が言っていた子どもか?」


 浅黒い肌にがっしりとした体格の大男が立っていた。

男の身体からは、仄かに甘い独特な香りがした。

 

「はい」

「外に井戸があるから、これでそこにあるものを洗え」


 その大男は、藁を束ねたものを放り投げて、無表情で吐き捨てるように言って出て行った。雰囲気からして、この町の人間でない事が伝わってきた。商人にも見えない。

 男から香った匂いを、いつかどこかで嗅いだ気がしたが、どうにも思い出せなかった。妙な違和感を感じながらも、倉庫の端にあった桶を見つけて外の井戸で水を汲み上げた。

 商人が商品を守る為に、護衛を雇うという話も聞いたことがあるから、それかもしれない。

 十環は、斜木から感じた不安が、自分の思考を臆病にしているだけだと心の中で言い聞かせた。


 しかし、ぼんやりしていたその不安は、次の瞬間に、はっきりとした輪郭を現した。


 覆うように掛けられている布を掴んで一気に取り去ると、大きな檻が目に映し出される。中には何も入っていないが、その刹那、鉄の匂いが鼻孔を突いた。

 他の布もはぎ取って見ると、人一人が入れそうなその大きな檻は、倉庫の中に五つあった。


 十環は、自分が揺れているのか、地面が揺れているのか分からなくなって膝からくずおれた。


 間違いなく、この檻は、黄蘭の屋敷にあったものだ。

 檻に囚われた子どもをねっとりした笑みを湛えながら眺める黄蘭が、鮮明に脳裏に蘇った。

 手も足も力が入らず、しばらく地面にへたり込んだままでいると、倉庫の外に足音が響いて、我に返った。その足音は倉庫の横を通り過ぎて遠ざかっていく。この倉庫に用のある人間ではなかったらしい。


 震える足を拳で叩いて、何とか立ち上がり出口へ足を向けた。

 倉庫の外に出たところで、胃から逆流してきた液体を抑えられなくなり吐いた。


 近くに、黄蘭がいる。

 

 今すぐ、ここを離れなくては。

 十環は、倉庫から離れようと力の入らない足を引きずった。

 もしかして、おじさんは、このことに感づいていた?

 でも、それならすぐにでもこの町を出たはず。

 他にも何かがあるの?


 十環の脳内は目まぐるしく情報が錯綜した。

 混乱する意識の中で、ある事実に気づいて足を止めた。


 ここに、空の檻がある。それは、新たに子どもが囚われる、ということ。

 

 それに気がついた時、恐怖を凌駕する感情が全身を巡った。

 十環は意を決して倉庫に戻り、藁を束ねたものを拾ってそれで檻を洗った。

 男が戻ってきたのは日が傾き始めた頃だったが、全ては終わらず、掃除を終えられたのは三つだけだった。


「もういい、仕事は終わりだ」


 大男は、綺麗になった三つの檻を見てそう言った。


「明日も……」

「いや、もうこれで終わりでいい」

「どうして」

「予定が変わったんだ。これが、駄賃だ。さっさと行け」


 大男は銅貨を三枚、地面に投げて無表情な顔のまま言い捨てた。


 予定が変わったというその一言に、嫌な予感がした。

 子どもを調達し終えたと言う事ではないか。


 十環は震える手を隠して銅貨を拾い、足早にその場を去った。

 

 仙葉堂の方へ戻ると、先程案内してくれた女の人が、帳面をつけているのが見えた。


「すみません」

「あぁ、もう終わったの? 仕事は取り止めになったらしいね、違う仕事を紹介しようか?」

「……あの、さっき倉庫に来た大きな男の人が、獣の商売をしている人ですか?」

「大きな男……? あぁ、それは比場(ひば)さんの部下よ」


 告げられた名前に、聞き覚えがあった。黄蘭の傍でその名前を聞いた気がする。


「比場……?」

「獣の商売をしている頭目よ。さっきお戻りになって、倉庫の方に行ったけど、会わなかった?」

「いえ……」

 

