冷たいけど温かいもの
お父さんの広い胸に抱かれる夢を見た。じんわりと温かさが身体の中に沁みていき、陽だまりの中の匂いがした。左手に別の温もりを感じて見てみると、兄さんが壊れ物みたいにふんわり優しく握っていた。
涙が溢れてくる。 その涙を兄さんが優しく拭ってくれた。
目を開けたくない。でも、もう夢は醒める。
見知らぬ天井がぼんやり見えた。右腕が焼けるように痛い。少しだけ首を動かして見ると、肘と手首の間を布でぐるぐるに巻かれていた。でも手はくっついているようだ。指を動かして見ようと思ったが、上手く力が入らなかった。
「まだ無理だ。大人しくしていろ」
突然聞こえた声に驚いて全身に力が入り、同時に右手に激痛が走った。
声も出せずに悶絶していると、左から青年が視界に入ってきた。
「だから言っただろ」
霞む目を凝らしてみると、才の傍にいた燦利という青年だと分かった。
手を伸ばしてきたと思ったら、頬のあたりを指で撫でた。その仕草が、記憶の底にある兄のものと重なって、また涙が溢れてきた。すると、また燦利は手を伸ばして、同じように頬のあたりを指で撫でたので、それが涙を拭ってくれたのだと分かった。
「……痛むのか?」
さっきは周囲の視線に侮蔑を感じて、針でチクチク刺されているようだった。でも今自分に向けれている視線に、欠片も悪い感情がないのが分かった。
「一週間もすれば、ある程度痛みは引くだろうと先生が言っていた。傷のせいで熱も上がってるから辛いだろうが、あと四日の辛抱だ」
一週間……。あと四日?
ついさっきのような気がしていたけど、もしかして長い事眠っていた?
十環は意識が途切れる前の光景を手繰った。
「……っ」
「何だ?」
「あ……の、人は……?」
耳に心臓の音が鳴り響いて、その後は目の前が真っ暗になった。
「第一声が、それなのか?」
ため息が聞こえる。
燦利は不可解な存在を見るように、眉をひそめた。
「あいつは、監獄だ。今回は脱獄せずに、大人しくしている。生きてるし、腕も落としてないから安心しろ」
腕に焼き印が押されたことは黙っておく。
自分の腕がついているということは、あの人の腕を落としたのかと思ったが、見逃してくれたのだろうか。
十環は身体に響かないようにゆっくり息を吐いた。
「……もう少し眠れ。次に起きたら、何か食べたほうがいい」
柔らかい言葉を、素っ気なく言う声の主を見上げると、吊り目を少し細めて十環を見下ろしていた。
十環は一見冷ややかに見えるその目に温かさを感じるのは、心と身体が弱っているからだろうか、と心の中でぼんやり思った。
体中が熱くて朦朧としてくる意識の中で、左手には心地いい冷たさを感じることに気づいて、妙な安心感に包まれた。少しだけ左手に力を入れて、目を閉じた。
様子を見に来ると、涙を流していた。夢でまで辛い仕打ちを受けているのかと思うと胸が痛んで、小さな手に自分の骨ばった手を重ねていた。
ようやく整った寝息が聞こえてくる。弱々しく握り返された手をどうしたらいいのか分からず、燦利はそのまま傍にあった椅子に腰かけた。
清潔な衣に着替え、綺麗に拭われた姿を見れば、確かに少女に見えた。顔色は白く唇も青いが、とても端正な顔立ちをしている。
医者によれば右手に負った傷の他にも、身体には無数の擦り傷や痣があったらしい。
父は、手当てを負えた少女を見て「こんなに幼い女子だったのだな……」と呟いた。
確かにあの時、父と対するこの少女は、嫉妬するほど強く眩しかった。しかし、今目の前に横たわるのは、あどけない顔をしたか弱いただの子どもだった。
今まで、父の判断を疑ったことはなかった。どれほど重い罰だろうと、それが罪を悔い改めさせる為の最善だと信じられた。だから、あの男に下した罰が不当だったとは今でも思わない。
しかし、その罰が、別の人間を絶望に落とすかもしれないのだと、この少女を見て思った。自分の腕を代わりにして欲しいと懇願するほど。
他人の辛苦に疎いこの町の人間は、如何にも飢えた貧しい童の身なりをしたこの少女に、恐らく冷たく当たっただろう。ただ唯一、手を伸ばしたのがあの男だった。それが、気まぐれで、ただ利用したのだとしても、少女が何を求めているのかあの男には理解できた。少女にとっては、何よりも有難かったはずだ。
救いを求めた手を払う罪は問われることもなく、手を伸ばした人間の罪を問う。その不条理に気づいてしまった今、どこへ向かって進めばいいのか分からなくなった。
十環と燦利の回でした。
十環は痛々しい状況ですが、束の間の平穏に入ります。
燦利にとっては、これまで目標へとまっしぐらだったのに、初めての挫折?を味わう苦い出来事になりました。
燦利は、今後も十環に大きく関わってくる存在の様です。