目が眩むほどの
「待ってくださいっ!!」
野次馬の中から一人の童が、足を絡ませて転び無そうになりながら、才の前に飛び出した。
張り詰めた空気が唐突に両断されて誰も動けずにいると、いち早く反応したのは、才によく似た青年だった。
「何者だっ。無礼だぞ下がれ」
脇差を抜き前に出て庇おうとする青年を、才は手で制した。
「大丈夫だ。燦利、下がっていなさい」
「……はい」
燦利と呼ばれたその青年は、飛び出してきた卑しい身なりの童を一瞥し、才の言葉に素直に刀を鞘に納め、一歩下がった。
「何だ、あの小汚い小僧は……」
野次馬の中から誰かが吐いた呟きは、恐怖でかく乱状態の斜木の耳にも届き、少しだけ目に正気が戻った。
童は才の前に膝をつき、頭を地面に擦りつけた。
「……待て、と言ったか」
才はやはり淡白な声色で問うたが、脳裏では転がってきた童がここへ来た理由に大方の見当をつけた。
「これを……」
懐から斜木に預けられた巾着を取り出し、中の銀貨を広げて見せると、野次馬がどよめいた。
「あ、それは!」
刀を握り締めたまま硬直していた若い看守が、我に返って巾着をひったくった。
手縫いの巾着と、母親に仕送りしようと入れていた銀貨がそっくりそのまま入っていた。
「これは、た、確かに自分の者でありますっ」
若い看守は突然返ってきた金に混乱し、巾着を持って現れた童と目を剥いて震える斜木を交互に見た。
「なぜ、そなたが持っていた?」
才の声に、斜木は当初の策を思い出した。
「そ、そうだっ! こいつが盗ったんだ! そいつが持っているのが何よりの証拠じゃないか!!」
最早、この巾着がどうこうではなく、他に五十件もスリを働いて脱獄した囚人だとバレている時点でこの罰を逃れることはできないのだが、斜木は泡を食って叫ぶ。
「おいらじゃねぇ!! こいつがっ」
「黙れ」
才の声には魔力があるのか、その声を聞くだけで細胞が縮こまった。斜木は血が滲むまで唇をかみしめた。
「……中身は?」
才の声に背筋を伸ばして看守の男が「はい、そのままです」と答えた。
童に顔を上げるように告げると、予想したより強い光を帯びた瞳で見上げられて才は少し意外に思った。
「なぜ、これを持っていた。正直に答えよ」
「これは、預かりました」
「この男からか」
「はい」
そう答えた童を、斜木は恨めしい気持ちで睨んだ。本当のことだが、童の言うことなどいくらでも言い含められると思っていた。しかし、今はこの才という男が童の言う事だからと、無視するような愚かな男ではないことがよく分かる。
「なぜ、ここへ持ってきた」
「そう……言われたからです。正午にここへ持ってくるようにと」
裁きが行われる時間を見計らって、証拠を持った童が現れるように仕組んだという訳か。才は、間抜けなだけの男でもなかったらしい、と紙の薄さ程感心した。
「なるほどな。そなたは、この男に褒美をやるからここへ持ってくるよう言われたのだろうが、ただ身代わりにされただけだ。実際には金を返しに来ただけになったが……もう帰ってよい」
才は斜木に向き直り、目線だけで看守に刀を構えるように促した。
その仕草に再び恐怖が波寄せた斜木は、悲鳴を上げた。
「うああああああ!」
「静まれ、首を落とされたいか」
才はほんの脅しのつもりだったが、やりかねないと斜木だけでなく刀を構える看守も息を呑んだ。
「ま、待ってください!」
再び遮った声は空に高く響いた。
「この人は、私の恩人なのです」
「…………恩人? 何か、施しを受けたと?」
「はい。……私に、食べ物をくれました」
その答えに、斜木は目を見張り、民衆は嘲笑した。