 倉庫へ引き返そうとするのを見て、その女は十環を引き留めた。


「あぁ、もう帰った方がいいわ。商品が手に入ったらしいけど、いつも商品が届いたら絶対に倉庫には近づかないように釘を刺されるのよ。いつもは穏やかな方だけど、それに関してはとても厳しく言われていてね。命に関わりますよって。どんな猛獣なのかしら」


 十環にはそれが、相手を思って発された言葉でない事が分かった。

 それを見たものは生かしておけない。そういう意味だ。

 



 

 斜木は、例の噂話を教えてくれた喜多羅(きたら)という男が、この港一帯の男達をまとめる頭領だと知り、船に乗る方法はないかと相談した。


「どこまで行くんだ?」

「できるだけ遠くがいい。できるだけすぐに」

「それなら、明日の朝、李国行きの船が出立する予定だが」

「李国……」

「二人くらいなら、乗せてもらえるよう話をつけられるが、ひと月以上は航海するから結構金がかかるぞ」


 異国へ行けば、十環の悪い記憶も遠くに葬り去れる。

 何処まで伸びてきているのか分からない陰に、怯えることなく暮らしていけるはずだ。

 

 そう決意して宿に戻ると、まだ十環は戻っていなかった。

 胸騒ぎがして宿を飛び出したところに、少年の格好をした十環がぼうっと立ち尽くしていた。


「十環」


 名前を呼ぶが、目の焦点が定まっていない。

 何かあったんだ。


「十環、明日この町を出よう」


 そう言葉を掛けると、十環は息を震わせ、血の気のない顔をぎこちなく斜木に向けた。


「おじさん……」


 斜木はあたりを見回し、怪しい人影がない事を確認すると、十環を抱えるようにして部屋に戻った。

 そして、白湯を飲ませて、十環の震えが治まるまで背中をさすった。

 

 十環は白湯を飲みながらも、喉が渇いていく感じがした。


「……あの、男を、見ました」

「あの男って、もしかしてっ」


 黄蘭。その名が頭をよぎって、斜木は思わず叫んだ。


「……比場という男です」

「比場?」


 十環はあの後、帰る振りをして柱の陰に隠れ、帳簿に集中している女の目を盗んで倉庫の方へ戻った。

 日が落ちてあたりは暗くなっていたので、目立たずに倉庫の近くまで戻ることができた。

 仙葉堂の建物と倉庫の間にある馬小屋の陰に身を隠していると、しばらくして倉庫の戸が空いた。そこから姿を現したのは、大男と、黄蘭の屋敷で見たことのある男だった。

 あの男が比場だ。


 名前と顔が一致すると、おぼろげだった記憶が繋がっていく。

 比場が黄蘭のもとに訪れるのは、半年に二回くらいだった。そして、比場が訪れた後には子どもが増える。時々、減ることもあった。

 比場こそが黄蘭のもとに子どもを運んでいた張本人だ。


 十環は、今日見た全てと分かった事実を斜木に話した。


「多分、今日、誰かが捕まった。……助けなきゃ……」

「十環、もうこれ以上関わっちゃだめだ。明日の朝、ここを発つ。知り合いが、手はずを整えてくれてる。それまでは部屋でじっとしてるんだ」


 斜木は、首を振る十環の肩を掴んで強く言った。


「万が一見つかったらどうする!」


 十環の瞳から、大きな雫が零れ落ちた。


「……知ってるから。私は、あの檻がどんなに冷たくて、痛くて、恐ろしいか、知ってるから。誰にも、声が届かなくて、指の皮がはがれるくらい力いっぱい引っ張っても、びくともしない格子が憎くて……それから」

「もういい。分かったから……もう泣くんじゃねぇ」


 十環の冷たい身体を抱きしめた。

 二十年前、娘が死んだ時のような、胸が張り裂けそうな痛みが襲った。

 この子を守る為には、命だけじゃだめだ。心も守らなくちゃならねぇ。

 

