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十環伝  作者: kiori
才獄城編
5/92

家族・懐疑

 才は迷っていた。

 かつて、決断までにこれほど時間を要することがあっただろうか。

 無意識に机を指で叩いていて、それに白い眼を向ける妻の視線に気がつかずにいた。


「父上、どうかされたのですか?」


 母の無言の圧力に耐えかねて燦利はそう尋ねたが、才は小さく唸るだけで、息子の問いには答えなかった。

 どうやら耳に届いていないらしい。


「この虫のことだから、どうせ仕事のことでしょう。燦利、この虫は放っておいて、早く食べましょう。まったく……帰ってきても仕事をするのなら、どうして帰ってくるのかしら」


 燦利は、権力者達にさえ一目置かれ、町の者に畏れられ尊敬される父のことを、『虫』呼ばわりする母の事が一番恐ろしく感じた。

 

「……深刻な事件は起こっていないはずですが、何かあったのでしょうか」


 骨まで断ちそうな、鋭い毒を吐く母の声も聞こえない父にハラハラして、母の機嫌を窺いつつ、遠くから父を擁護しようと呟いた。


 しかし、それも嘘ではなかった。

 ひと月前、あのスリの男に下された罰の重さに恐れをなしたのか、最近はめっきり罪を犯すものが減ったのだ。結局、あの男はその罰を受けることはなく、腕に罪人の焼き印を押される罰に収まったが、あの日、血が流れたことに変わりはなく、あの出来事の噂は瞬く間に広がった。

 

 燦利は、ようやく傷が癒えてきたあの少女を思い出す。

 右手が使えるよになるのはまだ先だが、衰弱していた身体も回復して既に起き上がっている。話もするようになっていたが、自分のことはあまり話したがらなかった。年と、名前だけは『十環』だと答えた。


「そう言えば、あの子はどうしているの? とわ……とか言ったかしら?」

「えっ?」

「何をそんなに驚くのよ」

「いえ、別に何も……」


 頭の中を読まれたのかと思って意味もなく焦ってしまう。

 冷静沈着の塊みたいな夫とよく似た息子の珍しい反応に、母は怪しい目線を向けた。


「もうそろそろ動けるようになったでしょう? あそこは患者が多いから、動けるようになると追い出されるのよね」

「……」

 

 そうなのだ。まだ頻繁に消毒が必要なので許されているが、医院は人手不足で場所も限られているので、あと半月もしたら出て行くように言われるだろう。


「何歳だったかしら?」

「十歳だと、言っていました」


 年を聞いた時は驚いた。姿から見ればたしかにそれくらいの見た目だが、話し方や言葉、態度を見ているともう少し上に感じていた。


「じゃあ、燦利とは九歳差ね。まぁ、それくらい離れていれば間違いは起こらないわね」

「……? 間違いとは、何のことですか?」

「その子を、この家の女中として置いたらどうかしらと思って。長くいた女中頭が結婚して辞めてしまうし、丁度いいと思うのだけど。貧しいから教育を受けてないとは言え、十歳ならそれなりに働けるでしょう? 何もできなければ、私専用の小間使いでも良いし」


 お嬢様育ちの母の考えに、何故かむっとして、燦利は無意識に眉をひそめた。


「母上、あの子はとても頭のいい子ですよ。育ちのことはあまり詳しく話しませんが、父上に対する話しぶりも、そこら辺の役人なんかより度胸がありました。忍耐力もありますし、教えれば何でもできると思います。文字も読めるようですし、この前は」

「……あなた、そんなに頻繁に会いに行っているの?」

「え、いえ、そんなには……。時々です、たまに、本当に、暇なときだけです」

 

 本当に時々だ。五日に一回くらいだ。これは時々だ。それに、眠っていることが多いし、会話をしたのは数えるほどだ。

 燦利は何故か心の中でも、誰にでもなく言い訳を並べ立てる。


「暇などないって言っていたじゃないの。『父上の補佐で忙しいのです。結婚などまだ早いです』と言っていたのはどこの誰かしら? だからとてもいい縁談だったのに断ったのよ。あんな子どもに会う暇があるのなら、縁談の相手とお会いなさいな」


 何もやましいことはないはずなのに追い込まれていく。

 

「……母上、あの子の右腕は、今後これまでのようには動かないかもしれないのです。心配するのは、当然じゃありませんか。ただでさえ、女子一人では生きづらい世の中です」

「それは、そうだろうけど、あの子どもがそう望んだのだから仕方ないわ。あなたがそこまで心配する必要はないでしょう?」

 

 母は典型的なこの町の人間だ。地主の孫娘で蝶よ花よと育てられた母は、他人の気持ちに疎い。

 裏表のない正直なところは好きだが、根本的には理解できない。


 燦利は父と共に監獄で働いて、色んな事情の人間に出会ってきたことに感謝した。

 そうでなければ、母の言う通り、こんなにもあの少女を気になけることなどなかっただろう。


「それは、違う」


 いつの間にか、燦利と妻の会話を聞いていた才が、唐突に割って入った。


「何? 突然」


 妻が、全面的に否定されるのを、特別嫌う質だということを失念して、才は続けて言った。


「あの子の腕は、私のせいでそうなったのだ。私が、判断を迷ったせいでな。その償いはしなければならない」


 償い。父のその言葉を聞いて、燦利は胸にすっとはまった気がした。

 あの少女に抱く自分でも不可解な感情の中に、罪悪感があると自覚した。この町が、既にボロボロだったあの子を不幸のどん底へ突き落とした気がして。

 

 もしかしたら、父も同じような感情を抱いて悩んでいるのではないだろうかと、燦利は眉間の皺を深く刻んでいる才を見た。

 

「もう仕事の話はやめて。ここは家ですからね」


 仕事の話ではないのだが、これ以上言い募ると不味い雰囲気を感じ取り、才は静かに息を吐いて、目の前の食事に箸を伸ばした。


この時、才はある決断をした。

 

今回は、才と燦利と母の回でした。

母は、決して悪い人ではなく、恵まれた環境で育った世間知らずなお嬢様なだけです。仕事人間な才に、不満なだけ、とも言えます。


そして、次話で才が何を決断したのか分かります。

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