この町には飢饉に喘いだ経験をもつ民はほぼいない。飢えの苦しさや虚しさを知らないのだ。
それはこの町が豊かな証拠だが、食べ物を施した相手のことを恩人だと言う貧しい童を嘲笑う民に、才は陰鬱な気分になった。
「お握りを二つ、くれました」
飢えた人間には、食べ物を与えてくれる存在は神様の様に見えるだろう。しかし、才はこの童が、これまでの経緯を理解できぬ無学な童には見えなかった。
「それは、そなたを利用するためだ」
「その後に、頭を撫でてくれました」
「騙そうとする相手を殴ったりはしないだろう。優しく接するのは当たり前だ。その男は、恩人などではない」
微かに語気が強まったのを、燦利だけは聞き逃さなかった。
才は、飢えた人間を利用しようとした斜木の所業に憤っていた。
「分かったら、下がれ」
そう告げられても動かない童に、民衆が騒めき始めた。斜木は瞬きをするのも忘れて、童に目を向けたまま身動きもしなかった。
才の目がほんのり細められたのを見て、燦利が童を連れ出そうと一歩踏み出した時だった。
「あの時、その人が、現れなければ、きっと私は死んでいました」
貴族の高官でさえ怯む才を真っ直ぐ見据えるその表情は、とても卑しい者には見えなかった。
その童は、手を震わせながら、ゆっくりだがしっかりとした声で言った。
「あの時、食べ物をくれたのは、町の人でも、あなたでもなく、その人だけです。私を助けてくれたのは、間違いなくその人です」
その瞳に宿る光は、ただの飢えた童のものではなく、才はその不思議な色の瞳から目が離せなかった。
「私は、昨日、この町に来ました。なので、あなたのことを知りません。町の人が、あなたのことを、凄い人だと言っているのを、聞きました。でも、私にとってあなたは、恩人を苦しめる、酷い人です」
その言葉に、民衆は声を上げて怒った。
「何て言い草だ!」
「才様に何て言う事を!」
才はただ、その童を見つめた。
そして、ゆっくり口を開いた。
「それで、そなたはどうしたいのだ? この男の罪を全て許し、放免しろと言うのか?」
空には先程までの突き抜ける青さを覆う分厚い雲が流れてきて、あたりは一気に暗くなった。
「私に、恩を返す機会を下さい」
幼い頃から神童と言われ、一を聞けば十まで理解した才にも、その言葉の意味をすぐには理解出来なかった。
「……恩を返す、機会?」
言葉の意味が分からずに問い返すのは、不思議な感覚だった。
才は細い目を眇めて、跪く童をみた。
「……どうしても、その人の腕を落とすというのならば、私が代わります」
思わず才は顔を歪めた。
才は、身分に隔たり無く罪人にとても重い罪を科す。
しかし、例外がある。それは、子どもだ。子どもに対してだけは、どんな罪を犯そうとも、身体に危害を加える罰を与えたことはない。
子どもは国の宝。その信条が才にはあった。
「なぜ、そなたが代わるのだ」
才の怒気を含んだその声は、一瞬にしてその場を静寂に沈めた。
静まり返った場に、看守が後ずさりで砂を引きずる音がした。
「今、その人の腕を落としたら、きっと死んでしまいます。いくら、いいお医者様がいたとしても、あんなに弱った気持ちでは、痛みに耐えられないでしょう。……そうなれば、私は恩を返す機会を失います」
この瞬間、誰が、この童を嗤えただろう。
斜木さえも、この瞬間は自分の処遇よりも、この童の言葉に飲み込まれていた。
「その人がいなければ、昨日消えていた命です。私が……どんな深い絶望から救われたのか、教えられたらいいのに。……騙されたんじゃない。確かに、その人に救われたんです。だから、どうかお願いします。私に、その人の罪を下さい」
長い、沈黙が落ちる。