 斜木は、心に深く誓った。




 

 斜木は十環に危ないから来ないように言ったが、どうしても来ると聞かなかったので、二人は安宿を出た後、仙葉堂に向かった。


「あら、さっきの。十季、だったかしら?」


「十季?」

 

 聞きなれない名前で呼ばれた十環を見ると、こっちを見ないで、と言うように肘で小突かれた。

 自分が本当の名前を名乗るなと言ったのを忘れている。


「あの、今日一泊なんですが、部屋は空いていますか?」

「ここに泊まるの? ここは、他に比べて少し高いわよ」

「あの、凄く狭い部屋でいいので、できれば少しまけてください。先払いしますから」


 こんな時に値切るなんて、ちゃっかりしている。斜木は心の中で驚いた。

 

 案内されたのは、この仙葉堂では一番小さな部屋だったが、ゆったりとした寝台もあり、居心地がいい事は間違いがなかったが、その部屋には用がない。

 この仙葉堂に入ることが目的だった。

 茶屋の奥に客室があり、仙葉堂の建物の裏にあの倉庫がある。倉庫の裏には荷馬車などが出入りする門があるが、そこには門番が立っていてそこから入るのは無理だ。


 客室のある所から倉庫のある方へ抜けるには、先程女の人が帳面をつけていた部屋を抜ける必要があるが、皆が寝静まった深夜にはすんなりその部屋を抜けることができた。


 十環が、後ろに続いてくる斜木に目だけで合図を送り、やはり、倉庫の前にはあの大男がいることを伝えた。

 比場はとても慎重な男に見えた。できるだけ身の回りに置く人間は少なくして、腹心だけを使うだろうと予想した。それがきっとあの大男だ。


 大男の傍で燃える松明のおかげで、暗がりでも周辺を見渡すことができた。

 比場の姿はない。倉庫の戸に錠前ついているのを見ると、中ではなく、仙葉堂の部屋のどこかで休んでいるはずだ。


 斜木は、鋭い視線で倉庫を見つめる少女が、甘い果物を頬張って笑った子どもと同一人物だとは思えなかった。

 頭の回転の良さには舌を巻くが、それがこの子の運命を、余計に狂わせてしまったようにも思えて心が痛んだ。


 そして、十環が手はず通り、大男の方へ歩き出した。


 男は近づいてきた足音に素早く反応して、松明の明かりを向けた。


「お前はさっきの……何の用だ」


「比場様から言付けを預かってきました。すぐに部屋に来て欲しいそうです。問題が起こったからと」


「何? どうしてお前が」


「あの後もう一度、仙葉堂で仕事が欲しいとお願いしているところに、比葉様が通りかかって、小間使いに雇ってくれたんです」


「……」


 大男は不審げに眉をひそめた。無理もない、全くの嘘だ。

 それに、慎重な主人の性格を知っているこの男ならば、簡単に信じたりはしないだろう。

 そこで、十環は用意していた続きの言葉を話した。


「何でも、こうらん様、という人のことで至急話があるとか」


「!?」


 大男は途端に目を剥いた。


 これは才にも話したが、黄蘭という名は極少数の人間しか知らないはずだ。黄蘭には本当の名が別にあって、比場が何度かその名を口にした事があったが、その時、黄蘭は必ず『ここでその名を呼ぶな』と怒った。

 耳慣れない響きの名前と、意識が朦朧としていたのもあって記憶できなかった。比場はその度におどけて謝るが、その名を知っていることを誇示しているように見えた。

 つまり、黄蘭という名前は、あの屋敷の存在を知っている者だけが知る名ではないか。

 

 大男は一拍考えた後、足早に仙葉堂へ入って行った。


 あまり時間はない。大男が比場の元へ行けばすぐにバレて引き返してくる。

 斜木は男と入れ違いに陰から出て来て、早速倉庫の錠前に先が丸まった鉄の棒を差し込んだ。 荷下ろしの仕事で、荷を縛ってある縄を切る為の細い鉄に刃がついた物で、それを先の方だけ丸めたらしい。

 そんなものでこの頑丈そうな錠前が開くのか不安だが、今は斜木に懸けるしかない。

 すると、あっという間にカチャリ、と音がして、十環は思わず斜木を仰ぎ見た。


 その向けられた視線には、これまで感じたことのない尊敬のようなものが滲んでいる気がして、斜木はこんな状況でありながらも照れた。


 戸を開けるまでのほんの一瞬の間、十環は心の中で祈った。誰もいない方がいい。その方がいい。


 しかし、祈りも虚しく、戸を開けて松明の火をかざすと、五つの内、一つの檻の中に、高貴な着物を纏った少女が横たわっていた。


「おじさんっ」


「あぁ」


 斜木はすぐに檻の鍵に取り掛かる。と、すぐに鍵の開く音が再び聞こえた。


 鍵を素早く開ける仕事があれば、おじさんは有名人になれるのに。と十環は無意識に感心した。

 鍵を開けて脱獄を繰り返したから有名になった、ということはすっかり忘れていた。


 囚われた少女はぐったりとして、起きる様子が無かった。何か薬を盛られて深く眠っているようだ。


 斜木が少女を背負い、二人が倉庫を出た時、仙葉堂から駆けてくる足音が聞こえた。

 大男が戻ってくる。二人は急いで裏門へ向かった。


「お客様のご息女が、お倒れになりました! 早く門を開けてください!!」


 十環が走りながら叫ぶと、門番は疑うこともなく門を開けた。

 門を抜け出ても、二人はしばらく走り続けた。 空が白み始めるまで、ふらふらになりながら走った。

 途中、斜木の足元がもつれて転び、背負っていた少女は地面に投げ出された。二人が慌ててそばへ寄ると、顔に擦り傷が出来ていた。

 気まずそうに斜木が十環を見ると、十環は『助けたことで、ちゃらにしてもらおう』と、心の中で言い、ただ頷いた。


 すぐに背負い直して、近くの民家の納屋に忍び込んだ。


「十環、奉行所まで、あと、どのくらいか、分かるか?」


 斜木は肩で息をしながら聞いた。


「……まだ、だいぶ先……」


 細い道を選んで進んでいるので、通常より時間がかかる。この町の地理に疎い分、こちらが不利だ。何よりこのまま少女を背負ったまま逃げ切るのは、到底無理だ。誰かに助けを求めれば、その人も危険に巻き込んでしまう。もしかしたら、先回りされているかもしれない。


 とにかくあの檻から逃げ出せれば、助けられると信じていた。しかし、目の当たりにしている状況に、十環は頭を抱えて目を固く閉じた。

 すると、ぽん、と頭に重みが加わった。斜木が、頭の上に手を乗せたのだ。


「十環、おいらに作戦がある。信じてくれるか?」

 

 十環は、こくっと頷いた。


「この子を、一旦ここへ置いて行く」

「それは駄目!」

「大丈夫だ、後で絶対戻ってくる。今、あいつらが探してるのは、多分、動けないこの子じゃなくて、十環だ。おいら達が、ここで捕まれば、この子を助けられる奴はいなくなる」