才は、自分と同等以上の大人と対峙している気分だった。話し方も、教養のある者に思えるが、姿はまだ十二かそこらに見える。少年、とも言い難いような、細く小さな子ども。
あの細い腕を落とす。しかも、罪人の代わりに。あり得ない。
そう思うのに、才の心はかき乱された。青みを帯びた不思議な色の瞳に。
「……刀を、構えよ」
才が手をかざしたのは、童の方だった。
野次馬が全体的に後ずさりして、動揺がさざ波の様に広がっていく。
看守は、目に見えて震える手で刀を握り直し、上に構えた。
才の信条を知る燦利は、驚愕した。
どんな権力にも、卑劣な脅しにも屈しない父親が、唯一屈するのが、この貧しい童だというのか。
これが、女子であったならこんな決断は下さなかっただろうが、この幼い童を、一人の男子として認めたということだ。
それほどまでに、父を揺り動かしたということだ。
燦利は、汚い身なりをした童を、嫉妬に似た熱い感情で睨んだ。
心臓が棘のある何かに鷲掴みにされている。今までどうやって呼吸をしていたのか、分からなくなって、無理やり息を吸い込んだ。
耳鳴りがして、周りの音が遠く感じた。
「構えよ」
才が手をかざしたのが見えた十環は、右手を前に出して目線を地面に落とした。
耳に自分の呼吸の音だけが大きく響く。
怖い。怖い。でも、もう絶望に落ちるのは嫌だ。
何度も落ちた絶望の底から、ようやく見えた光だ。頭を撫でてくれたあの手が落とされるのを見たら、私はまた絶望に落ちる。
大丈夫。大丈夫。ここで絶望は終わる。
十環は、心の中で必死に唱えた。
才は手を上にかざしたまま自分の心が凪ぐのを待った。いつもならば、こんな決断はしない。引力のようなものに引っ張られている。そう感じた。
差し出された細く白い腕を見た。地面の一点を見つめる目が、睫毛を震わせる。
それに気がついた時、才の手はほんの少し動いた。
極度の緊張状態で才の手を見つめていた看守は、過敏に反応して弾かれたように刀を振り下ろしてしまった。
「待てっ!!」
才の言葉を受けて看守は我に返り、刀を止めたが、その刃は既に童の腕に食い込んでいた。切っ先がまず地面に刺さり、勢いを殺していたが、手首よりも少し下の肉は裂かれて、一気に真っ赤な血が溢れてきた。
民衆は悲鳴を上げ、童は既に気を失ってその場にくずおれていた。
才は素早く自分の着物の帯を解き、どんどん血が溢れてくる腕に巻き付けてから、童を抱え上げた。
「も、申し訳、ありま……せ……」
土気色の顔で看守は辛うじて言った。
「いや、そなたのせいではない。私がいけなかった。この者の意志の強さに眩んで、本質を見誤った」
「……父上?」
痛みに歪んだような今までに見たことのない顔をする父に、燦利は感じたことのない不安に襲われた。
才は、そんな息子を見て、それから地べたにだらんと放心している斜木を見た。
「この子は、女子だ」
誰も想像すらしていなかった。
自分の腕を差し出す汚い子どもが、女の子だと。
才がその子を抱えて走り去っていくのを、斜木はその場で見送った。周りを囲んでいた民が、道を空ける。才が走り去った後、少し遅れて燦利がその後を追った。
地面に残された赤く広がるものを見ながら、斜木は二十年前に死んだ娘のことを追憶し、泣いた。自分の腕が落とされるのでは、と思ったあの瞬間よりも胸が焼けるように痛かった。
半狂乱に叫び、涙を流す斜木の声につられたのか、空から大粒の雨が降り出し、赤く染まった地面を流していった。
十環視点はあまりなかったですが、ようやく十環がずいっと出てきました。
十環は女の子です。ただの優しい女の子ではない、目が眩むほどの強さを持った女の子を描いていくつもりです。