 斜木の話は最もだった。巨悪の存在を知るのも、この少女の居場所を知るのも自分達だけ。誰にも伝えられずに捕まったら、そこで終わり。

 でも。でも。


 十環の心が伝わってきて、斜木はなだめるように頭を撫でた。


「大丈夫だ。絶対この子は助ける。だから、今はおいらを信じてくれねぇか」


 十環は溢れてきそうな涙を堪えて唇を噛み締め、もう一度、ゆっくり頷いた。


 夜明けの光が海に見えた。

 先を進む斜木について、力を振り絞って駆けていくと港が見えてきた。

 大きな船が停泊している。


 船に近づくと、誰かがこっちに手を挙げた。


「おう、来たな! こっちだ!」


 筋肉隆々ないかにも海の男、というような風体のその男に向かって斜木が叫んだ。


「喜多羅っ。間に合ったか?」

「あぁ、時間ギリギリだ。お、その子が娘か? 美人だな。母親似か?」


 喜多羅という男は、少年の格好をした十環を、一目で女子だと見破った。十環は訳が分からず、がははと能天気に笑うその喜多羅と斜木を、混乱した面持ちで交互に窺い見た。


 斜木は無言で、その男に向かって何かの合図のように頷いた。


「ほら、嬢ちゃんこっちだ。そこを渡るんだ。危ないから、ゆっくりな」


 男に促されて、港から船に掛かっている板を渡って、乗船した。後ろを振り返ると、後に続いて来る思っていた斜木は港でこちらを見上げていた。その隣で、喜多羅が何処かへ向かって手を挙げると、船に掛かっていた板がせり上がってしまった。


「待って、おじさんが! おじさん!!」


 斜木は溢れて来る感情を抑えきれず、嗚咽を漏らしなが十環を見上げた。


「十環!先に行っててくれ!後で、絶対追いかけるから!」


 待って。焦りで頭が真っ白になり、言葉がうまく出てこない。どうしよう。おじさん。


「嫌だ!おじさん!」

「あの子を助けて、絶対追いかける!十環!」

「おじさん、嫌だよ!私も一緒に行くから!おじさん、置いて行かないでっ!!」


 出航の合図の鐘が鳴り響き、声が掻き消される。

 喉が避けるくらい叫んでも、もう十環の声は斜木に届かなかった。

 そして、ギシギシと軋む音を立てながら船が動き出した。


「おじさんっ!!おじさんっ!!」


 港からぐん、ぐん、と離れていき、斜木の姿が小さくなって行く。

 斜木も何か叫んでいる。


「おじさん……っ」


 声が聞こえない。顔が見えないよ、おじさん。


 港が海の水平線に消えた頃、船員の一人が肩を叩いた。


「これ、荷物を預かってたんだ」


 渡された風呂敷を広げてみると、衣と才から貰ったお金が入っていた。

 最初から、そのつもりだったのだ。様子がおかしかった。何か、予兆があって、私を先に逃がそうとしていたんだ。


 魔の手から逃れられた安堵など、微塵も感じることはなく、心にぽっかり空いた穴が全身に広がっていき、そのうちその穴に飲み込まれてしまう気がした。


 泣き疲れて落ちてくる瞼を閉じれば、そのまま消えてしまえたらいいのに。何もそこに居なかったみたいに。風に吹かれて、砂のようにさらさらと消えたい。

 

 でも、そんなことはあり得ない。肉体があって、心がある限り、どんな痛みも続く。右手の痺れる痛みも、刺すような心の痛みも。それを抱いたまま立ち上がる力も。

 神様はそういう風に、私達を作ってしまった。




 へたり込んだまま動かない十環を、少し離れた場所で見守っていたらしい船員達は、ようやく身じろぎしたのを見て声を掛けてきた。


「おい、坊主! こっちで飯でも食え」

「しっかり食べないと、長い船旅には耐えられないぞ」

 

 この時の十環は、この船が何処へ向かっているのかも知らず、のろのろと立ち上がり、船員達の輪に加わった。

 腰を下ろすと、薄い黄色をしたお米の様なものが盛られたお椀を差し出されたので、それを受け取った。銀のスプーンでそれを少しすくって口に入れると、ほんのり甘みを感じた。

 食感も、形も、甘みも、全然違うのに、おじさんとかじったあの果物を思い出した。


「坊主、名前は何て言うんだ?」


 船員の一人が、俯いたままの十環に聞いた。


 口の中のそれを咀嚼し、流れていかないのを無理やり飲み込んでから、十環は答えた。


「十季」



第一章完結です。後編が長くなってしまいましたが、一日に起こった出来事なので、ガーッと書きたかったのです。

プロローグに出てきた十季は、七年後の十環でした。

ようやく話がプロローグとつながりました。


才獄城編が終わり、現在に戻ります。

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